鹿騎士は姿を現す
────「春」とは出会いの季節だ。
と、アリアナはそう思う。
同時に別れの季節だとも言われるが、自分からするとあまりそれを実感したことはない。いずれまた出会うからだ。ゆえに、この季節が来る度自分はわくわくしてしまうのだと思う。
そうした春の恩恵は、人を選ばず与えられているのだろう。アリアナの耳にも、新たな出会いの報が各所から入っていた。
「弟が初めて王都の邸に女の子を連れてきた」だとか、「親友の婚約が決まった」などだ。
喜ばしいその知らせに、アリアナの心は踊る。
そしてそれらは、柔らかく自分の背をも押してくれるのだ。
「今日という日は、素晴らしい門出になる」───と。
「───リア」
「!ヴォルフ」
大きなセレモニーホールの、とある控え室。
その一室で、アリアナはパーティーの準備をほぼ終えていた。
部屋の外から見知った人物の声が聞こえ、アリアナは扉へと視線を向ける。その向こうで、彼の人が続けた。
「準備出来たか?……入っても?」
「どうぞ」
了承すると、扉を開けてとんでもない美丈夫が立ち入ってきた。
片側を上げた前髪が、彼の美貌を素晴らしく強調している。仕立ての良いスーツをキッチリと着こなし、その上から毛皮のコートを肩に掛けていた。
恋人の美しさに圧倒されていると、「では、私はこれで」と洋裁師のエミリーがしゅるりと退席していく。さっきまで、この部屋にはアハルティカもいたのだけど「私も自分の用意があるのよね~」と言って、少し前にここを出ていってしまった。なので────今はヴォルフと自分の2人だけしか、ここにはいない。
カチャン、と。
彼が後ろ手に、部屋の内鍵を閉めたのが分かった。
「…………」
「うん?」
「あ、いや………すまない。君が格好良すぎて」
「言葉が出なかった」とアリアナは続ける。ヴォルフが、にんまりと笑った。
「へー…?惚れ直した?」
「うん。また君のことが好きになってしまった」
アリアナは素直に頷く。するとヴォルフが、上機嫌を隠さずに距離を詰めてきた。
高い位置にある頭を見上げ、アリアナは苦笑する。
「───今朝方ぶりに、ね」
「!」
「…知っていたか?私、毎朝君のことを、また好きになっているんだ」
そう伝えると、一瞬だけ目を丸くしたヴォルフが、大層柔らかくそれを細めた。
「…何だと?そりゃ初耳だな……。
どうしてその時に言ってくれないんだよ?意地悪するな」
「毎日だって聞きたい」と言いながら、ヴォルフの腕がこちらの腰に回り込む。当然みたいに引き込まれて、彼の肩口辺りに頭が収まった。
「意地悪」だなんて表現に、アリアナは小さく笑ってしまう……彼の不機嫌ぶった言葉遣いが、ひどく愛らしかったのだ。…だって、見るからに嬉しそうなのに。
「私としてもぜひ伝えたいところなんだが………君、朝は寝ているからなぁ」
「!………ならしょうがないか」
そう言って、ヴォルフがあっさり退いてくれる。ギリギリまで寝ていたい彼より、自分は起きるのも出勤の時間も、うんと早いのだ。
アリアナはくすくすと笑った。
「リア」
「なあに?」
「お前も綺麗だ。───世界で一番」
「……、…………うぅん…」
褒められて、アリアナは呻く。「……またこれだ」、と思ったのだ。
シャンパンゴールドの、スッキリしたイブニングドレス。
それは、新たなお気に入りになるほど良い出来で。さらにメイクもヘアセットも、アハルティカの手によって、ほぼ完璧な状態となっている。全てにとても感謝し、満足しているのだ。
……だから、ヴォルフにこの姿を称賛されること自体は、とても喜ばしいことなのだけど。…「世界一」…とは、これいかに。
アリアナは思わず首を傾げてしまう───。
そりゃあ、もし「格闘技世界王者決定戦(貴族令嬢に限る)」なんてものがあれば、なかなか上位に食い込めるのではないか……という自信はあるのだけれど。
「綺麗さ」において自分が世界一だなんて、到底思えはしない………。だからいつも、「ヴォルフは大袈裟なのだ」という結論に至るわけなのだが。
……どうにも、眼が本気なのである。
「嬉しいよ、ありがとう……。
…でも君の言う『世界』には、私以外の女性が居ないんじゃないか??って。
たまに心配になってしまう時があるよ………」
そう困ったように告げると、今度はヴォルフが首を傾げ………「あながち間違いでもないな」と言い、愉快そうに笑った。
「…なあ、リア?」
「なあに?ヴォルフ」
「ちゅうして良い?」
「………まさか君、そのためにわざわざ??」
問い掛けると、ヴォルフが頷く。
アリアナは、彼と正式に交際しデートへ出かけるようになってから、メイクを少し覚えたのだ。アハルティカに教えてもらい、簡単なアイメイクにチーク、リップの塗り方までなら、1人でもやれる程に習得出来た。
今も、アハルティカに下地やら何やらを綿密に整えてもらって、後は紅を自分で引くだけ、という状態である。
そんな折にちょうど、ヴォルフがやって来たのだ。
……自分はそれを、「彼がわざわざ迎えに来てくれた」と思っていたのだが。
「「…………」」
ムラなく艶を出すために、薄く保湿液だけを塗ったばかりの唇。
───そこに、ギラついた視線が突き刺さる。
「……駄目だよ。君、『やめて』と言っても止まらないんだから」
「そりゃな?だってお前、いつもやめて欲しくなさそうだし」
「…………」
アリアナは黙り込んで、肩を竦ませるヴォルフを軽く睨んだ。人を「口先だけ」のように言うのは、いかがなものか。
(そもそも……恋人との口づけを、本心から『やめたい』と思う人間が、いるっていうのか??)
