嫌われものの虫たち
カサカサ、ブンブン、プーンプン。
春になるといろんな虫が、土の中や草木のすきまから、ひょっこり顔を出してきます。
カブトムシやクワガタのような、人気者の虫もいれば、蚊やハチ、クモのような、嫌われ者の虫もいます。
みんなはどうして人気者の虫と嫌われ者の虫がいるのか、考えたことはありますか?
今日はそんなお話を、こっそり、みんなに教えます。
むかしむかし、世界がもう少しこぢんまりとしていて、たくさんの生き物のご先祖さまが、みんな仲良く暮らしていた頃のことです。
この頃の生き物たちは虫も魚も、犬や猫も、みんなが助け合って生きていました。
生き物たちにはそれぞれ仕事がありました。
たとえば犬は、自慢の鼻で迷子を探したり、猫は色んなところをパトロールしたり、魚は海や川を綺麗にしたり。
そして、虫たちにも、もちろん仕事がありました。
たとえばカマキリはお医者さんです。
その自慢のカマで、病気のところを切って取り出すのです。
蚊はそんなカマキリのお手伝い。
カマキリが悪いところを切る前に、麻酔の注射をして痛くないようにします。
それに一緒に血も吸って、血液検査もするのです。
クモは手術が終わった後に、切ったところを縫うための糸を準備してくれます。
ハチは自慢の立派な針と、クモが作った糸を使って、上手に傷を縫うのです。
4匹の他にもガやアリが、忙しそうに働きます
みんな合わせて虫の病院。
チーム・カマキリは今日も大忙し。
さて、ある日のこと。
今日の患者さんは犬の子ども。
お腹が痛いとワンワン泣くので、お母さんが心配そうです。
カマキリ先生は子犬をじっくり診察して、ウーム、これは、と驚きました。
「奥さん、お気を確かに聞いてください。
この子のおなかに、悪い病気の塊が、それはもう、うんと大きなのがあるのです」
「そんな! 先生、うちの子は大丈夫なんですか?」
悲鳴を上げるお母さんに、カマキリ先生は言います。
「大丈夫、私を信じてください。必ず助けてみせますから」
手術の準備はすぐに始まりました。
まず蚊が血液検査をして手術の間に打つお薬や麻酔の量を決めます。
その間、クモはせっせと子犬の体のサイズに合った糸を用意します。
ハチは手術の終わり頃まであっちこっちを飛び回って、必要なモノや虫たちを集めます。
カマキリ先生は丁寧にカマを洗って、ばいきんが体に入らないようにします。
今でもカマキリはよく手を洗っているのは、このときの名残なのです。
さぁ、ついに手術開始です。
蚊がゆっくりと麻酔を打つと、子犬は眠って体がマヒしました。
これで痛みを感じることはありません。
「オちました、先生、タイムアウトお願いします」
「タイムアウトします。腹部腫瘤摘出術を行います。L1からS2にかけての巨大腫瘤で、奇形血管が複雑に栄養しています。細心の注意を払って切除します。カマキリ執刀、補助はハチ先生です」
「麻酔は蚊が担当します。現在1アン静注終わってます。バイタル見ながら調整します」
「道具出しクモです。縫合糸は0.2から0.5までそれぞれ2メートルあります」
「そのほか、なにか気になることはありませんか」
カマキリ先生がみんなを見て最後の確認をします。
「ありません」
みんなが答えました。
「よろしい。では、手術をはじめます」
カマキリ先生はゆっくりと子犬のおなかを切り開きました。
しばらく時間がたって、カマキリ先生はついに病気の原因にたどりつきました。
「思ったよりずっと、複雑に血管がからみついている。こいつは難しいぞ」
「アリ先生たちに少しずつ剥がしていってもらいますか?」
「いや、それだと時間がかかりすぎる。小さな子犬では体力がもたない」
カマキリ先生は少し考えて、
「焼こう」
「えっ、どういうことです?」
ハチがびっくりして聞き返します。
