狼商人と兎騎士の約束※
「本当にもう行かれるんですか?ゲストルームも空いていることですし…泊まって頂いても構わないのですよ。
家族皆、もっとお話したいと思っていたのに……」
「ありがとうございます、マクホーン夫人。
嬉しいお声掛けではあるのですが…。私、少々寄らなければならないところがありまして…」
「まあ。…でしたら仕方がありませんね。アリアナ共々、次の訪問をお待ちしていますわ」
玄関後方に控える家族たちも同意なのか、頷いてくれている。
ヴォルフはマリアムの言葉をありがたく受け、「近いうちに参ります」と返事をした。
「ヴォルフ」
「リア」
来たときと同じ、マーナガラム商会で使っている馬車に乗り込もうとしたところで、アリアナから声が掛かった。
屋敷の玄関から少し離れたヴォルフのところまで、軽やかに駆け寄ってくる。
「うん?どうかしたか?」
「ああ、いや。ただもう一度…お礼を言っておこうと思っただけなんだ。───本当に、ありがとう」
「皆も安心してくれたみたいだ」と、笑顔を弾けさせるアリアナ。自然と、ヴォルフの唇が薄く笑みを象った。
「感謝するのはこちらの方だ。入籍諸々の件については、また手紙で仔細を送る。宛先は…、」
「王都支部へ頼む。週末以外はそっちで暮らしているから」
「なるほど、分かった。
そうだ!あと…。こっちはもう引っ越しの受け入れ準備も出来てるから、騎士団の方で何か手続きがあるなら、お前はそっちを済ませておいてくれ。いつでも良い。──あ。荷運びは手伝うから、必ず連絡しろよ」
「分かった」
色々と急な話のはずだが、アリアナは素直にこくりと頷く。そんな彼女の、少し走ってきただけで乱れるらしい髪を、ヴォルフは軽く手で整えた。細くてふわふわの触り心地である。
「………」
(…今日は、彼女を含めて大きな収穫だったな。ユースとの対話もかなり面白かったし)
「投資を勉強中」というのは、本当だったらしい。机上の空論でなく、彼の提示してくる全ての根拠、数字が的を射ていた。
(マーナガラム商会で、実践経験を積ませてやるのも良いかもしれないな)
そこまで考えて、ヴォルフはするり、と頭から頬へ手を滑らせた。
アリアナを少し上向かせ、重力に任せて自身の顔を落とすように近づける─────、と。
「…なんだよ。
貴族は『さよなら』のちゅうもナシ?」
それを阻むように、こちらの肩へ置かれた手。
ヴォルフは片眉を引き上げて、「待った」を掛けるアリアナを茶化した。
「~~っ分からない!でも多分、婚約初日に家族の前で口づけはしない!…と、思う…」
「…………」
小声でしどろもどろに語るアリアナ。その様子に、ヴォルフはふむ、と思案した。
(どうやら……未来の奥さんは、恋愛経験はおろか、そういう情報にも疎いと見える───。…しかも、恥ずかしがり屋だ)
周りを気にするアリアナに、「そんな身構えなくても、ただの挨拶だろ?」と笑って言ってしまえば、それまでなのだろうが……。
(…ま、無理矢理するもんでもない、か)
と、ヴォルフは思い直した。
「そうか」と肩を竦め、身体を離そうとした──その瞬間。
──────グイッ………!!
