鹿騎士は呼ばれたい
アリアナが客間に戻ると、そこには誰も居なかった。
(まだ外で待ってくれているんだろうか?)
そう思ってバルコニーへ出る。すると、こちらに背を向けたヴォルフが、1人佇んでいるのが見えた。
アリアナは大きく手を振り仰いで、声を張る。
一瞬、「屋敷の中ではしたないかな」という考えがよぎったが、今日はドレスを着ていないし……何より相手は『相棒』のヴォルフだ。
「おーい!マーナガラム様!」
その呼び声を聞いて、ヴォルフが一言二言喋る気配がした。1人だと思っていたのだが、ユーストスも一緒だったらしい。ヴォルフの影で、見えなかったのだ。
「…!」
(──しまった、話の邪魔をした)
アリアナは、さっと手を引っ込める。
部屋の準備が完了したことを、ただ伝えたかっただけなのだ。会話を遮ってまで、耳に入れるような話ではない。
急いでさっきの呼び掛けを無かったことにしようとしたが、それよりも早く、ヴォルフは会話を切り上げてしまった。
上着を小脇に抱えて、こちらに小走りで向かってくる彼に、申し訳なくなる。
「アリアナ嬢!部屋の準備が出来た?」
「……」
(そう、それだけ)
アリアナはしゅんとして、肩を落とした。
「すまない…、話の邪魔をしてしまって」
「いや、ちょうど一区切りしたところだったんだ。それよりも、部屋への案内をお願いできるか?情けないが、言葉で説明されてもきっと迷う」
こちらの心境を察したのかもしれない。肩を竦め、軽い調子で返してくれたヴォルフに、アリアナは感謝を込めて笑いかけた。
「もちろん!元からそのつもりだったよ。場所は図書室だから分かりやすいとは思うんだけど、一応ね。ユースは?」
「ユースは一旦『服を着替えてから行く』ってさ」
「そうか」
「……」
こちらの会話を聞いていたらしいユーストスは、そのまま自分たちの立っている出入り口とは反対の開き戸を通り、バルコニーを出て行ってしまった。
「…!」
(自宅のバルコニーとはいえ、挨拶もなくユースが退席するなんて)
「っ弟がすまない!どうしたんだろう、いつもはそんなことしないのに…」
アリアナはわたわたとヴォルフへ弁明した。
普段は、優しく礼儀正しい──いや、むしろそれが『過ぎる』きらいすらあって、心配になってしまう程の弟なのだ。そんな彼のことを、ヴォルフに「失礼な若者だ」と誤解されるのは辛かった。
が、こちらの不安とは裏腹に、気楽な返答をするヴォルフ。
「ま、ユースも年頃だろ?いろいろあるって。俺は気にしてないよ」
「………」
何だか随分と親しい感じにそう言われ、ひとまずほっとした反面………アリアナはきゅう、と唇を引き絞ってしまった。ついでに眉根も少し寄る。
「?…」
それに気付いて、ヴォルフが「なんだなんだ、どうした」という風に、こちらを覗き込んできた。だが、問うことはなく聞きの姿勢だ。
ヴォルフのこういうところが、好感が持てるとアリアナは思う。
彼に無言で促されるまま、口を開いた。
「…差し支えなければ──、」
「ああ」
「私のことも、愛称で呼んではくれないだろうか」
「…。」
その言葉に目をぱちくりとさせたあと、ヴォルフはくすくすと笑った。それから、からかうように言う。
「なんだ?羨ましくなった?」
アリアナはこっくり!と強く頷いた。
「ああ。だって仲良しな感じがする」
「ぶっ!!」
ついにこらえきれなくなったらしい。派手に吹き出したヴォルフに、アリアナはなお真面目に言い募った。気持ちが伝わらなかったのかと思ったのである。
「婚約者の弟は呼ぶのに、婚約者を呼ばないのはおかしい。呼んでくれ」
改めてそうお願いすると、ヴォルフはにんまりと笑った。
「わかったよ。皆はなんて?」
「“アリー”や“アル”と」
「ふーん」
「さあ、どっちでも良いんだぞ」というような顔で、ヴォルフを見つめる。その瞳は期待にきらめいていた。
それがどこか可笑しかったのか、ヴォルフはまたくすくすと笑う。
「…」
少し考えてから、その後魅惑的な微笑みを浮かべて告げられた。
「────では、“リア”と」
「…お呼びしても?」と訊ねてくるヴォルフに、アリアナは思わず首を傾げる。
「…そんな呼ばれ方は、初めてだ」
「良いだろ?『特別』だ。他の誰にも呼ばせないで欲しいな?」
面白げにこちらを伺ってくるヴォルフ。アリアナは彼の瞳をじっと眺めた。
(…『特別』。確かに私たちは特別な契約関係で、そして特別な相棒だ)
「…分かった!」
頷き、了承する。ヴォルフがまた小さく笑った。
「よし。じゃあ、俺のことも“ヴォルフ”で良いよ。“マーナガラム様”なんて柄じゃない」
