4. おとぎ話の結末は
それ以降ずっとコレットは部屋に籠っていた。
あんなに好きだったお茶会の誘いも断り、何をするという訳でもなく、ただぼんやりとして日々を過ごしていた。
手には、苺のシャルロットに結んであった赤いリボンを握りしめたまま。
「……エミール」
ネリは傷心のコレットを気にかけながらも、あえて普段どおりに接していた。
遠い目をして窓から外を眺めているコレットに、ネリがお茶の準備をしていると、部屋のドアが勢いよく開いた。
中へ入って来たのは、コレットの父であるアルトワ伯爵だった。
「コレット、いつまで待たせる気だ!? 見合いの相手を釣書きの中から選ぶように言いつけてあっただろう? お前が選べないのなら私が決めるぞ」
「待って、お父様。もう少しだけ待って下さい」
「妙齢の令嬢はお前だけじゃないんだ。のんびりしていたら有望な男は他家に取られてしまう」
「そんなこと言われても……」
「今日中に選びなさい。出来ないなら私が選んだ男と見合いをしてもらう。分かったな!」
用件だけを伝えて、アルトワ伯爵はさっさと部屋を出て行った。
お茶を淹れていた手を止めたネリが、様子を窺うようにコレットを見る。
失恋したばかりで放心状態だったコレットは、父の言葉をうけて顔を強張らせていた。
「……お嬢様」
ネリの気遣う声は、コレットの耳には届いていなかった。
虚ろな目でドアを見ているコレットの頭の中はエミールのことでいっぱいで、他のことが入る隙は無かった。
もうエミールのことは忘れなければと思っても、どうしても頭から離れずに彼のことばかりを考えてしまっていた。
お店の裏口で初めて会った時の驚いた顔。
薔薇のアップルパイでわたしを驚かせた時の、いたずらが成功したような嬉しそうな顔。
澄んだ水色の瞳でまっすぐにわたしを見て、何を言っても受け止めてくれる。
いつも優しい笑顔で温かく迎えてくれる。
エミール。
会いたい。
コレットは部屋を飛び出していた。
今日は木曜日。エミールのお店が開くのは明日。
今日中にお見合い相手を決めなければいけない。
でも決まってしまったら、もうエミールには会えない。
……エミール、会いたい。あなたに会いたい。最後にもう一度だけ。
コレットの足は、森のはずれのエミールの店へと向かっていた。
きっと閉まっている。それは分かっている。
でも、もしかしたら。
もしかしたら、そこにエミールがいるかもしれない。会えるかもしれない。
そう思うと、コレットの足は勝手に動いていた。
やっと辿り着いたそこは、ひっそりと静まり返っていた。
いつも店の周りに漂っている甘い匂いもない。
エミールは、そこにはいなかった。
べそをかきながら、コレットは通りを歩いていた。
エミールとは彼の店で会うだけで、彼の家が何処にあるのかも知らない。
連絡先も聞いていない。
コレットは今更ながら、自分がこんなにもエミールのことを知らないのだと思い知らされた。
またね、そう言って別れたあれが最後だったのだと、もうエミールには会えないのだと思うと、じわじわと目の前の景色が霞んできた。
ドンッ。
「あ、ごめんなさい」
ぼんやりと通りを歩いていたコレットは、ふいにそこに立っていた誰かにぶつかってしまった。
思い切りぶつけて赤くなった鼻をさすりながらコレットが顔を上げると、驚いたように自分を見ている澄んだ水色の瞳があった。
「……エミール」
あまりにも彼のことばかり考えすぎて幻でも見ているのかと、コレットがぽかんと口を開けていると、エミールが目を見張ったまま彼女の顔を覗き込んだ。
「コレット? どうしたの? こんな所で君に会えるとは思わなかった」
あんなにも会いたくて仕方なかったエミールが目の前にいることが信じられず、コレットはまるで夢でも見ているような心地だった。
「……あなたに会いたかったの」
また、つい本音がぽろっと漏れてしまったことにコレットは気づいていなかった。
「僕も、金曜以外も君に会えたらいいなと思っていたんだ」
嬉しそうに笑うエミールの顔を、眩しそうにコレットが見上げた。
エミールが立っていたのは、新しく出来たばかりの菓子店の前だった。
中が気になるけれど、男一人で入るのもどうかと迷っている所に、コレットがぶつかってきたのだった。
エミールの誘いを受けて二人で中へ入ると、そこは既に大勢の客で賑わっていた。
真新しい真っ白な壁に、白い大理石の床。
天井近くからは深緑色の厚みのあるカーテンがかかっていて金のタッセルで留められている。
白いテーブルクロスがかけられたテーブルに、深紅のベルベットの椅子。
大きなクリスタルのシャンデリアがきらきらと輝いて眩しく、大きな観葉植物が店内のあちこちに置いてある。
店内を見回しながら、コレットがぼんやりと呟いた。
「……エミールのお店の方が素敵だわ。温かみがあって、わたしは好き」
「ありがとう」
何気なくシャンデリアを見上げていたコレットの前に、覆いかぶさるようにエミールの顔が現れた。