「~~っ」
……………………ちゅ…、
と。…緊張で力の入った唇が、額にたどたどしく触れてくるのを感じた。
「!……はは」
おそらくだが……アリアナ自身、建前上取るべき『婚約者』然とした振る舞いが、全く分かっていないという自覚があるのだろう……。だからきっと、これは婚約者に合わせてしてくれた、彼女なりに精一杯の譲歩。
ヴォルフの肩をぎゅう…っ、と掴んでいるアリアナの手。
ただ自分を引き寄せるためだけにしては、随分と緊張しているそれを、優しく取って撫でた。
「…無理しなくて良いんだぜ?」
くすくすと笑いながら、その拙さをからかう。アリアナは気を悪くしてしまったのか、直ぐさま胸を張って言い返してきた。
「別に無理なんてしてない!ユースにもたまにするんだ」
「そうかい」
言いつつ、アリアナの前髪を軽く指先で退ける。そして、空いたスペースへと顔を近づけた。
──チュッ、と綺麗なリップ音を立てて、彼女の形の良いおでこに別れのキスを返してやる──。
…こんなにもお行儀の良いキスをしたのは、一体いつ振りだろうか。
「……」
ヴォルフは、そっと分けた髪を元通りに直してやった後、マーナガラム商会アスガルズ支社の連絡先が書かれた名刺を渡した。
「何かあったら連絡しろ。突撃訪問でも良いけど」
「いや、さすがに事前連絡はするよ」
「だとありがたいがね。じゃあ行くわ、またな」
「ああ、また。気をつけて」
そう言って馬車を出しても、アリアナは馬車が曲がり角で消えるまで見送っていたし、ヴォルフも彼女を、馬車に着いているサイドミラーで何とはなしに見守っていた。
◇◇◇
───カランコロン。
「いらっしゃいませ、マーナガラム様」
扉を内側から開いたのはジャックだ。ヴォルフは片手を上げて、それに応える。
邪魔にならないよう店の少し手前で馬車を停め、歩いてきた──だから、彼は既に自分が来ることを分かっていたんだろう。
「ヴォルフで良いよ。昼は世話になったね。
あぁ…と、店仕舞い中?出直そうか」
ニッ、と笑ったあと<Rope's Kitchen>の中をみて、ヴォルフが言う。
机の上にほとんどの椅子が上がっていたので、床を掃除するところかと思ったのだ。
「ああ、いえ……そうではなくて、開店準備中なんですよ。<R's>は19時にカフェを閉店して、21時からはバーになるんです」
そう言われて時計を見ると、確かに今は再オープンの20分前だった。
ジャックが「どうぞ。入ってお待ちください」と中へ招き入れてくれる。その後扉を閉めると、おもむろに椅子を下ろす作業を再開した。
「働き者だね。この席、良いかな?」
「ええ」
すでにスツールが下ろしてあったカウンターの席を指差し、了承を得られたので腰かける。
昼に入ったとき、「随分ライトの類いが多い店だな」と思ってはいたが………夜になると、白色ではなく橙色に光るライトを点灯するらしい。間取りは同じだが、テーブルの配置なども変えているためか、雰囲気がだいぶ違って見えた。
「…良い店だな。夜の方が好きかもしれない」
「ありがとうございます。バーは俺が成人してから始めて、土曜の夜しか開けてはいないんですが」
「『知る人ぞ知る』、ってわけだ」
そうしている間に、ジャックが全ての椅子を下ろし終えた。…カウンターに入り、布巾で手を拭う。
そして───コン。と、厨房にグラスを置いた。
「さて、ヴォルフさん。───何をご所望で?」
思いの外ガッツリと合わされた真剣な眼差しに、ヴォルフは感心した。適当にお茶を濁すつもりではなかったらしい。
(どいつもこいつも、アスガルズに住む者は皆そうなのか?)
と、ぼんやりアリアナやユーストスのことを思い浮かべた。…自然と唇が弧を描く。
(……いや。おそらくこいつらが特殊なんだろう)
「なに、ちょっとした頼み事を伝えに来ただけさ」
ヴォルフは肩を竦ませた。そして「ああ。おすすめを良いかな」と添える。
「…頼み事、とは?」
流れるような動作で酒を作ったジャックは、目を伏せてグラスに注ぎつつ問うてくる。こちらの意図を読み取ろうとしているのだろう。
「この店、週末だけ手伝ってるんだろう?
