2. 薔薇のアップルパイ
次の金曜の午後をコレットは指折り数えて待っていた。
あの日からずっと、森のはずれの菓子屋の裏口で会った若い男のことが頭から離れなかった。
あそこへ行ったら、あの人にまた会えるかしら。
そう思うと、何故だか胸がそわそわして落ち着かなくなる自分に戸惑いながら、コレットは金曜が来るのが待ち遠しかった。
そして、首を長くして待っていた金曜の午後。
ネリと一緒に出掛けようとしていたところを、コレットは父であるアルトワ伯爵に掴まってしまった。
釣書きには目を通したのか、良さそうな相手はいたのか。
部屋に押しかけて次から次に尋ねてくる父に圧倒されながら、コレットは必死に言い訳を考えていた。
せっかくの金曜の午後なのに、早くしないとまた閉まってしまう。
あの人に会えなくなってしまう。
「あ、えっと、良さそうな方がたくさんいらして。でも、まだ、決め切れなくて。だから、もう少し……」
「そうかそうか。ちゃんと目を通したのか。それならば良い」
横から「嘘ばっかり」という視線を送ってくるネリを無視したコレットは、笑顔で父を部屋から送り出し、そのまますぐに身を翻して屋敷を抜け出した。
コレットとネリが森のはずれの菓子屋に着いた時には、開店からだいぶ時間が経っていた。
これほど人気の店ではもう売り切れているかもしれないと、前回のことを思い出したコレットがドアに近づいてみると、ドアノブにはまたもや「完売」の札がかけられていた。
「また間に合わなかった……」
コレットは膝からがっくりと崩れ落ちた。
あんなに楽しみにしていたのにとコレットがドアの前で気落ちしていると、何か動くものが彼女の視界の端に入った。
何気なく顔をあげたコレットの目に映ったのは、ドアの向こうのカーテンを開けてこちらをみている男の姿だった。
コレットを見留めた男が「ちょっと待っていて」という口の動きをさせてすぐに、ガチャリと鍵が開く音がした。
そしてカランと軽やかなベルの音が響いて、コレットの前でドアが開いた。
てっきりもう会えないと諦めかけていたコレットが、信じられない思いでその場から立ち上がる。
中から出てきた男が、淡い水色の目を細めて彼女に微笑みかけた。
「やあ、また会えたね」
「でも間に合わなかったみたい」
「大丈夫。中へどうぞ」
ドアの前に立っている男に促されるがままにコレットが中へ入り、ネリがそれに続いた。
すでに片づけを終えたらしい静まり返った店内に案内されたコレットとネリが、ゆっくりと中を見回す。
優しいクリーム色の壁に、落ち着いた色合いの寄木張りの床。
天井近くからかけられている長いカーテンは壁と同じクリーム色で、小振りなシャンデリアや壁掛けの小さな照明の柔らかな光とが調和し合い、落ち着いた空間を作り出している。
店内で飲食も出来るのか、天板が大理石のウォールナットの丸テーブルが一卓と、焦げ茶色の皮張りの椅子が二脚置いてある。
コレットは、上品でゆったりとしたその雰囲気が、男の印象そのままだと思った。
「素敵なお店ね」
「ありがとう」
「あなたが一人でここを?」
「そうだよ。一人で作って一人で売ってる。だから金曜の午後だけ」
そう言いながら、男が静かに皮張りの椅子を引いて、コレットをそこに座らせた。そして自分はショーケースの向こうにある厨房の方へと歩いて行き、そこで何か手を動かし始めた。
席に着いているコレットが、少し背伸びをするようにして、向こうにいる男の後姿に話しかけた。
「あの、どうして、わたしを中に入れてくれたの? もう閉店なのでしょう?」
「君を待っていたんだ。なんとなく、また会えるような気がして」
話をしながら、銀製のトレイの上に何かを乗せた男が静かにコレットの方へ歩いてきて、トレイの上の物をテーブルの大理石の天板の上にそっと置いた。
そこには白い丸皿の上に敷かれたレースの敷き紙の上に、赤い薔薇の花束が乗っていた。
その鮮やかな美しさにコレットが見惚れていると、男が銀製のケーキサーバーで薔薇の花を一つ皿に取り分けて、それをコレットの前に置いた。
よく見てみると、薔薇の花だと思ったものは焼き菓子だった。
「どうぞ。薔薇のアップルパイだよ」
「お皿の上に薔薇が咲いているみたい! なんて素敵なの」
「ふふっ」
