兎騎士は酒を注ぐ5
───ガタゴト…ガタゴト………。
夜会を終え、アリアナとヴォルフの2人は馬車に揺られていた。やっと王城を出て、帰路につけたところである。向かう先は、マクホーン家のタウンハウスだ。
───ガタゴト…ガタゴト………。
蹄と車輪の音が、心地よく一定に響く。
アリアナはいつの間にか、それを聞きながら微睡んでいた。
うつらうつらとするのは別に、体力が限界を迎えたからという訳ではない………。夜会中張り続けていた気が、弛んだ故の眠気だった。
ストレスを解消する方法は、様々あると思う。
人によっては、不安や困り事を信頼できる人間に相談することで癒しを得るだろうし、また別の人は、運動や芸術に打ち込むことで、もやもやした気持ちを昇華したりするのだろう。
そんな多種多様な方法の中で、アリアナは最も手軽な『睡眠』という手法を愛用していたのである。
(───今日は最高な日だ…………)
と、アリアナは睡魔に誘われながら思う。
ヴォルフと『正式な婚約者同士』になれた──そのことが本当に、嬉しくて嬉しくて。
「………───」
アリアナは、夜会前に感じていたはずの不安をあっさりと手放し、深い安堵に包まれながら、ゆっくりと目を閉じていった……。
「────リア」
「…ん、」
「もう着くぞ、起きないと」
「うん…」
未だ目を開けずに、アリアナがそう応える。
すると、正面からくすくす…と控えめな笑い声が聞こえた。
そう……とても『控えめ』だ。
…この素晴らしい声の持ち主は実際のところ、「気持ち良く眠っているところを起こすのは、忍びない」……と。そう思ってくれているのかもしれない………。
「だったら、もうちょっと……」と、アリアナが貪欲に睡眠へと戻ろうとした瞬間。
「じゃあ、一緒に俺ん家行く?」
「──!!」
バチッ!と覚醒し、アリアナは目の前の美しい男を見た。
ゆったりと長い足を組み、頬杖をついて窓の外を眺めていたヴォルフが、こちらに気付いてにっこりと笑う。
「…ん?起きたか」
「……君、今──、」
アリアナは問い掛けようと動いていた口を、咄嗟に押し留めた。
「ヴォルフの問い掛け自体が、夢の中の出来事であった可能性も捨てきれない」……と、そう思ったからである。
……夢は、「願望の表れ」だとも聞く。
───「君ともっと、一緒にいたい」───。
そんな無意識の願いが、さっき耳にした言葉を、夢の中のヴォルフに言わせたのだとしたら………。…それは、何だかとてつもなくはしたないことのように思われた。
アリアナは「お付き合いの出来た当日に、もう相手の家へ行きたがる」ような、大胆な願望を持つ自分に──いや、ヴォルフが現実にそう言ったのかもしれないけど──酷く動揺し、しどろもどろになってしまう。
「────い、いや…何でもないんだ……!」
「??」
そうしている内、馬車は完全に動きを止めていた。アリアナは焦って、馬車からそそくさと降車する。幸い、ヴォルフは特に問い質すこともなく「おいおい、エスコートくらいさせてくれよ?」と、くすくす笑いながら後ろに続いた。
「…さあ、今日は本当にお疲れさま。次はヴォルフ君も一緒に羽を伸ばせるような、楽しい会でも開きたいね。我が家で」
「あら、素敵。その時はまたお声掛けさせていただくわ、ヴォルフさん」
とマクホーン夫妻が声を掛け、「夜会の準備じゃなくても、いつでも遊びに来て下さい。義兄上!」と、ユーストスがせがむ。
ヴォルフは笑って、惜しみながら3人に別れの挨拶をした。
そうして、彼らが自宅へ入って行ったのと、ほぼ同時だったろうか。
また馬の蹄の音が聞こえ始め、アリアナとヴォルフは視線をそちらにやる。
玄関前のロータリーを出ていった、マクホーン家の馬車。………それと入れ替りで、マーナガラム商会の馬車が門をくぐり、ヴォルフの前へ滑り込んでくる。
「──ヴォルフ」
「うん?」
アリアナは咄嗟に呼び掛けていた。
1歩、停車した馬車に踏み出していたヴォルフが、首を傾げて応える。
両の足をまた揃え直して、こちらに身体を向けてくれた。
