9 嫌なことがあったら、甘いものを
「東海林さん、ちょっといい?」
私がパソコンとにらめっこをしていると、上司の栗山さんに呼ばれた。
「はい」と返事をして、私は椅子から立ち上がる。すぐに彼の所へ行った。
「あのさ……さっき木下様からお電話があってね。お怒りだったよ!」
栗山さんがそう言った。
木下様。誰だろうと私は思い返す。それから、すぐにその名前を思い出した。
「木下様って、私がこの間担当したお客様でしたっけ?」
私がそう訊くと、「ああ、そうだよ」と、彼は言った。「頼んだ冊数と違うって!」
一昨日、私はその木下というお客様と電話をしていた。彼から小冊子の依頼を受けた私は、言われた冊数を印刷してすぐに郵送した。
「え?! あれ? 1000部でしたよね?」
私がそう訊くと、「いや、10000部だ!」と、彼は言った。
「10000!? あ……すみません」
私は彼に平謝りをした。
「一応、自分から木下様には謝って、追加で送ることを言っているから、君はすぐに残りの9000部刷って、郵送の準備をしなさい。いいね?」
それから、栗山さんがそう言った。
「はい、分かりました!」
「それと……ちゃんと確認してほしい。次はこういうミスはすんなよ!」
「はい!」
私はすぐに一階にある印刷所へ行って、そこに居る従業員に木下様に依頼された小冊子を9000部すぐに刷ってほしい旨を伝えた。そこにグレーのスーツを着た一人の男性社員がいた。黒髪短髪で整った顔立ちをし、背が高い。彼は南雲という。私の同期だ。彼は分かりましたと言って、早速取り掛かってくれた。
「東海林さん、できましたよ」
それから一時間程して、彼からそう言われた。
「ありがとう」と言って、私は彼からそれを受け取った。
その後、私はすぐにその小冊子を段ボール箱に詰め、郵送の準備を始めた。伝票に必要事項を記入し、郵便局へ行ってそれを送った。
仕事が終わったのは午後八時だった。
その日、私は仕事でミスをした。ミスをするのは久しぶりだった。新入社員の頃以来である。
私はその仕事を終えた後、その日やるべき仕事をしていたので、こんな時間になってしまった。
正直、私は泣きたい思いだった。
見積書には、数字をどう見ても1000部ではなく、10000部と記載してあった。
それを私は見間違えたのだ。
なんでそんなミスをしてしまったのか。それは、私の不注意によるものだろう。
お客様にはもちろん申し訳ないし、その電話を取った栗山さんにも頭が上がらない。
私は馬鹿だ。もうこんなミスはしたくない。
最寄り駅に着いて、私は家路へ急ぐ。
その途中、甘い匂いがして、私はそちらの方へ目をやる。
見ると、そこはシュークリーム屋であった。
私はそれを見て、誘惑された。こんな日には、甘いものを食べたい気分だった。
「シュークリーム、おいしそう」
私はそれが食べたくなって、そう呟いていた。
それからすぐにそれを買って帰ろうと思い、その店の列に並んだ。シュークリームを一つ買って、私は帰路に着く。
家に帰って、私は晩御飯の準備をする。
一人暮らしなので、冷蔵庫にあるもので適当に作る。卵と冷凍のご飯があったので、それらでオムライスを作ることにした。
冷蔵庫から缶のハイボールを取り出し、私はそれを一口飲む。ハイボールは冷えていて、美味しかった。
そして晩酌後に、私は帰りに買ってきたシュークリームを食べる。そのシュークリームは、生地がサクッとしていて、中のカスタードクリームとホイップクリームがなめらかで口当たりがいい。その二つのクリームの甘さもちょうどよかった。
「うん、おいひ~」
思わず、私は顔が綻ぶ。「幸せ~」
シュークリームを食べていたら、その日あったミスなんかとっくに忘れていた。
翌朝、私はいつものように出社していた。
電車に乗って、会社まで向かう時、立っていた私は誰かにお尻を触られた気がした。