「栄養血管の根元を焼いて、血流を止める。正常な血管との境目を狙って焼いて、あとはまるごと摘出するんだ」
「なるほど! それなら一本ずつ血管を剥がすよりずっと速いですね!」
「ああ、だがそれでもそれなりの数になるだろう。急いでやろう、時間がない」
カマキリ先生の指示で、ホタルが手術室に呼ばれました。
この頃のホタルはまだ元気がよくて、お尻の火ももっと強くて、炎のように熱かったのです。
「ホタルくん、私が指示したところを丁寧に、ゆっくり3秒ずつ、焼いていってくれ」
「任せてください先生。熱い熱いと煙たがられてきた僕が、やっとお役にたてるんだ。何が何でもやってみせます」
カマキリ先生が器用に開いたお腹に、ホタルはそろそろとお尻をむけます。
火力もずいぶん抑えて、言われたところをゆっくり、じゅーーーっ、と焼いていきます。
「いいぞ、君には才能がある。その調子で頼むよ」
「はい!」
それからホタルは何本も何本も血管を焼きました。
手術室の中は焦げ臭くなっていって、みんなむせてしまいそうでしたが、我慢しました。
ホタルが一生懸命、慎重に仕事をしているのです。
邪魔するわけにはいきません。
「これで、最後の一本だ。ホタルくん、やってくれ」
カマキリ先生が示した血管は、今までのものより少しだけ太い血管でしたが、ホタルは気合いを入れて丁寧に焼きました。
「いち、に、さん、はい!」
ぴったり3秒でホタルは血管からお尻を離しました。
「すばらしい仕上がりだ! 君は天才だ、ありがとう!」
カマキリ先生は大喜びでホタルを誉めました。
ホタルも嬉しそうです。
「疲れただろうから、ホタルくんは先に上がって、川の綺麗な水でも飲んできてくれ。後は我々に任せて」
カマキリ先生がそう労うと、ホタルはホッとした顔をしました。
「実を言うと、緊張で喉がカラカラなんです。ありがとうございます」
ホタルはよろよろと、手術室を出ていきました。
「さぁみんな、仕上げだ。ホタルくんが頑張ってくれたんだ、気を抜かずに完璧にやりとげよう」
「はい!」
みんなは元気よく手術を再開しました。
カマキリ先生が病気の塊を、少しずつ丁寧に切り離していきます。
焼いた血管からは少しだけ血が出てきますが、いらない血と血管ですから、問題はありません。
カマキリ先生はすいすいと、しかし慎重に切り離していきます。
そして、最後に一つ、血管を切り落として、ついに病気の塊を取り出すことができました。
「やったぞ、切除完了だ!」
カマキリ先生は大喜びして、切り離した塊を脇に置きました。
これであとは余分な血や残骸を吸いとって、丁寧に拭いたあと、ハチとクモが傷口を縫い合わせればおしまいです。
どうにか今回も、小さな命を助けることができた。
カマキリ先生はほっとため息をつきました。
そのときです。
「先生! 血が止まりません! 吸っても吸っても、どこかから溢れてきます!」
ハチが叫びました。
「なんだって! いったいどういうことだ!」
カマキリ先生はびっくり仰天して、すぐに子犬のお腹を見ました。
すると、確かにどこかからか、とぷ、とぷ、と血が沸いて溢れているのです。
「先生、どうすれば」
ハチがおろおろしているのを放って、カマキリ先生はすぐに血が溢れている箇所を探しました。
ですが、血まみれのお腹の中です。
細い血管を探しだすのは簡単ではありません。
「どこだ、どこにある? はやくしないと」
「先生! バイタル下がっています! このままではショックバイタルになってしまう!」
血圧などを見守っていた蚊が大きな声で言います。
「わかっている! だが血管が、血管が見つからんのだ!」
カマキリ先生は一生懸命、細い血管を血の海で探しました。
ハチやクモも溢れる血を吸ったり拭ったりして、必死に手伝いました。
みんなができることを必死にやりました。
「先生、心臓が止まりました!」