「今日は夜会に出席してくれて……。本当に、ありがとう…!君も色々と疲れたろう?面倒を掛けてしまって、すまない………」
アリアナが眉を潜めて、感謝と謝罪を告げる。すると、ヴォルフが肩をヒョイと竦ませた。「このくらい何でもないさ」の身振りだ。
それを見て、アリアナはふわりと微笑む。
「……君が私の婚約者で、良かった……」
「!………」
自然と溢れた言葉に、ヴォルフが一瞬目を丸くした。………その後、にっこり微笑んでくれる。
「…あっ!家に帰ったら、しっかり休むんだぞ!」と思い出したようにこちらが念を押すと、ヴォルフは「はいはい」と言って頷いた。
───そこでアリアナはふと、声を小さくして言う。
「それと、その………」
「?」
「…君に1つ、お願いがあるんだけれど」
「!…………何だ??」
聞き返されて、アリアナはもごもごと口を動かした。忙しなく自分の指先を両手でいじりながら、「あのぅ…」とアリアナは切り出す。
「出来れば………、…今日あったことは、忘れて貰えないだろうか…?」
「!………」
「ほら…。…何と言うか、今日の私はどうにも『らしく』なかっただろう…??」
「それがものすごく恥ずかしいんだ。穴があれば…──いや、穴を掘って入りたい位に」。
……そう続けたアリアナに、ピクリッとヴォルフの眉が動いた。
「──あぁ。もちろん、忘れるに決まってるさ」
「!」
「お前が1人、『婚約破棄』とかなんとか早とちりして、ず―――っと空回ってたことは、な」
「うっ!…うぁあぁ~…………!」
言葉にされると、自分がいかに精彩を欠いていたかが、より鮮明になる。
アリアナは堪えきれず、「よしてくれ…!」と手で顔を覆ってしまった。
───カツン………。
と、暗闇で響いたのは、固い靴音。
ヴォルフが1歩、こちらに近付いたのだ。
「…………それと、情熱的な愛の告白も?」
「!」
囁くように問われて、アリアナは肩を揺らした。
…………自分の両手を、そう…っと下ろす。
「「………」」
玄関前にぽつぽつと設置された誘導灯は、照度がそれほど高くない。だから「急に刺激を受けて視界がぼやける」、だなんてことはなかった。
おかげで、後ろに柔らかい光を背負ったヴォルフのことが、よく見える。
彼は片眉を上げて、こちらを見ていた。
「…………それは。…絶対に、覚えていて」
(忘れられたら困る…)
と、アリアナは唇を噛み締める。
不格好で余裕もなくて、恥ずかしいただ一生懸命なだけの告白だった。…だけど、だからこそどうか、忘れないでいて欲しい……。──何なら、この先もずっと。
(どんな経緯であれ、私の一世一代の大告白だ)
「ん」
と、ヴォルフが返事をしつつ、大層嬉しそうに笑う。
そうして差し出してきたのは、彼の右手である。
手のひらを上に向けているところを見るに、どうやらこちらの左手を待っているようだ……。…お別れの前に、スキンシップを求めているのだろうか??
「………」
アリアナは黙ったまま、婚約者の大きくて綺麗な手を見つめた。
『ヴォルフと手を繋ぐ』………その行為は、王城のバルコニーで起こった例の一件を、否が応でも思い起こさせたのだ。
「……、…」
「おいおい……そんなに警戒するなよ。俺ら、字面は変わってないだろ?」
アリアナが少々まごついていると、ヴォルフが「別に取って食ったりしないさ」などと言いつつ、呆れた顔をしてこちらを見てくる。
果てには、あたかも自分を気遣い、譲ってくれているかのようにして、こう言った。
「お前が無理なら………いつも通りで良い。もうやんちゃはしないから」
ヴォルフが催促するように、ひらひらと差し出している手を上下させる。
「………。」
アリアナは珍しく、ヴォルフの手をギュッッ…!!と荒く引っ掴んでいた。
(…『字面は変わってない』?『いつも通りで良い』?)
………まさか、ヴォルフの方から、そんな表現をされるとは思っても見なかった!
(…一体、どの口が言うんだ!気持ちを確かめ合った瞬間、豹変したのは君の方なのに!)