並んで立っていたエミールがコレットの独り言を聞きつけて、横から彼女の顔を覗き込んだのだった。
「!?」
驚いて口を開けたままのコレットを、エミールは面白そうに目を細めて見ていた。
やがて店員が席へ案内しに来たのを見て、エミールが顔を赤くしたまま口を開けているコレットの手を取った。
突然エミールに手を触れられたコレットが、きゅっと唇を噛んで、恥ずかしいような嬉しいような複雑な顔で視線を彷徨わせる。
そんなコレットの反応を楽しむように、エミールがぎゅっと強く彼女の手を握った。
向かい合って座り、時々視線を合わせて互いに微笑み合いながら、二人は思いがけないひとときを楽しんでいた。
エミールは自分の店では、コレットにばかりお菓子を出して自分は紅茶を飲むだけだったので、コレットには自分の目の前でケーキを食べているエミールの姿が新鮮だった。
エミールは一口食べては美味しそうに頬を緩め、小さく頷き、そして目を閉じて堪能していた。
初めて見るそんなエミールの様子を、コレットはフォークを片手に持ったまま、とろんとした表情で見ていた。
「エミールって、こんなに甘い顔をしてケーキを食べるのね。……もしかして、この顔を他の人にも見せたりするのかしら。なんだか妬けてしまうわ。誰にも見せたくない。わたしだけのエミールだったらどんなに幸せかしら。……大好き」
ケーキを食べていたエミールが驚いた様子で顔を上げ、まじまじとコレットを見た。目を見開いているエミールの顔が、少しずつ赤く染まっていく。
「好きよ、エミール」
やがて困惑した表情でコレットを見ていたエミールが、堪りかねたように口を開いた。
「……あのさ、君、自覚してる? ……その、さっきから心の声が駄々漏れだよ」
「え!? ど、どこから!?」
「え!? それを僕に言わせるの? ……参ったな」
恥ずかしそうに視線を彷徨わせたエミールが、コレットの無言の圧に押されて、ぼそぼそと呟いた。
「……エミールってこんな顔をしてケーキを食べるのね。誰にも見せたくない。わたしだけのエミールだったら幸せ。……大好きって」
「最初からじゃない! 黙って聞いているなんてひどいわ! どうして止めてくれないの!?」
顔を真っ赤にしたコレットが、思わず大きな声を上げて椅子から立ち上がった。
そんなコレットをエミールが呆気に取られて見上げている。
周囲にいる他の客も、いきなり店内に響いたコレットの声に驚いて一斉にこちらを振り向いていた。
それを見たコレットはその周囲の視線に居たたまれなくなって、そこから逃げるように店を飛び出した。
好きだなんて、言うつもり無かったのに。
最後にもう一度だけ会いたかっただけなのに。
心ならずもエミールに告白してしまったコレットは、恥ずかしくてたまらなかった。
勝手に好きになって、一人で騒いで。
きっと変に思われた。
ごめんとエミールに断られるのが怖い。
もう彼の顔を見られない。
少しでもエミールから離れたい。遠くへ行きたい。
その一心でコレットはひたすら走った。
それなのに、自分を追いかけてくる足音がする。
放っておいて欲しいのに、エミールが追いかけてくる。
泣きそうになりながらコレットはエミールに追いつかれないように必死に走った。
けれど、コレットとエミールとではコンパスの長さが違っていて、長身のエミールは、あっという間にコレットに追いついてしまった。
追い詰められたコレットは、悪あがきと知りながら、目の前にある大木に走り寄って、その幹に顔を伏せた。
「コレット」
追いついたエミールが、後ろからコレットの名前を呼ぶ。
コレットは木の幹に顔を伏せたまま黙っている。
「コレット、こっちを向いて」
「嫌よ。恥ずかしくって、もうあなたの顔を見られないの」
エミールがゆっくりと近づいて、コレットの後ろに立った。
その気配を感じながらもコレットは振り向かない。
「僕は嬉しかった。君が同じ気持ちでいてくれてるって分かったから」
「……え?」
思いも寄らない言葉に、思わずコレットが顔を上げてエミールを振り返った。
いつもと同じ優しい眼差しでコレットを見ているエミールの顔に、どこか緊張の気配が見えた。
「本当は、僕の方から先に伝えたかったんだ」
少しだけ間を置いたエミールが、はにかみながらコレットの手を取った。
「コレット、君が好きだ。僕と結婚して欲しい」
コレットは言葉が出なかった。
夢でも見てるのかと、ぽかんとエミールを見ていた。
そして、じっと自分の瞳を見つめて返事を待っているエミールの姿に、やっとそれが夢ではなく現実なのだと実感して、じわじわと目頭が熱くなってくる。
「嬉しい」
コレットの言葉に、ほっとしたようにエミールが頬を緩めた。
「でも、……だめなの」
「どうして?」
「お見合いをしなければいけないの。お見合い相手を選ぶようにお父様に言われているの」
うつむきながら声を絞り出すコレットを見たエミールは、顎に指を当てて少しの間考えていた。
そして何かを決意したようにエミールが口を開いた。
「それ、僕でもいいかな? 君のお見合いの相手」