目を輝かせるコレットを見て、男は小さく笑った。それをコレットが不思議そうに見上げる。
「……わたし、何かおかしなことを言ったかしら?」
「そうじゃないよ。この前パート・ド・フリュイを見たときの君がとても可愛らしくて、またあの顔が見たいなと思ってこれを作ったんだ」
「……わたしのために、……わざわざ作ってくれたの?」
にこにこと微笑みながら頷いている男の顔を見たコレットは、とくんと自分の胸が波打つ音が聞こえた気がした。
赤い薔薇のアップルパイは、白い皿の上で本当に咲いているように見えた。
それがあまりに美しくてナイフを入れるのが惜しく、コレットはしばらくそれを眺めていた。けれど、やっぱりせっかく作ってくれたのだからと思い直して、コレットはその薔薇の花びらを一枚口に入れた。
薄切りの林檎で作られた薔薇の花びらは、甘くてほんのりお酒の香りがした。
「……美味しい」
「紅茶もどうぞ。美味しい林檎がたくさん手に入ったから、アップルティにしてみたんだ」
白地にピンクの薔薇が描かれたティーカップからは湯気があがっている。
そこから漂う甘酸っぱい香りに誘われたコレットが、カップを手に取った。
目を閉じて林檎の香りをいっぱいに嗅ぎながら、澄んだ琥珀色の紅茶を口に含むと、優しい甘みが口の中に広がる。
「ほんのり甘いのね」
「林檎のジャムを少しだけ入れてあるから」
「……林檎づくしだわ」
「ここにも」
そう言いながら前の席に座っている男の腕がすっと伸びてきて、コレットの頬に触れた。
とくんっと、またコレットの胸が波打った。今度はさっきよりも強い。
熱を帯びて赤くなっているのか、男の指に触れられている所がひんやりして気持ちが良い。
紅茶で体が温まったのか、それとも目の前にいる男の自分を見る優しい眼差しにのぼせたのか、よく分からない。熱で潤む瞳でコレットは男を見つめた。
「だって、これは、あなたのせいだわ」
「それなら、僕の目が君から離れられないのは君のせいだね」
コレットの頬に触れていた男の親指が、そっと撫でるように優しく動いた。
ぴくっと体を震わせながらも、コレットは男から目が離せなかった。
真っ直ぐに自分を見つめる淡い水色の瞳に吸い込まれてしまっていた。
「僕はエミール。君は? 君の名前を教えて?」
「……コレットよ」
それからしばらくの間、コレットとエミールはお茶を飲みながら、いろんな話をしていた。
けれど、若い男性と向かい合って話をすることすら初めてのコレットは、エミールに甘い微笑みを向けられる度に恥ずかしくてうつむいてしまい、会話の内容など頭の中に残っていなかった。
それでも、穏やかで優しいエミールと過ごす時間はコレットにとって特別だった。まるで心臓に羽が生えたように、ふわふわと舞っているような気がした。
そんなコレットにとって初めての夢のような時間は、あっという間に過ぎていった。
帰り際、コレットを見送ってドアの前に立っているエミールが、ドア枠に手をかけながら首を傾けた。
「また会える?」
またコレットの心臓がとくんっと音を立てた。
エミールの言葉が嬉しくて、胸が勝手にざわつきだして、頬が勝手に緩んでしまう。
慣れないやり取りに照れて、自分の顔がどんどん赤くなっていくのを自覚しながら、コレットはエミールを見上げた。
「……会えるわ」
「楽しみにしてる」
「ええ、……わたしも」
エミールの優しい眼差しに照れながら、コレットは精一杯の微笑みを返した。
こんなことは初めてでどうしたらいいのか、全然分からない。
体がふわふわと宙に浮いているようなそんな不思議な感覚を感じながら、コレットはネリと来た道を歩いていた。
歩きながら時折思い出し笑いを漏らすコレットに、その様子をじっと見ていたネリが口を開いた。
「どうやらわたしのことはすっかり忘れていたみたいですけど、あの菓子屋はちょっと甘過ぎですよ。お嬢様、自覚しています?」
「……な、なんのこと?」
「わたしのことを忘れるのは構いませんが、ご自分の立場を忘れてはダメですよ。ただの菓子屋とお嬢様では身分が違い過ぎますからね」
「……勘違いしないで、そんなんじゃないわ。……ただちょっとお話しただけよ」
「そうですか? わたしには、とっくに始まったように見えましたけどね」
まるで自分の心を見透かしているようなネリの視線から逃げるように、コレットが目を逸らした。