そんな意思が伝わっているのかいないのか、ヴォルフはひょい、と肩を竦めて続けた。
「───結婚するまでは」
「それからなら、もう絶対良いよな?俺の好きにしても」…と。
少年のような無邪気さで、ニッ!!とヴォルフが笑う。
……どうやら、こちらの気持ちは伝わっていないようだ。
「…えっ?」と驚いて言及しようとするアリアナをスルーして、ヴォルフが新しく話題を振ってくる。…彼の右手の親指が、「愛おしくて堪らない」とでも言いたげに、こちらの手の甲を撫でた。
「なあ。───今度、一緒に出掛けないか?家選びに協力してくれよ」
「……『家』?」
また驚いて、アリアナは言葉を繰り返すことしか出来ない。
だって、「家」……?という単語は、そんな服を選ぶみたいなノリで、軽々しく飛び出していいものだったろうか??
「…???」
きょとん、としてしまったアリアナに、ヴォルフは苦笑した。
「『俺』と、『お前』が──結婚後にひとまず住む『家』、だ」
そう説明されても、「ああ、その『家』ね」とはならない。けれども、ヴォルフはお構い無しだ。何故か少し申し訳無さそうにしながら、彼は眉を潜める。
「…悪いな。元々用意してた建物はあったんだけど、そこは立地があんまりなんだ。
ほら。どうせ住むならさ、お互いの職場が同じくらいの距離にある方が良い。だろ?大体中間辺りに建ってるのが理想的だ」
「……ええと、うん…それはそうだけれど。そんな…良いのか?」
「ああ。別に、所有地が増える分には特に問題ないんだ。元の家にも、他の用途で運用の目処が立ってるし、気にしなくて良い」
そう言って、ヴォルフは肩を竦ませる………本当に、「どうってことない」というみたいに。
「だからまずはさ、お互いの希望を擦り合わせながら、家を選んでみよう。で、とりあえずはそこに住んで………過不足があれば、別のところに土地を買って、ぴったりの家を建てれば良い」
「………」
「『建てる』だなんてそんな」……と、アリアナなどは思ってしまう。
アスガルズは豊かな国だが、国土面積が莫大にあると言うわけでもない。そのため、家は売買しながら移り住んで行く、という生活が一般的なのだ。平民のほとんどが、誰かの歴史が乗った家々を、また大切に使っていく───そしてまた、それが別の誰かへ。その繰り返しだ。
貴族は、代々引き継いだ家に住み続けることが多いのだけど。
……そういった感覚は、ミズガルダ出身であるヴォルフと、少しずれているのかもしれない。
「きっと、『思ってたのと違う』ってことが、たくさん出てくる。でも、そのおかげできっと、最後には良い家を建てられるはずだ」
と、ヴォルフは依然として楽しそうに、ワクワクとしながら目を煌めかせる。
アリアナは彼からの高揚感に当てられて、思わず吹き出した。単純に、ヴォルフが自分との未来を、随分先まで考えてくれていることが、嬉しすぎたのだ。
「どう?リア」
「…うん。…すごく、良いと思う」
とりあえず、ヴォルフの意図は分かった。「実際に家を建てるかどうかは、そうなった時に考えればいいか…」とアリアナは思い直す。
「よし、決まりだな。いつなら空いてる?」
「えーと……」
と、アリアナは脳内の月間カレンダーを眺めた。
……そして、1枚捲る。1日空いているのは……。
「3週間後かな」
「………………………何だって?」
率直に伝えると、ヴォルフが目を見開き「お前マジか」という視線をぶつけてきたので、アリアナは苦笑した。
「もちろん、いつもこうと言う訳じゃないんだよ??でもほら…剣術大会前に、大きな連休があっただろう?その時に、騎士団の皆には休みを都合して貰っていたから…今度は私の番なんだ」
そう。騎士は基本、土日祝はお休みなのだが、『騎士団』自体は年中無休。
そのため、皆で持ち回りとしている『休日出勤者』に当たることもままある。当然、アリアナにもそうした当番が回ってきていたのだけど、最近は色々と事情があったので、予め非番の者に頼み込んで業務を代わってもらっていたのだ。
