2.超絶技巧練習曲
カーバンクルとは、富をもたらすとされる半人半獣の存在だ。
人間の胎を借りて生まれ、時が来れば額の赤い宝石とともに、“カーバンクル”として新たに生まれ直す。
完全であり完璧であり完成された存在とされ、だからこそ精神は元より成熟し、肉体は最盛期を迎えたころから成長が緩慢なものとなる。
人知を超えた力、すなわち魔術と呼ばれる奇跡を行使し、国に繁栄をもたらすという。
そのカーバンクルを統括する貴族がファナーリ侯爵家である――――と、ここまでは私も一般常識として知っていた。
のだけれども。
「他事を考えるとはずいぶん余裕だな?」
容赦なく雨のように襲い来る氷の矢に、とっさに炎を生み出して壁を作る。
けれど、足りない。致命傷は避けたけれど、普通に痛くて冷たくて苦しいという見事な三重苦。
ぜひ、ぜひ、と情けなく切れる息。
こっちがふらっふらなのに、我が父上様たるグラナート・ファナーリ侯爵は優雅にそこにたたずむばかりだ。
母親だった人に、この男に売られてから、二年が経過した。私はつい先日、十歳を迎えた。
この二年間、我ながらよく生きていられたものだと思う。
あれもこれもそれもどれも全部、この父上様のおかげである。もちろん嫌味だ。
グラナート・ファナーリ。
カーバンクルは赤い宝石を額にいただくのが定説である中、青いガーネットをその額にいただく異端のカーバンクル。
長く伸ばされた金の髪、同じ色の瞳を宿すとんでもない美貌の、どこからどう見ても二十代前半くらいにしか見えないこのひとの実年齢は、謎に包まれているそうだ。
半人半獣の真夜中の王。それがグラナート・ファナーリである。
「ああ、そろそろ時間か。残念、ここまでだ」
ひ、と息を呑む間もなく、死角に生まれたつららがそのまま私の右足を貫いた。
痛くも冷たくもないのは、ただ衝撃が大きすぎて受け止めきれないからにすぎない。
その場に崩れ落ちる私を睥睨し、軽く肩を竦めてから、父上様は従者の手で上着をはおり、カツカツと足音を立ててぼろぼろの私の前まで歩み寄る。
「死にたくなければせいぜい励めよ。私の”息子“と名乗るならばな」
「……はい。心得ております」
スラングしか知らなかった私が、この二年間で叩き込まれた敬語で呻くように答えれば、父上様はそれはそれはお美しく笑ってそのまま去っていった。
同時に、私の元に駆け寄ってくるのは、唯一私に“与えられた”存在である侍女、ベルである。
「ああ、“ぼっちゃま”、お労しい。失礼いたします、すぐに治癒させていただきますわ」
「…………うん」
亜麻色の髪と紫の瞳を持つ、本人曰くちょうど十八のころの見た目であるのだという可憐な要望の彼女の額で輝くのは、ストロベリークォーツ。
彼女もまたカーバンクルであるけれど、その額の石の質は世間的には大したものではないのだそうだ。
とはいえベルの魔術は『治癒』という便利なものであることから、このファナーリ侯爵家の侍女として迎えられ、そのまま私の侍女となった。
ベルの手からあふれる、彼女の額の石に封じ込められた鉱物の結晶のようなきらめきが、私の全身に降り注ぐ。
痛みが遠のき、完治とまではいかなくても、日常生活に不自由のない程度には傷が癒えたのを感じて立ち上がる。
「ありがとう、ベル」
「いいえ、“ぼっちゃま”。礼には及びませぬ。これがわたくしの役目にございますゆえ」
愛らしく微笑むベルにあいまいに頷きを返す。
そろそろこのあたりでツッコミが入るかもしれない。
“ぼっちゃま”とは? と。
そう、私、リュシオル・ファナーリは、肉体的には間違いなく女に分類されるはずなのだけれど、対外的には男として扱われているのである。
――選ばせてやろう。
――この国の礎の小石の一つとなる“男”として生きるか。
――あるいは、私の政略の道具となる“女”として生きるか。
二年前、この屋敷に連れてこられたその場で、私は父上様にそう選択肢を提示された。
どちらにしろ地獄のような選択肢だ。
前提として私は女である。ならば普通に女を選ぶべきだったのかもしれない。
だがしかしだ。普通にこのいけ好かない男の政略とやらのために女を選ぶのはなんというかこう、ぶっちゃけイラッとした。
お国様、なんていう精神なんざかけらたりとも持ち合わせていない。
ただの反骨精神、たったそれだけのために私は“男”を選択した。
あのとき父上様は意外そうに瞳を瞬かせて、それから面白そうに笑ってくれたものである。むかつく。
「間違えたかもなぁ」
「ぼっちゃま?」
「なんでもないよ」
まさか男を選択したせいで父上様自ら私の戦闘訓練を買って出てくださるとは思いもしませんでしたとさ。
カーバンクルの生まれる不思議と神秘の国、それがこの国だ。
他の国でもたまに生まれるらしいけれど、この国ほどカーバンクルの出生率が高い国はない。
だからこそ何かと狙われがちなこの国は、頻繁に他国と戦争を起こしがちで、そのたびにカーバンクルは戦場に立つ。
ファナーリ侯爵家はその戦績でのし上がった家でもある。
そういうわけで、ファナーリ侯爵家の男として生まれたことになっている私は、相応の戦闘能力を求められるのだ。
それは解る、解るけども。
「…………………………いややっぱり間違えたよね」
先ほどよりも小さく呟いたおかげで、ベルには気付かれなかった。
それをいいことに、彼女を背後に控えさせて自室へと足を急がせる。戦闘訓練が終わっても、やることは山積みだ。普通に座学も必要で、休んでいるひまはない。
「ぼっちゃま、今日のお食事には“スパイス”を増やすよう仰せつかっております」
「……そう」
わあい嬉しいな、なんて言えない程度には、まだ私はこの状況について納得できていない。
スパイス、それすなわち毒物である。
私の侍女、すなわち私にまつわるすべての世話を担っているベルにとっては、雇い主である父上様の命令は絶対で、逆らうまでもない当たり前のことで、私の安否は問題ではないのだ。
毒物に身体を慣らしていくことも、当たり前のこと。必要なこと。
おかげさまでだいぶ慣れてきたけれど、またここでしばらくベッドとお友達に……なることも許されないのだろう。
うーん。やっぱり。
「間違えたなぁ」
すっかり口癖になった台詞をまた呟いて、私は今日も机に向かう。




