3. 苺のシャルロット
それからというもの、コレットは毎週金曜の午後にエミールの店を訪れるようになっていた。
もちろん、お菓子を買いに行くのではなく、エミールに会うために。
そしてエミールの方も、いつもコレットの為のお菓子を用意して彼女が店を訪れるのを待っていた。
気づけば、二人とって金曜の午後は週に一度の大切な時間になっていた。
エミールの作るお菓子は上品で美しく、貴族の令嬢達にとても人気があった。
そのため開店時にはいつも、お菓子を求める貴族の使用人達で行列が出来ていて、ショーケースに並べられたお菓子はあっという間に売り切れてしまう。
「これだけ人気なのだから、人を雇って、もっとたくさん作ったらいいのに」
皮張りの椅子に座っているコレットが、目の前で紅茶を淹れているエミールを見上げた。
甘い香りの立ち上るカップをコレットの前に置いたエミールが、軽く肩を竦めながら答える。
「趣味でやっていることだから」
「欲が無いのね」
お菓子を取りに厨房の方へ行くエミールの後姿を見ながら、コレットは淹れてもらった紅茶を飲んだ。
……わたしに、エミールのお手伝いが出来たらいいのに。
何気なく浮かんだ思いつきが、あっという間にコレットの脳内で鮮やかに展開されていった。
エミールの横で卵を割っているところ。
二人で交互に生クリームを泡立てているところ。
エミールと並んで一緒にオーブンの中を覗き込んでいるところ。
一緒にケーキの飾りつけをしながら苺を食べさせ合っているところ。
エミールがコレットに、あ~んと口を開けさせて出来上がったケーキの味見をさせているところ。
「……甘いわ」
「砂糖は控えめにしたつもりだけど」
お菓子を乗せた銀製のトレイを持ったエミールが、コレットを見ながら首を傾げていた。
「ちっ、違うの。これは、ただの妄想で!」
「どんな?」
エミールの澄んだ淡い水色の瞳に見つめられると、つい心の中で考えていることを全部話してしまいそうになる。
さすがに妄想の話は恥ずかしすぎると、コレットは必死に話を逸らした。
「あの、えっと、その、そうっ。あなたのご家族は?」
「僕の家族?」
「え、ええ。……わあっ、可愛い!」
コレットは、目の前に置かれたお菓子に一瞬で心を奪われた。
「苺のシャルロットだよ」
それは、さくっと軽いビスキュイを外側に並べて丸く囲んだ中に苺のババロアが入っていて、その上をアプリコットジャムで艶出しをした大粒の苺で飾ってあった。
側面に並ぶビスキュイの上から赤いリボンが結んである。
エミールが、その赤いリボンを解いて、苺のシャルロットを銀製のナイフで切り分けている。
真っ白な皿の上に、苺のババロアのピンクと大粒の苺の赤。
その色味が鮮やかで美しく、コレットは目を輝かせた。
「どうぞ」
切り分けた苺のシャルロットをコレットの前に置き、エミールは自分も席に着いた。
そして美味しそうに食べるコレットを見ながら、思い出したように口を開いた。
「僕の家族は、普通のどこにでもいる家族だよ。両親と兄が二人」
「五人家族なの?」
「そう。僕は三男だから、一番上の兄が家を継いで、二番目の兄がそれを補佐することが決まってる。父も健在だし、好きにさせてくれてる」
「……代々続いた名のあるお菓子屋さんなのね」
「うん? ん、まあ、そんなものかもね」
エミールが長い睫毛を伏せて紅茶を飲んだ。
「……母は色々しているみたいだけど、僕は関係ないから」
「お母様?」
エミールが小さく零した声が聞き取れずに、コレットが首を傾げた。
何でもないと軽く首を振ったエミールが、残っている苺のシャルロットの皿に手を触れた。
「良かったら、これ持って帰って」
「ありがとう。ネリ、お代を」
「いいんだ。帰ってからも、君に僕のことを思い出して欲しいから」
「……わたし、初めて会った時から、あなたのことばかり考えているの」
つい口から本当のことが漏れて、コレットは慌てた。