「…君な、その表現には語弊があるだろう…。……というか、私がそう言わなくちゃならないのは、君の仕掛けてくるタイミングが良くないからだよ!
……いつも、用事が控えてる時に限ってしたがるんだから……」
そう言ってぷい、と顔を逸らすと、ヴォルフが眉根を寄せた。
「……ほら。……今も」
「…………」
「ずるいぞ、リア。したいなら『したい』って言ってくれよ」
「おあずけされる身にもなってくれ」、と。
ヴォルフがそう言って被害者ぶるので、アリアナはぐいーっと彼の胸に腕を突っ張った。…なぜ、理性的に制止しようとしているだけの自分が、わる者にされなければならないのか!
しかし、ヴォルフが頑なに腰を離してくれないので、上半身が緩くのけぞっただけという形になる。
「だめ。リア」
「………」
「分かった。じゃあ、俺からは我慢するから………お前からして?」
「………」
「りーあ、……な??」
ぱっ………、とヴォルフが手を離し、自身の後ろに両腕を回した。そして、軽く目を閉じる。
「悪さはしません」とアピールしているのだ。
「……まったく。君ってほんと………。
たまにどうしようもなく困った人になるんだから…」
「ん」
こちらが諦めた様子を察して、ヴォルフが片目を開ける。「分かったから早く」の合図だ。
アリアナはため息をつき、再度目を閉じた彼の頬に手を沿わせると、長い睫を眺めながらそっ……とキスを贈った。
────ぺろり。
「…こら。ヴォルフ?」
「悪い。つい、な」
こちらの唇を、一周するように熱い物が這ってアリアナは顔を離す。
「だって、お洒落したお前に『可愛い』とか『綺麗』って言うだけなら、今日ここに来てる奴らと何も変わんないだろ?」
「…………。だから、キスしたかった?」
「そう。……誰かにお前を見られる前に」
気づくと、また背後にヴォルフの腕が回っていた。自分は相手の動く気配を察知出来るはずなのだけど、彼のやり口はそれ以上に自然で巧妙なのだ。
毛皮のコートを着ているせいで、いつもより一回り大きく見える彼が、1歩、2歩と足を進めてくる。
それに合わせてアリアナが下がると、すぐ壁に背が当たった。
なのに、ヴォルフがまた1歩、距離を詰めてくる。
ふわふわの──もしかしたら狼の──毛皮が、こちらの頬までなぞった。
「だから、もう1回して?リア…今のじゃ足りない」
「………ヴォルフ」
「お願い。な??今度は良い子にするから……約束」
「………」
まったく信用ならない言葉を、ヴォルフは子犬のように無垢なきらきらの瞳で言う。
甘えるように鼻面を擦り合わされて、アリアナは目を伏せた。口づけたいと思ったわけではない───彼の吐息が近すぎたのだ。
もはや「どちらからする」とかではない。お互いにキスをすることしか出来ない距離感で、ヴォルフがもっともっとと次をねだる。
「このままでは駄目だ」───そう思った瞬間、部屋にノックの音が響いた。
「ちょっとボス??居るんでしょ?
アリーの控え室に鍵まで締めて、何してんのよ???」
「………チッ」
「聞こえてますけど~?」
「───ハル!ちょっと待って」
そう言うと、アリアナはしかめ面で舌打ちしたヴォルフの唇に、もう1回軽くキスした。
「……今のは、私の分!」
「?」
「これで、『君を見てる他の人達とは、同じじゃない』……んだろう?」
「!……うん、そう」
と、蕩けるような微笑みを浮かべるヴォルフ。………これで、今日だけは良い子にしていてくれると良いのだけど。
「……ねえあんた、今日を旅行かなんかと勘違いしてんじゃない??」
と、扉の向こうから呆れた声が飛んでくる。アリアナがドレッサーに向かい、手早く口紅を塗った。大変良い色合いだ。
その間に、ヴォルフがドアを解錠した。
「分かってるさ。今日はアリアナのお披露目────決起集会だろ」
「有象無象に吠え面かかせるための、な」と、ヴォルフが笑う。
「分かってるんじゃない!なら、始まる前からアリーに余計な気苦労をかけないで!」
そう言ったアハルティカに、アリアナは笑った。
「気に掛けてくれてありがとう。でも、心配には及ばないよ。私には、君たち味方がいるからね」
「そろそろ時間です。準備は?」と、レイバンが廊下を小走りでやって来る。
それに頷き、アリアナは1歩足を踏み出した。隣でヴォルフがその腰を抱く。
「……私ね、『今日はきっと良い日になる』って思うんだ。君はどう?ヴォルフ」
「もちろんしてみせるさ。任せろよ」
そう言って、ヴォルフが笑った。余裕の微笑みだ。
ホールのステージから、袖に光が漏れている。
アリアナは迷いなく、そこへ身を投じた。




