鹿騎士と狼商人の符合
「ヴォルフ君、先程はすまなかったね。国王や殿下達の手前、強く出れず……」
と、オスカーが言ったのは、ニクラスとその取り巻き達から十分離れた時だった。
酷く申し訳無さそうにしながら、オスカーは眉をひそめる。ヴォルフは肩を竦めて「気にしてませんよ」と言おうとした。それより前に、オスカーが口を開く。
「だが、君との婚約を許したのは、本当にアリアナの意思を尊重しただけなんだ。
あの子自身が君を選んだのだから、それに口出しをするつもりなんてないし、ましてや君を『アリアナに何もしてやれない』男だなんて、思ってはいないよ」
「どうか、誤解をしないでおくれ」とオスカーが続けた。
国王への挨拶を終え、「そこだけは明らかにせねばなるまい」と思ったのだろう、律儀に引き留めて弁明するオスカーに、ヴォルフは知らず笑みをこぼす。オスカーは、王子が「貴族として『商人』を取り込むことのメリット」を語って見せたため、「娘との婚約をさせた理由」について、こちらが何かショックを受けたのではないかと考えたらしい。
もちろん、それは杞憂だ。「王子のあんな戯言は、正にお戯れだ」ということが、ヴォルフには分かっていたから───というか、自らああして、フレデリックに口を出させるよう仕向けたのに。
(似てるなぁ)
さすがは親子と言ったところか……オスカーの謝罪は、とある姉弟のそれを彷彿とさせた。
…ヴォルフは視線を感じて、ユーストスとマリアムを見る。2人も、心配気にこちらの会話を窺っていた。どうやら、気持ちはオスカーと同じようである。
……本当に、こっちが困ってしまうほど、彼らは誠実だ。
「…もちろん。貴方がたのお気持ちはしっかりと理解していますよ。
──これからも、どうぞよろしくお願いします」
その落ち着いた受け答えを見て、オスカーは安心してくれたらしい。ほっと息を吐いた後、彼はおもむろに懐中時計を取り出した。……もうしばらくで、当初予定されていた開催時刻を過ぎる。
「さあ……今日はもう疲れたろう?あとは閉会まで、ゆっくり自由にしておいで」
ヴォルフは深く頷いた。オスカーのお言葉に甘えさせていただこう。自分にはやらなくてはならないこともあるし。
(──さて)
と、ヴォルフは踵を返して向き直る。
「リア」
「………。」
ポツン。と立ち尽くし、黙りこくったまま俯く我が婚約者様。
彼女を、どうにかしてやらねば。
「──なあ。ちょっと外の空気でも吸いに行かないか?」
ヴォルフはそう言いながら、アリアナの手を優しく取ったのだった。
◇◇◇
「………………」
アリアナは目を伏せたまま、とぼとぼと歩く。
……ヴォルフの提案に乗ったは良いが、彼はどこへ行くつもりなのだろう………??
そんな疑問も、今は言葉にならなかった。というか、他にも多くのことをヴォルフに伝えたいはずなのに、そのどれもが口から出ていかない。
それほどに、アリアナは自分の無力感に打ちのめされていた。
(……どうして、何もかも上手くいかないんだろう?)
アリアナは考える。……いや、結果的に国王への顔合わせはうまく行ったのだ……こちらとしては万々歳のはず。
なのに、アリアナはそれを無邪気に喜ぶことは出来なかった。
…………だって、自分はヴォルフのために何もしてやれていない。
挨拶を恙無く終えられたのは、フレデリックのおかげだ。王子はなぜか、自分たちが窮地に陥ったタイミングで丁度良く口を挟んでくれた。
それは単に運が良かっただけだ。
…いや。もしかすると、その見解さえも間違っているのかもしれなかった。
ヴォルフが宝石について語ったあの瞬間───ほんのわずかな間だけ、空気が変わったのをアリアナは感じ取っていたのである。
──だがその一拍後、妙な空気は何事も無かったかのように霧散した。
…もしかするとあの時………。
あの一瞬の沈黙で、ヴォルフと王子は2人だけの密約を交わしたのかもしれなかった。
………ともかく、自分の力だけでは到底、あの状況を打破出来なかったであろうことは確実だ。
(…………『頑張ろう』、って。……『また頑張れる』、って。……………そう、思ったのに…………)
と、アリアナは落ち込む。
国王への挨拶に赴く直前、ヴォルフは自分を赦してくれた。こちらの失敗を受け入れてくれたのだ。
ヴォルフの赦しは、アリアナに安息と焦りの両方を与えた。
──「君がこうして見限らずにチャンスをくれるなら───次こそは必ず、君を守ってみせる」──、と。アリアナはそう考えたのである。
(ヴォルフの言葉は、とても不思議だ…)
直接的な応援の形を成していなくとも、いつだって自分を鼓舞してくれる……。
それだけに、アリアナはショックだった。なぜ、こうも上手く行かないのだろう???