「なんてことだ、心臓マッサージを!」
すぐに心臓マッサージをスタッフみんなでやりました。
汗だくになって、かわりばんこで、みんな必死でやりました。
でも、結局ダメでした。
子犬は手術室の中で、声もなく死んでしまいました。
そのあと。
みんな、ぼやー、とした顔で手術室を出ました。
手術室を出たあと、どうやって広間に戻ってきた蚊はわかりません。
だけど、みんな頭の中は一緒でした。
「僕らは失敗したんだ」
彼らの頭に浮かぶのは、たったそれだけでした。
カマキリ先生は、手術が終わった後、子犬のお母さんと会いました。
手術の結果、子犬は亡くなったと伝えました。
お母さんは泣き崩れて、
「どうして息子は死んだのですか」
涙声も枯れ枯れに聞きました。
カマキリ先生は重たい声でゆっくりとあらましを説明しました。
病気の塊に複雑に血管が絡まっていたこと。
その血管を一本ずつ、丁寧に処理したこと。
その後、塊を切り離したが、どこかの血管が残っていて、出血してしまったこと。
そして、最善を尽くしたが、子犬は失血死したこと。
すべてを話しました。
「我々の力不足です、本当に申し訳ありません」
「そんな、なんてことでしょう」
お母さんはボロボロと涙を溢して、呻くように言いました。
「それでは、先生たちのミスでうちの子は死んだのですか」
「少し違います。私だけが悪いのです。私があと一本、血管を見つけていれば良かったのです。他のみんなは私の指示通りやってくれました。指示を出したリーダーの、私の責任です」
「うるさい! お前たちの言うことなんて、もう信じるものか!」
お母さんは立ち上がって大きな声で言いました。
「お前たちが私の子どもを殺したんだ! 呪ってやる、お前たちみんな! あの場にいた全員、地獄に落ちてしまえ! 煮えたぎる地獄の釜の内で、私とあの子の怒りを思い出すがいい!」
カマキリ先生は、何も言い返しません。
何も、言えませんでした。
その日の夜。
気分よく仕事を終えたホタルは、川辺で楽しそうに歌っていました。
ホタルは先に手術室を出たので、あの後のことをまだ知らなかったのです。
「ああ、今日はなんていい日だ」
仕事をなしとげた達成感で、ホタルの胸はいっぱいでした。
気分よく歌っていると、そこに、今日一緒に仕事をしたみんなが、暗い顔でやってきました。
「ああ、みんな!」
ホタルは思わず駆け寄って、一番先頭にいたカマキリ先生に抱きつきました。
「ホタルくん、そうだ君は先に出ていったから、知らないんだったな」
「何をです? それよりもみんな、どうしてそんなに暗い顔をしているんですか! あんなに立派な仕事をなしとげたのに!」
「ちがうんだ、ホタルくん。ちがうんだよ」
カマキリ先生は重いため息をつきました。
「ホタルくん、いいかい、よく聞いてほしい」
カマキリ先生はホタルの肩を掴んで言いました。
「手術は失敗した。子犬は死んでしまった」
「えっ?」
「死んでしまったんだ、ホタルくん。私と君で血管を全て焼いたと思っていた。だが、焼き残した血管が、どこかに隠れていた。それに気づかずに、私は君が出ていったあと、その血管を切ってしまったのだ」
「えっ、ちょっと、まってください、そんな」
「せっかく、君は上手に仕事をしてくれたのに、申し訳ない。私が、すべて台無しにしてしまったんだ。 恨むなら私だけを恨んでくれ」
「そんな、先生、そんな」
「君は、何も悪くないんだ」
「そんな、ばかな」
ホタルはがっくりと、膝をついて倒れ混んでしまいました。
他の虫たちが駆け寄って、肩を支えます。
「ホタルくん、君は悪くないんだ。君はもともと手術チームじゃないから、あの手術に参加したことも僕たち以外は知らない。だから、君は手術に参加しなかったことにもできる。今なら、なに食わぬ顔で町に戻ってしまえば、君に誰も、何もいわないはずだ」