この行為自体は騎士団の中で横行していて、時に揉め事の種になったりするものの、アリアナからの申し出は初めてだったため、皆『よっぽどのこと』と受け止めて、快く交代してくれたのである。
「皆からの善意はありがたいけれど、だからこそ、こういうのは早めに返さないと。だろう?」
「…………。」
拗ねた態度を隠そうともしないヴォルフを、アリアナは覗き込んで説得にかかった。
「……にしたって、付き合って初めてのデートが1ヶ月後って。そりゃ無いだろう」
「俺は、毎日でも会いたいのに!」と言われて、虚をつかれたアリアナは目を真ん丸くする。
「……『デート』?」
「……デートだろ」
ポツリ、と。でも「当然だ」とこちらを見下ろし言ってくるヴォルフ。
ちょっぴりだが寂しげに見える顔も、こちらの勘違いではないのだろう。
(………うわ。何だろう、これ……胸が熱い)
「…………」
…でも、『勤務の交代』はあくまで『交代』なので、日程そのものをずらすことは、残念ながら出来ないのだ。ならばその当番の日を交代してさらに交代して……という行為は、それこそ仲間内での喧嘩に繋がる。
アリアナは考えて───なるべく近い休みを抜き出した。
「…えぇと。それは配慮が足りず申し訳なかった。
じゃあ、2週間後の土曜日は?夜勤明けだから、1日は無理だけれど───昼前には会えると思う」
「!ホントか?」
「本当だよ」
分かりやすく気分を持ち直してくれたヴォルフに、くすくす笑うアリアナ。
その額に、彼がキスを落とした。
「ありがとうな。めちゃくちゃ嬉しい」
「………うん」
「…こちらこそ」、と小さく言ったアリアナに、ヴォルフは身を屈めてきた。…自分からの『お返し』がなかったので、それがご不満のようだ。
「…何だよ?『おでこで我慢する』って言ってるんだぜ?」
と、こちらが若干の罪悪感を覚えるようなセリフを、ヴォルフがわざと選ぶものだから、アリアナは困ってしまう。
「ほら」と俯いてこちらの唇を待つヴォルフ。
その額に、逡巡しつつもアリアナは頑張ってキスを贈った。
(……ああ、やたらドキドキしてしまう)
初めてヴォルフにそうしたときと同じくらい………いや、それ以上に緊張してしまった唇の感触に、彼は気付いているのだろう。
ヴォルフがくすくすとからかうように笑った。
「じゃあ、こっちである程度めぼしい物件を探しておくよ。デートまでに」
────そう言いながら離された左手。
その薬指に、銀の輪っかが通されている。
「…………………君、手品師になれるぞ」
「心臓が飛び出るほどびっくりした」。そう言ったアリアナに、ヴォルフは肩を竦める。
「ただの飾りだよ。高価な物じゃない」
「どちらにしても、私はすごく嬉しいよ……そうだ!君の分も、その日に見に行こう。贈らせて」
「……いや、プロポーズで男側に婚約指輪を贈るのはあまり聞かないぞ…」
「……プロポーズ?」とアリアナが聞き返す前に、ぶはっ!と吹き出したヴォルフが、こちらを思いっきり抱き締めた。
「アリアナ・フロージ・マクホーン。
────俺と、結婚してくれ」
「……もちろん。喜んで!」
ぎゅう、と抱き締め返した温かさに、胸がじんじんと熱く震える。
アリアナはもう、2週間後が待ちきれなくなってしまった。
◇◇◇
コンコン。
と、1人になったヴォルフは揺れる馬車の壁を、内側から叩く。
「──はい」
返事をしたのは、商会で数人雇っている専属御者の内の1人だ。中でも彼は、残業代が出るとは言っても時間が遅すぎるであろうこんな仕事にも、文句を言わず対応してくれる、稀有な人材である。
「フィリップ。悪いが、ここらで降ろして貰えるか?」
「え?…っと…。…ここでですか?ヴォルフさん」
忠実に業務を遂行することに重きを置いているだろう馴染みの御者が、その頭の上に疑問符を浮かべる。