…つまりそれ以外は、王都支部でずっとアリアナと一緒ってこと?」
「…小隊は違いますが、そうですね」
「へぇ、それはいただけないな」
「!…」
作ったグラスをカウンターに乗せる手がピクリ、と震えた。
ふ―――っ、とジャックが自身を落ち着けるように、長く息を吐き出す。
…そして、こちらを射抜いた。
「俺が彼女に惚れているから、『側に居るのもいけない』ということですか?」
「……」
「…情けないが、この気持ちはアルに伝えてないし、あいつも気づいてないんだ」
「……」
ヴォルフは酒に向けていた視線を、ゆったりと上げる。首を傾げて、ジャックを見返した。
「それなのに、自分が名ばかりの婚約者になったからって………。
『仲間でいることも許さない』──と。…そうおっしゃるつもりなんですね?」
髪と一緒の赤茶がかった瞳。それが確かな熱を持ってヴォルフを睨んだ。それを受けてふっ、と笑う。
「『名ばかりの』とは手厳しいな…。全部盗み聞きしてたのか?」
「…!、」
一瞬怯んだように見えたジャックだったが、すぐに持ち直した。
「生まれつきです。普段からよく音が拾える。常に耳栓をしておけとでも?」
「いや。逆に良く耳を澄ませておいて欲しいね」
「は、」
ジャックはそのご自慢の耳を疑ったのか、眉を思いっきりしかめた。
ヴォルフは構わず続ける。
「彼女…、『アリアナが死なないように守ってほしい』。これが俺からの頼み事だ。
…というより約束事、かな?」
「リアに死なれるとこちらも困るんだ」、とヴォルフは言う。
せっかく掴んだ、世界展開への足掛かりであるアリアナ。……だが、今日1日見ていただけで、彼女が『人のため』という大義に足を取られ、無茶をしてもおかしくない人間だと言うことが、よーく分かったので。
ヴォルフはごく現実的に、彼女を死なせないための策を講じることにした。
実際、騎士としての職務中に何かあっても、ヴォルフでは対応できないのだから、いっそのこと職場の利を活かして、プロに守って貰うのが一番良い。
『ジャック・ロープ』は、その優れた能力とアリアナへの気持ちも込みで、それに最適な人材だと思えた。
「………っ、!」
ぐぐぐっ……!とジャックは顔に力を込める。
…そして、はぁ―――っと脱力し息をついた。
「すみません、俺。
『友人』でいるのも許してもらえないのかと…」
「いっそ君の気持ちを利用することを、もっと責めてくれても良いんだぜ?」
「いや、そんな…ありがとう、ございます」
礼を言われ、ヴォルフは眉をひそめる……心底不思議だったのだ。
(…分からない。人は『特別』を作ると執着するものじゃないのか)
その上ジャックは、それが他人のものになることを受け入れた挙げ句───突然やってきたダークホースも過ぎる自分に、「近くにいることを許すから、命懸けで守れ」などと虫の良い提案をされているのに。
(──まあ、罪悪感はないが。俺にも目的がある)
すると、ジャックが苦笑いした。「理解し難い」という気持ちが、表情に出ていたのだろう。
「どうやら『下げて上げる』、って言うのがあなたの常套手段のようですね。条件を飲ませるのが得意なようだ」
言われて、ヴォルフは肩をひょい、と竦めた。
「…でも、この感謝は俺の本心ですよ。
『アルが貴族だから』──。…それを理由にグダグダとこじらせていた俺には、到底真似できないことを貴方はやって見せてくれた」
「……?」
ほんとのところ──ジャックは『負けた』と思ったのだ。
──「アルはいずれ『貴族』と結婚するのだから、いつかはこの気持ちを消せるように、準備しておかなければ」──。
ジャックには、そんな気持ちが常にあった。そして、それは彼自身を保身に走らせていたのである。
…しかし、蓋を開けるとどうだ?
それは、単なる思い込みでしかなかった。だって、アリアナの相手は『商人』───同じ『平民』ではないか。
…そんな、ジャックの凝り固まった思考を自分が打ち砕き、その世界を広げたことになんて、ヴォルフは気が付かなかった。
強者ゆえ、ジャックの『畏れ』にそもそも共感が生まれないのだ。だから、彼からの感謝が理解出来ない。
ジャックは、それでも良かったらしい。
下げていた目線が、再度こちらに向かう。
「………けど。」
「………けど?」
ヴォルフはジャックに聞き返した。
「貴方がアルを泣かせるなら、容赦はしません。次は俺が貰う。
───『守る』って、そういうことでしょう?」
ジャックがにこりと笑って「俺、約束はしっかり果たす方ですよ?」と言ってのける。ヴォルフは思わず吹き出した。
(穏和な見た目とは裏腹に、かなりしたたかなようだな…)
ひとしきり笑ったあと、ジャックにもお酒をすすめて、グラスを合わせた。カチン、と音を鳴らしてから、そっと口をつける。
(───うまい)
今夜の酒は、格別だ。
「じゃあ…まずは君らを同じ小隊にしないとな。何か手はあるか?」
「いや、第2小隊長がアルの受け入れを拒否しているので…」
「アルも異動願は出しているんですが…」とジャックが言う。
逆にジャックは第2に引き抜かれて日が浅いため、第1への復帰は望み薄らしい。
うーん、と頭を悩ませているジャックだったが、突然ひらめいた。
「そうだ、剣術大会…!」
男たちの静かな夜は更けていく──。