「そうか?なかなか良いと思うが…」
そんな風に軽く話しながらバルコニーを出て、アリアナとヴォルフは図書室へと向かった。
その道すがら、屋敷の構造についてや、飾られている肖像画についてもヴォルフが尋ねてくるので、それに答えながらゆっくり歩いてきた結果、図書室には先にユーストスが到着していた。
◇◇◇
ユーストスは先ほどの服装に上着を羽織った格好で現れた。手には筆記具といくつか書類を携えている。
着替えるとは言っていたが、まさかバルコニーで話をしていて体が冷えたのだろうか。最近暖かくなってきてはいるが、日が落ちてくるとガクンと気温が下がるから。
「もしかして、先ほどの態度も体調が良くなかったからじゃ?」とユーストスを心配すると、「たしかに少し寒かったです…。けど、義兄上に上着を借りていたから、大丈夫ですよ」とさっくり返されてしまった。
ユーストスが特段病弱であるということはないのだが、母親のマリアムは季節の変わるごとに体調を崩すため、どうしても過敏になってしまう。彼の華奢で儚げな見た目も、それを手伝っていた。
じっくりと検分し、その後ヴォルフと元気そうに言葉を交わしているのを見て、とりあえず安心する。
それでも「私がもっと早くバルコニーに着いていれば」と思わないでは無かったので、アリアナは「今度は迷わず階段を三段飛ばししよう」─実際にこれをすると、マリアムが大層お怒りになるので自粛していたのだ─と、心に決めた。
図書室に入室した後、ヴォルフとユーストスの会話はかなり弾んでいたようだった。
───トントン。
「失礼する。お茶を持ってきたんだが、今良いだろうか?」
「ああ」
「ありがとうございます、姉上」
扉を開き、音もなくティーセットをテーブルへ置く。
ヴォルフが紅茶を一口含み、「うまい」とこぼした。
「すごいな、リアが淹れてくれたのか?」
感心したようにそう言われ、アリアナは「うーん」と考え込む。
(──確かに私が淹れた。が)
「母上とメイド長に教えてもらった」
「ふっ」
と、ヴォルフが吹き出す。
家にやってきた婚約者に、娘を良く見せようと気を遣ったマリアムらの努力を、その本人が無に帰したことに対する失笑だったのだが、アリアナはそのことに気が付かなかった。
──慣れないことを指示されながら、四苦八苦するアリアナが目に浮かんでくるのもいけない──などとヴォルフに思われているだなんて、考え付きもしなかったのである。
「…?」
「ははっ…!いや…、ありがとう。本当に美味しかった。よろしく伝えてくれ」
「…!ああ!もちろんだ」
「ふふ…ッ」
「はあ…姉上…」
ぱあっ!と表情を輝かせたアリアナに、ユーストスはまるで窘めるかのような声色で話す。が、口の端は素直に上向こうとしていた。
──『これまでの見合い相手とは違う』──。
そんな手応えが、ユーストスにはあったのである。
ごく最初の頃の見合い。当時、アリアナはその席に出席しても、ギクシャクと包み隠すように凌いでいたから…。令嬢としては変な話だが、今の方がずっと自然に感じられたのだ。
「くっ、くっ……」
「…………」
そんなユーストスの思いなど露知らず、アリアナは可笑しそうに笑い続けるヴォルフを見て、やっと少し不満に思った。
(……君がなんでも話せって言ったんじゃないか!)
お互いにそれを了承したのだから、変に見栄をはる必要などないはずだ……もちろん、母とメイド長の手柄を我が物にすることなんて、言語道断なのである。
その後もアリアナは「お菓子をどうぞ」とか、「部屋の空調は問題ないか?」とか……何だかんだと理由をつけ、度々部屋を訪ねた。
毎度用事が済みそうになると、「リアも一緒に飲もうぜ」とか「姉上もおひとついかがですか?」などと言って2人が引き留めてくれる。アリアナはそのお言葉に甘え、少しの間同席した。
「邪魔になるのは悪い」という気持ちはかなりあったが、それ以上にヴォルフとユーストスが仲良くしているところを見れるのが、嬉しかったのである。
もがいてもがいて、苦し紛れに掴んだヴォルフとの結婚。それが、自分以外にも良い影響をもたらしていることが、単純に幸せだと思えたから。
アリアナは、図書室にある本を持ち出してきたり、何かを紙に書き取るヴォルフとユーストスを飽きることなく眺めた。…なぜか静かにそうしているだけで、胸が熱くなったのである。
聡い彼らにはそんな心情がバレバレだったのか……申し訳無いと思いつつもニコニコと同席する自分が、邪険に扱われることは無かった。
そして日もとっぷり暮れた頃、ヴォルフは「予定があるのでお暇します」とマクホーン家に伝えたのだった。