先にレイバンとアハルティカを<Rope's Kitchen>へと送ったのもフィリップのはずだ。だから、今もそこで2人がヴォルフを待っているのを、彼は知っている。
「早く店に着けた方が良い」と考えたのだろう、御者は感じよく提案をしてくれた。
「どこか先に寄るところがあるなら、送っていきますよ」
「いや、行き先は<R's>だ」
「??」
「なら何で、目的地のこんな手前で降りたがるのか?」…その理由が、皆目見当もつかないと困惑する御者の気配に気付き、ヴォルフは笑った。
そして、わざとおどけた調子で説明してみせる。
「ちょっと歩きたい。
実は浮かれすぎててさ。このまま店に着いたんじゃ、まともな呑み方なんて出来そうもないんだ」
「───ああ!」
納得したような声の後、少ししてから馬車の上の方で、小さな笑い声がした。多分、本人の手前、大笑いすることは憚られたのだろう───馬車がピタリと止まった。
同時に、ヴォルフが地へ降り立つ。
「分かりました。<R's>で待っていますよ」
「ああ。ありがとう」
そう言って馬車を送り出すと、ヴォルフは大きく深呼吸をした。
「───………」
…空に、細くなった月が見える。
歩く人はいない。飲食店の並ぶ通りは、まだ遠い。
途端、何だか大声で叫びだしたいような、不思議な衝動がヴォルフを襲った。
もちろん、ここは住宅街なので、そんなことはしない。もししてしまったら、人々が寝静まっているだろう部屋にたちまち明かりが灯り、何事かと窓が開かれるだろう。それは常識的に避けねばならない。
というか───こんな緩みきった顔は、誰にも見せられない。
(…………………歩こう)
今夜の目的は成功した。予定どおりに恙無く。
そのはずなのだが、こんな調子ではレイバンたちに示しがつかない。
バ シ ャ 。
心を落ち着け一歩踏み出すと、大きな水音がなった。次に、足先へじんわりと冷たさが来る。
「───……」
夜会中だろう。いつの間にか降っていた雨が、歩道に無数の水溜まりを作り、そこに空の景色を写していた。
今見下ろした水溜まりには、世界で一番幸福な男の、締まりの無い顔が映っている。
(……ああ、くそッ!)
ヴォルフは、気付いたら坂を駆け下りていた。
スピードが乗って、バシャバシャと余計に水が跳ねる。
それが、やけに愉快だった。
(──良いじゃないか。有頂天になったって)
そうしなければ、いや、それでも収まらないほどに、自分は幸せの頂点に立っているのだ!
派手に水しぶきを浴びて、物理的に頭を冷やすくらいがもうちょうど良い。
体をびしょびしょに濡らして、頬を紅潮させながら走るヴォルフは、ゆったり走っていたフィリップの馬車を追い抜かした。その脇を通り過ぎた瞬間、フィリップの「いよいよ我慢できなくなった」と言わんばかりに朗らかな笑い声が、ヴォルフの耳にも届いたのだった。
───カランコロン。
穏やかな鐘の音に反し、途轍もない勢いで<R's>に入店したヴォルフ。
それを、お客一同がびっくりしたように見る。
個人の足音を聞き分けられるはずのジャックさえ、来店に面食らった顔をしていた。…それほどに、今日の足音は普段のものと違っていたのだろう。
「──ぷっ。あっはは!なぁによヴォルフ!そんなに濡れて!初めて外に出た犬だって、もっとマシなはしゃぎ方するわよ!」
アハルティカがそう言って、小気味良く笑い声を立てた。
「ああ。むしろ『台風が来た!』って言われた方が納得するぞ、ボス」
と、びしょ濡れの姿をレイバンが笑う。
カウンター席には2人の他にもう1人、見知った客がいた──王城から直接やって来たらしい、ベルガレットである。
飲み直しに来店したのであろう彼は、いつも通りの歪めた笑顔でこちらを見遣った。
カウンターから出たジャックが、モップとタオルを持ってヴォルフに近づく。
「もう、ヴォルフさん。そんなびしょ濡れで!