「僕たちは、町を追い出されてしまった。尊い命を奪った殺害チームだって、いろんな動物にひっぱたかれてね」
「ひどい話だ。だけど、こうなった以上仕方がない。君だけでも、どうか町に戻っておくれ。君がいなくなったら、いよいよあの町に虫は一匹もいなくなってしまうから」
虫たちは口々にホタルを励ましました。
でも、ホタルはそんな声はもう聞こえていません。
せっかく、立派な仕事を成し遂げたと思っていました。
尊い命を救う手伝いができたと、さっきまでそれで浮かれていたのに
あと一本、あと一本自分が血管を焼いていれば。
あのとき水を飲みになんて行かなければ。
いや、もしかしたら水を飲んですぐに戻っていれば。
子犬は、死ななかったかもしれない。
みんな、町を追い出されなかったかもしれない。
こんな状況にしてしまったのは、
こんな不幸を生み出したのは、
「僕が、全部悪いんだ」
ホタルはポツリと言って、ぼろぼろと泣きはじめました。
「ホタルくん、それは違う。君は私の指示通り、立派に仕事を成し遂げたじゃないか。君の仕事は完璧だった。他のみんなもだ。ただ、私がもう一本血管を見落とさなければよかった。私だけが悪いんだ」
カマキリ先生は必死にホタルを励ましましたが、ホタルはもう泣きじゃくるばかりでした。
そのうち、ホタルの涙につられたの、一匹、また一匹と泣き出す虫が増えて、最後にはみんなでワンワン泣きました。
結局、秋が終わるまで、みんな泣き続けました。
夏の終わり。
泣き続けるみんなをよそに、カマキリ先生だけは泣くのをやめていました。
そして、みんながワンワン泣くのに隠れて、こっそり一匹で小高い岩の上に上りました。
足下には流れの速い川があります。
落ちたらまず、助かりません。
「責任は、すべて私にある」
カマキリ先生は震える声で、呟きました。
「あの犬のご婦人は、きっと我々を呪い続けるだろう。そうである限り、我々虫たちは未来永劫、嫌われ続けるだろう」
「それではいけない。呪われるのは、私一人で十分だ」
「地獄の釜よ、私を永劫に誘え。私は何度も生まれよう。何度でも死ぬために。何万何億と屍を築き、そのすべてをもって贖罪としよう」
カマキリ先生は、足を踏み出しました。
ふわりと、カマキリ先生の体が宙に浮きます。
「だからせめて、彼らには平穏のありますように」
その言葉を最後に、カマキリ先生は川に飲まれていきました。
カマキリ先生の意識が途絶える瞬間、先生のお尻から何か黒い一筋のものが抜け出ました。
それは、川を泳いでいきながら、どこか彼方へと消えていきました。
残った虫たちは散々泣いたあと、めいめいに山や草むらに隠れていきました。
二度と誰にも迷惑をかけないよう、薄暗いところでじっと生きることにしたのです。
ハチは大きな巣を作ってひきこもりました。
針には毒を塗って、みんなが怖がって近づかないようにしました。
クモは糸をねちょねちょにしました。
触ると気持ち悪いから、これならきっと。みんな近づかないだろうと思って。
蚊は麻酔を弱くして、かわりに痒くなるように変わりました。
こうすればいつか自分が近寄ってしまったとき、あちらから殺してくれるだろうと思って。
ホタルはすっかり元気をなくして、お尻の火も弱々しいものになりました。
他の虫からは町に戻れと言われましたが、とてもそんな気にはなれませんでした。
自分のせいで尊い命が失われた。
そんな自分が明るく、長生きなんてしていいはずがない。
そう思って、ホタルは自分の命を短くしたのです。
他の虫たちもみんな、動物たちに嫌われて、近づかれないように変わりました。
あんな悲しい気持ちになるくらいなら、嫌われもののままこっそり生きている方がいいと。
こうして、あの日手術室にいた虫たちは、
みんな嫌われ者になったのです。
今でも、彼らの罪滅ぼしは続いています。
おしまい。