気のせいだろうかと最初は思ったが、その後、さらに着ていたスーツのスカートの上から誰かに何度もお尻を触られた。
私はちらりと触っている人物の方を向く。五十代くらいのサラリーマンだった。
私が男を見ると、その男はそれを止め、知らん顔をする。その後、私が前を向くと、男は再び触り始めた。
痴漢だった。
「痴漢!」
私は大声で叫んだ。
すると、車内にいる人たちはぎょっとした顔をして、私を見た。
触った本人は素知らぬ顔をしている。
すぐに私はその男の腕を握り、「この人、痴漢です!」と大声を上げた。
「いや、違います」
男は大声で反論する。
「本当に触られたんです!」と、私は周りに訴える。
「私は違う!!」と、男が言い放つ。
「おい? 本当かい?」
それから、そこにいた一人の男性が訊いた。その男性は、四十代くらいで眼鏡を掛けていた。
「本当です!」と、私は言った。
それから、「嘘だ!!」と、痴漢男が叫んだ。
「僕、見ました!」
それから、別の男が言った。周りの視線がその男の方に向く。私も、痴漢男も、彼を見る。彼は、会社の同僚の南雲くんだった。
「南雲くん!」
私は驚きと同時に、彼が見ていたことで安心する。
「僕、見てました。この人が彼女のお尻を触っているところを!」
彼がそう言った。
「ふん、そんなことある訳ない……」痴漢男はまだ否定する。
「それじゃあ、本当なんだな」
眼鏡の男性が言った。
「ええ」と、南雲くんが頷いた。
「それじゃあ……」
眼鏡の男性がそう言うと、彼は痴漢男を睨み付け、その男を羽交い絞めした。
「おい、何するんだ! 離せ!!」
痴漢男は抵抗する。
「うるせえ、てめえは次の駅で降りるんだ!」
眼鏡の男性は、ニヤニヤしながら痴漢男にそう言った。
ようやくして、その電車は次の駅に着いた。
二人の男がその電車を降り、私と南雲くんもそこで降りた。
「俺はこいつを構ってるから、姉ちゃん、早く駅員を呼んで痴漢と説明するんだ!」
眼鏡の男性は私にそう言った。
「はい……分かりました」
私はそう言って、すぐにその近くにいた駅員に声を掛け、自分が痴漢に遭ったことを説明する。それと、痴漢男がこの駅にいることも言い、私は駅員二人と一緒に彼らのもとへ行く。
そのうちの一人が警察に連絡すると、しばらくして、警察官がやって来た。
それから、私や南雲くん、痴漢男と眼鏡の男性が事情聴取を受けた。そこで、その痴漢男は自分がやったと認め、彼は警察署へと連行された。
「すみません、こんなことに巻き込んでしまって……」
事情聴取が終わった後、私は眼鏡の男性に丁寧に謝った。
「いやいや、別に大丈夫ですよ」と、彼は優しく言った。「じゃあ、私はこの辺で」
彼はそう言って、手を上げてその場を去ろうとした。
「あ、あの!」
私は思い出したように口を開く。
「何だい?」と、彼が振り向いて訊く。
「お名前だけ、お聞きしてもいいですか?」
私がそう訊くと、「木下と言います」と、彼が答えた。
木下。聞き覚えのある名前だなと私は思った。それから、すぐに私はその名前を思い出す。先日、私が依頼を受けたお客様の名前と同じであった。まさか、と私は思った。その後、別人ではないかとも思った。
「木下さん。今日はありがとうございました」
私は彼に深くお辞儀をした。
「いえいえ」
木下さんは手を振り、「では」と言って一礼し、その場を後にした。
「僕たちもそろそろ会社へ行こう」
それから、隣にいた南雲くんが言った。
「あ」私は出勤前だったことを思い出した。「そうだね」
私は今から会社へ向かうことを一報し、二人で会社へと直行した。
「おはよう。今日はずいぶん遅いじゃないか」
会社に着いて、上司の栗山さんが私にそう言った。
「すみません……。今朝、通勤途中にちょっとしたアクシデントがあって……」
私がそう答えると、「痴漢だろ? 南雲から聞いてるよ」と、栗山さんはあっさりと言った。
「はい……」