他のお客様の迷惑になるでしょう?」
「…………、」
はあっ、はあっ………と息を乱したままのヴォルフは、「ほら」と差し出されたタオルを見る。
そして次にジャックを見て、彼の腕を掴んだ。
「──リアにプロポーズした」
「!!」
「OKを貰ったぞ」
ハッ……!!と、アハルティカが息を飲んだ音がした。でも、自分がそちらに目をやることはない。
ヴォルフはこの時、ジャックの示す反応に神経を集中させていた。
場所もタイミングも選ぶ余裕がない、無様な宣告にはなってしまったが…………これは、すぐにも自分が彼に伝えねばならない、重要な事実だと思ったのだ。
体裁を気にして、今、この若い兎に全力でぶつかれないようでは、男じゃない。
カウンター席に座る3人は、息を潜めてただこちらを窺っていた。
「…………」
「…………」
ヴォルフとジャックの間で、空気が張り詰める。
……その緊張を和らげるみたいに、彼は「ふぅ」と息を吐き出した。
「…何故わざわざ俺に?先に報告すべき人たちがいるでしょう。俺は耳が良いから、離れててもちゃんと聞こえていますよ」
と、ちょっと茶化すようにジャックが言う。
ヴォルフはギリ、と手に力を籠めた。
「──馬鹿言え。
お前が一番の強敵なんだから、俺が直接とどめを刺すのは当然だろ?」
「!!!」
「────何だって??」と言いたげなジャックの視線を、ヴォルフは受け流さずに捕らえた。
お利口に引き際をわきまえたような振る舞いを、ジャックにさせる気などさらさらない。
「正々堂々ぶつかり、圧倒的な差で下されたのだ」と彼に分からせる。それは、アリアナの正式な婚約者となったヴォルフの役目であり、ジャックへのせめてもの手向けでもあった。
このまま「淡い恋心だった」なんてふわふわした言い訳を盾に、ちょっとの未練でも残させてみろ。ジャックはきっと、永く立ち直れなくなってしまう。
アリアナは、人にそうさせてしまう程の存在なのだ。
ヴォルフは、ジャックの目を強く射抜く。ジャックも、こちらを見ていた。だから、少しの心配が視線に滲んでいたことを、彼は悟ったのかもしれない。
ジャックは逃げなかった。
「…とどめなんて、必要無いです」
「!」
そう言って、ぶん!と腕を払う。
「俺は最初っから、婚約相手のいる女性を無理やり奪うような、趣味の悪い男じゃないので」
そう言い切ると、ジャックは精一杯、余裕のある顔で笑って見せた。
いよいよ突き付けられた事実を、受け止めた上でへこたれはしない彼の勇姿を、ヴォルフは目に焼き付ける。
「だけど俺は近いうち────あなたを超える。
その時、アルの方から見限られないよう、精々注意することだ」
「!」
挑発的に言い放ったジャックに、ヴォルフは思わず苦笑する。
……多分、この赤毛の青年は「アリアナを好きになって良かった」、と。───そう思える終わり方をした。
「良く言った!」
「頑張ったわね!」
レイバンとアハルティカが手を叩きながら称賛を贈り、ベルガレットが口笛を鳴らす。
「────ハッ、臨むところだ」
そう言って、ヴォルフはジャックの肩を叩いた。
「さあ、皆。楽しんでるところを騒がせて悪かった。──お詫びに、全てのテーブルへ1番上等な酒をプレゼントしよう。…良いだろ、ジャック?」
「はいはい」
と、ジャックもそれにOKを出し、ワアアッ!と喜びが店内に満ち溢れる。
「何やら知らんが、めでたいことがあったらしい」。それを察して、店に入っているお客が口々に「おめでとう!」とヴォルフへ言葉を贈った。
ベルガレットが、カウンターの席をひとつずれる。
濡れた髪をタオルでザックリかき上げたヴォルフが、そこに迎え入れられた。
レイバンが、称えるようにこちらの肩を叩く。
「ついにやったな!ヴォルフ!」
「ああ、お前たちのおかげだよ。ありがとう」
「ふふっ、まあ当然ね!今日の一等賞はアリーだけど、あんただって相当な出来映えだったもの!」
「アリーだってメロメロよ!」と、アハルティカは誇らし気に胸を張った。
「そう。リアに『格好良い』って言われて、思わず浮かれた」
笑顔でそれらに答えるヴォルフに、ベルガレットが笑う。
「ふん、『浮かれる』なんてもんじゃないだろう。尻尾振って、もうほとんど襲い掛かってた」
「ええっ?!?!ちょっとあんた、どう言うこと?!」
「ヴォルフ、付き合ったその日にそんなんじゃ……さすがに堪え性が無さすぎるぞ」