こんなこと言うつもりじゃなかったのに、エミールといると口が勝手に動いてしまう。
まだ出会ったばかりなのに変に思われるかもしれないと心配になって、コレットは下を向きながら言い訳の言葉を探していた。
「僕もだよ」
ふいに降って来た言葉に驚いてコレットが顔を上げると、自分を見ているエミールと目が合った。
「気がついたら、いつも君のことを考えてる」
エミールは優しい眼差しで、真っ直ぐにコレットを見つめていた。
やがて自然と見つめ合った二人の視線が絡みあう。
けれど、すぐに我に返ったコレットが、その気恥ずかしさに耐えられずに下を向いた。
少ししてコレットが躊躇いながら顔を上げると、いつのまにかエミールの顔がさっきよりも近くにある気がした。
コレットは赤い顔で戸惑いながら、どうしたらいいのか分からずにエミールを見ていた。
エミールの顔が少しずつ近づいて来る。
コレットは自分の心臓がばくばくと音を立てているのを他人事のように聞いていた。
今はもうエミールの淡い水色の瞳がすぐ目の前にある。
エミールの形のいい鼻先が触れそうで、甘い息がかかりそうで、どきどきする。
「あらま――、この紅茶ったら本当に美味しいわ――――」
突然その場に響いた声に、コレットとエミールがびくっと固まった。
後ろに控えていたはずのネリが、いつの間にかテーブルの横に仁王立ちになっていた。そして据わった目で二人を見ながら、ごくごくぷはーっと音を立ててコレットの紅茶を飲み干した。
鼻先が触れそうなほど顔を近づけていたコレットとエミールの二人が、呆気に取られてぽかんとネリを見ていたが、やがて気まずそうに体を離して、照れたように顔を見合わせた。
テーブルの上にティーカップを置いたネリが、黒縁眼鏡を中指で押し上げながらコレットを見た。
「お嬢様。お茶も飲み終えたことだし、そろそろお暇致しましょう」
「……え、あ、そうね」
ネリの有無を言わさない口調に押されて、コレットが頷く。
そして今度はエミールの方を向き直ったネリが、淡々とした口調で尋ねた。
「エミールさんでしたっけ。宜しければそのお菓子、包んで頂けます?」
「……え、あ、うん」
ネリの強い視線に押されたエミールが、苺のシャルロットが乗った皿を手に厨房の方へとそそくさと歩いて行った。
「またね」
そう言ってドアの前で見送るエミールと別れて、コレットはネリと二人で森の中を歩いていた。
なんとなく気まずくて、自分からは話しかけづらくて、コレットはずっと黙っていた。
そんなコレットを横目で見たネリが、諭すような口調で話しだした。
「ダメですよ、お嬢様。わたしがいなかったらどうなっていたと思います?」
「……どうもならないわよ」
「じゃあ、さっきのは何なんです?」
コレットが顔を赤くして黙り込んだ。
はあーっと大きく溜息を吐いたネリが、呆れたように言葉を続ける。
「立場をわきまえるようにって忠告しましたよね。身分違いで結局傷つくのはお嬢様なんですよ?」
「……だって、もう、手遅れよ。……彼を、エミールを好きになってしまったの」
立ち止まったコレットが、訴えるようにネリを見た。
「それなら、もうあの店へ行くのはやめましょう」
ネリの言葉に驚いたコレットが目を見開き、そんな彼女をネリが厳しい目で見返した。
ネリの本気を悟ったコレットの目にみるみるうちに涙が溜まっていく。
エミールからの土産を片手に持ったネリが、そんなコレットの頭に自分の頭をこつんとくっつけて言い聞かせるように囁いた。
「恋をしてみたかっただけですよね、お嬢様。大丈夫。あの人が初恋の相手なら、いつかきっと素敵な思い出になりますよ」
コレットの目の淵に溜まっていた涙がぽろぽろと零れ落ちる。
小さく嗚咽を漏らすコレットを慰めるようにネリが、彼女の髪を優しく撫でた。
しばらくしてネリに促されるようにしてコレットが歩き出し、そして二人は黙ったまま、また来た道を戻り始めた。