「大変だったね、でも、気を付けろよ。仕事の方もそうだけど……」
私が仕事でミスしたことを思い出させるかのように彼はそう言った。
「あ、はい……分かりました」
そしてすぐに私はあることを思い出す。「そう言えば」
「ん? どうかしたかい?」
先ほど、駅で「木下」という名前の男性に会ったことを私は思い出した。すぐにそれを栗山さんに話そうと思ったが、その人があの「木下様」だったかどうか分からなかった。もしかするとそうかもしれないが、別人の可能性もあるなと私は思い直し、話すのを止めた。
「あ、いえ……」
「そうか? ならいいけど。それより、さあ、仕事、仕事!」
それからすぐに彼はそう言って、手を叩いた。
私は自分のデスクに座り、パソコンを開いた。
私は黙々とその日にすべき仕事をしていた。気が付くと、午後八時になっていた。
ちょうど仕事を終えたので、私は帰ることにした。
電車に乗り、私は空いている席に座る。それから、電車に揺られて、最寄り駅に着く。
駅を降りて歩いていると、シュークリームの甘い匂いがした。私は思わず、その店に目が行く。
ふと、そこに見覚えのある顔が見えた。南雲くんだった。彼はその店の列に並んでいた。少しして、彼も私に気が付いたようだ。
私は彼の所に駆け寄ると、「甘いもの好きなの?」と、彼に訊いた。
「うん、好きで。特にシュークリームが!」
彼はそう言うと、照れ臭そうに笑った。
「へー、私も!」
それから、私がそう言うと、「そうなんだ!」と彼は驚いた。その後、再び彼は笑顔を見せた。
「あ、食べる?」
彼が私にそう訊いた。うん、と私は頷く。
彼はシュークリームを二つ買った。それから、私は彼とそのシュークリームを近くの公園で食べることにした。
「うん、おいしい」
ベンチに座った私はそのシュークリームを一口頬張った。
それから、彼も一口それを食べる。
「うん、美味いね」
彼はそう言って笑う。
その後、私たちはそのシュークリームを食べていた。
「あ、あのさ」
ふと、私は今朝のことを思い出して、口を開く。
「うん?」
「今日は助けてくれてありがとう」私は彼にお礼を言った。「南雲くんがいなかったら、私、もっと大変な目に遭っていたと思うんだ」
「ううん。良かったよ、無事で」と、彼は言った。
「え?」
「本当に無事で良かったよ」
「あ、うん。……それでさ」
「何?」
「今日のお礼に、今度、ご飯でもどうかな?」
私が彼を見てそう言うと、「ご飯か。うん、いいよ」と、彼は答えた。
「本当に? やったー! 私、奢るよ!」
「え、いいの?」
「うん!」
私も南雲くんも、シュークリームを食べ終えていた。
「シュークリーム、ご馳走様」
私は彼にそう言った。
「いやいや。あのさ……」
それから、南雲くんが照れ臭そうに口を開いた。
「何?」
「今、こんなこと言うのもどうかと思うんだけどさ。僕……東海林さんのこと……好きです!」
ふいに、彼がそう言った。
「え?」
彼の言葉に、私は面食らう。
「好き……なんだ。だから、もしよければ……僕と付き合ってください!」
「あ……ええっと……」
そう言われて、私は返答に困ってしまう。
「……友達からで良ければ」
それから、私がそう言うと、「友達から……」と、彼は困惑したようだった。
「うん、友達からよろしくお願いします」と彼は言って、頭を下げた。
「こちらこそ」
私は彼に笑顔を見せる。「じゃあ、今度ご飯行こうね」
「ご飯もいいですけど、今度、二人で遊びに行きません?」
その後、彼がそう言った。
「遊びに? いいけど?」
「東海林さん、シュークリームがお好きなんですよね?」
「うん」
「それなら、今度、カフェでも行きません? シュークリームが美味しいお店があるんですよ!」と、彼が言った。
「シュークリーム? え! 行きたい!」
私がそうはしゃぐように言うと、「じゃあ、ぜひそこへ行きましょ!」と、彼はにこりと笑って言った。