ぱっと顔を上げて一瞬目を輝かせたコレットが、すぐに諦めたように小さく首を振った。
「……釣書きの中から選ぶようにお父様に言われているから」
「釣書き?」
こくりと頷いたコレットが、諦めきれずにエミールを見上げた。
彼が貴族でないことが残念で堪らなかった。
「あなたが貴族なら良かったのに」
「ということは、君は貴族なんだね」
少し驚いた顔で口を開いたエミールに、コレットが気まずそうに目を逸らした。
「黙っていてごめんなさい」
「いや、そんな気はしていたし、それならかえって話が早い」
「どういうこと?」
自分が貴族であると言う秘密を打ち明けたのに、それを身分違いと気にかけることなく、あっけらかんと笑うエミールにコレットは戸惑いを隠せなかった。
「コレット、君の家名を教えてくれる?」
「……アルトワよ。コレット・ドゥ・アルトワ」
「アルトワ? アルトワ伯爵家か」
「知っているの?」
家名を言っただけですぐに伯爵家と察したエミールに驚いているコレットに、エミールが優しく微笑みかけた。
「コレット、君の家に結婚の申し込みに行くよ。僕を信じて待っていて欲しい」
そう言ってエミールはコレットの手を取り、その甲に口づけた。
本当なら飛び跳ねるほど嬉しいはずなのに、コレットの胸はきゅっと締めつけられた。
コレットに求められているのは、家柄の釣り合う相手との見合い結婚であって、身分違いの恋愛結婚ではない。
あんなに嫌でたまらなかったネリの言葉が、コレットの頭の中で繰り返される。
身分違い。
立場をわきまえなさい。
片思いだと諦めていたのに、わたしの気持ちを受け止めてくれた。
自分が見合いの相手になると、結婚を申し込みに来ると言ってくれた。
それだけで充分。幸せ。
これ以上を望んでは、この優しい人をきっと傷つけてしまう。
コレットは心を決めて、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、きっとお父様が許してくれない。せっかく来てもらっても、あなたに嫌な思いをさせてしまう。そんなの嫌よ。あなたを傷つけて嫌われてしまうくらいなら、このまま大好きなままでお別れしたいの」
唖然とするエミールを見上げたコレットが、手を伸ばしてエミールの首に抱きついた。
「エミール、大好きよ。最後にもう一度会えて嬉しかった」
そう言い終えると、震えながらエミールの頬に口づけた。
驚いた顔で自分を見つめるエミールの水色の瞳を、涙をいっぱいに溜めた目で見つめ返したコレットは、さようならと小さく呟いて、そして、そのまま振り返らずに走り去っていった。
次第に小さくなっていくコレットの後姿を、エミールはずっと見ていた。
「必ず君を迎えに行く」
屋敷に戻ったコレットは、自室のベッドの上にうつぶせになって声をあげて泣いていた。
そんなコレットに溜息を吐きながらネリがいつもと同じ言葉を繰り返している。
「身分違いは最初から分かっていた事でしょうに。ただの菓子屋と伯爵令嬢、どう考えたって無理ですよ。諦めて釣書きでも見て下さいな。さっさと見て行かないと今日が終わってしまいますよ」
「ひどいわネリ。大失恋したばかりなのよ? そんなもの見る気になんかなれないわ」
がばっと体を起こしてベッドから降りたコレットが、部屋の真ん中にあるテーブルの上ある釣書きの山を腹立たし気に両手で崩した。
大量の釣書きが、ずさささっと音を立てて床の上に落ちる。
涙目でそれを睨みつけたコレットが、再びベッドに戻り、うつぶせになっておいおい泣き出した。
釣書きの山が崩れ落ちるのを悲鳴を上げながら見ていたネリは、しばらく放心状態に陥っていたが、やがて気を取り直して、ぶつぶつ文句を言いながらそれらを拾い始めた。
釣書きは中がめくれた状態で床の上に散らばっていて、それを一通一通拾い集めていたネリが、その中の一通に目を留めた。
「……あら? これって」
そこに描かれていたのは、柔らかそうな淡い金色の髪に水色の瞳の青年の姿だった。そのよく見知った顔に驚いたネリが、食い入るように名前を確認する。
「あらまあ。こんなおとぎ話みたいなことってあるのね。……お嬢様、これを見てくださいな」
ネリが差し出した一通の釣書きに、コレットが嫌そうに視線を向けた。
「何よネリ、今はそれどころじゃないの。思いっきり泣きたい気分なの。……え、……ロシュフコー公爵家三男エミール。……ええっ、ええ――――!?」
コレットが瞼をこすりながらネリから渡された釣書きを見ていると、父のアルトワ伯爵が血相を変えて部屋に駆け込んで来た。
「コレット、大変だ! お前にロシュフコー公爵家からの結婚の申し込みが来た!」
コレットとネリが顔を見合わせ、がばっと抱き合った。
「最高のハッピーエンドだわ!」
これにて完結です。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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