「いや、お前ら誤解だ!──ちょっと、ベルさん!」
わあわあ!と騒がしいカウンター。そこに、モップを片したジャックが戻り、店はいつも通りだ。
彼が提供するのは、お決まりのあのお酒。
「さあ皆さん。グラッド・アイです」
カウンターに座る4人は、ジャックにもお酒を勧めた。全員で、緑のお酒が入ったグラスを掲げる。
「「「「「アリアナに」」」」」
──その乾杯をしたあとも、ヴォルフたちの勢いは留まるところを知らず、店の酒を無くすぐらいの気持ちでグラスを開けた。<Rope's Kitchen>は、かつて無いほどの盛り上りをみせる。
店に着くまでに散々やった『頭を冷やす』行為には、多少の効果があった………と思いたい。
───そして結局、ヴォルフは「アリアナを襲っていた」との汚名を覆すことはしなかった。
「あれは彼女が可愛らしく身を竦ませていただけだ」というのは、極近くでそれを見ていたヴォルフだけが知っていれば良いことだったからだ。
………アリアナが寝ている。
ヴォルフは、なるべく車窓の外に意識を向けるよう気を付けながら、彼女のことを考えた。
多分、アリアナは舞踏会で気疲れしてしまったのだろう。
それほどに今夜の彼女は一層可愛くて、美しくて、格好良かった。……何度、惚れ直させられたか。
そのことに、アリアナは自覚がないと見える。
でなければ、「自身に心底惚れている男」が目の前にいる状態で、無防備に寝息を立てたりしないはずだ。
(…………はぁ)
アリアナを怖がらせたく無いのに、「目一杯意識して欲しい」と心が渇望する。
正式な婚約者となった今でさえ、アリアナがこちらの気持ちに気付いてくれていないのだとしたら、彼女を手に入れたくて今日を精一杯強がった──アリアナいわく「あんまりにも格好良すぎる」らしい──自分が報われない。
(───いや、『婚約者』なのは前からか)
と、ヴォルフは内心でひとりごちる。
そう。最初から、自分達は紛うことなき『婚約者』なのである。
(今思えば何だよ、『婚約者』って。やたらと形式ばってる)
まるで、その枠組みを超えてアリアナを愛すことを咎められているような感じがして、ヴォルフはやけに不満に思ってしまう。………今まで気にもしていなかった、ただの言葉なのに。
(!…あークソ…)
と、ヴォルフは心の中で舌打ちした。
……自分自身にまで嘘をついてどうする。
「…………」
ヴォルフはポケットに手を入れた。
……そこに入っているのは、シルバーの指輪だ。
長くそこにあったので、本来の冷たさは和らいで、少し熱くさえ感じる。
ヴォルフはアリアナへの気持ちを自覚した時、これを用意した。
「まだ正式にではないけれど、契約上婚約者なのだから、彼女にこれを贈る資格はある」………。そんな風に言い訳して、肩書きにすがっていたのは自分だ。
いや。アリアナと出会ってからずっと、自分は『婚約者』という関係に固執していた。それは変えようのない事実なのである。
言うなれば、この銀の輪っかは「お守り」のようなものだ。「婚約者様の厄介な祖父を、黙らせることが出来たら渡す」という、それだけの。
………と、ヴォルフはこの期に及んで言葉を濁した。
だって、「本当は想いが通じたら、形のあるものでそれを証明したいと考えていた」──なんて本心は、重たすぎる。
ヴォルフはアリアナをちらりと盗み見た。
眠る彼女は、薄く笑んでいるようにも見える。
(……あーあ)
「…帰したくねぇな…」だなんて。
そんな我が儘が通るわけもない………何せ、アリアナは貴族なのだから。
無情にも、あとほんの少しでマクホーン邸に着いてしまう。
「────リア」
「…ん、」
ヴォルフは名残惜しく思いながら、アリアナの名前を呼ぶ。
「もう着くぞ、起きないと」
「うん…」
…………起きない。
「じゃあ、一緒に俺ん家行く?」
半分冗談、半分願望。
もし、起きないでいてくれたら───。
「──!!」
「…ん?起きたか」
それが残念なような、安心したような。
大層な矛盾を抱えた交際が、今スタートした。
◇◇◇
▼番外編
………更新予定………
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
長かった舞踏会編が終わり、次回からは結婚挨拶編へ突入します。ぜひ、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