…ただ、契約を続けたいだけなのに。
…ヴォルフに相応しい人間に、なりたいだけなのに。
動けば動く程、自分がそれに足りていないという現実を再確認するばかりで。
まるで同じ所を、行ったり来たりしているだけみたいだ。アリアナはそう考えて、途方に暮れた。
正直、人生でかつてない程行き詰まりを感じている───。
『結婚』というものが現実味を帯びて、見合いが行われるようになってしまい、結果、人と自分を騙しながら何とかやり過ごしていたあの頃よりも、だ。
(…………………………どうして……)
自分が決めたことをきっちりとやる。それが、大勢の幸福に繋がることならばなお良い。
努力の仕方さえ、向かう方角さえ間違えなければ───きっと前へ進むことが出来る………はず、だったのに。
これまでの人生経験から得た自信は今、力なく萎んでいた………。ちゃんといつも通り頑張ったはずなのだけど、今夜は全く手応えが無かった。例えるなら、無重力の空間で、ただ力一杯じたばたしているだけみたいな。
現に国王への挨拶でだって、自分は手も足も出せず、ヴォルフの支配した空気に流されるままだった。
「…………………」
アリアナは、ヴォルフの後ろ姿を見つめる。
彼はこちらの手を引いたまま、ダンスホールを突っ切った。そのまま2人で、バルコニーへと出る。
夜会が終幕へと近づいたためか、会場内の盛り上がりは再燃していた。……それに比べると、外の空気は落ち着いていて随分気持ちいい──……。
なんとなくしっとり冷えて感じるため、もしかすると通り雨が降っていたのかもしれない。仕上がったばかりの新鮮な空気を浴びていると、滞った心の隙間にもほんの少しだけ風が通ってくれた気がした。
バルコニーの縁……美しく意匠の凝らされた白い柵へと、アリアナは歩み寄る。そして、やっとのことで口を開いた。
「……ヴォルフ」
「うん?」
「……連れてきてくれてありがとう。大分、気分が良くなったよ」
「へぇ。『大分』、ね」
(……う)
と、アリアナは思わず眉をよせた。ヴォルフは気付いている。自分が未だくよくよしていることを。
隣に並んでいたヴォルフが、繋いでいる方と反対の手も握ってきて、こちらに向き直る。…そして、身を屈めるようにしながらがっちりと目を合わせてきた。
「…………」
「…………」
…………いつもの表情だ。
ひょいと片眉だけ上げて、こちらを優しく促す時の。
「言いたいことがあるなら言ってみろ」、って顔。
「……っ、」
それに抵抗するため、アリアナは顔を背けた。
だけど、ヴォルフが追ってくる。「うん?」と顔を傾け、繋いだ手をちょいちょいと引っ張って。
「なあ、こっち向いてくれよ」と言わんばかりの仕草に、アリアナは妙にどぎまぎとした。
(……君はそうやってすぐ、私の『悪いところ』をあぶり出そうとする……)
「弱音などを聞かせてなるものか」となけなしのプライドを守るため、アリアナは精一杯ヴォルフを批判してみた。
彼は彼自身が、まるで真冬の外から帰ってきた時にくるまる毛布みたいな、ものすごい安心と温もりに満ちた存在であることを、自覚すべきだと思う!
厳しい状況の中、ただただ輪郭に合わせて優しく包まれる……そのことで与えられる弊害がどれ程のものか、一度胸に手を当てて考えてみて欲しい!……更に悪いのは、彼にそうされると簡単に気持ちが軽くなってしまうことだ。自分はもっと、未熟者であることを悔いるべきなのに!
せめて目線だけは逸らそうと、アリアナは視点を思いっきり下へ向けた。王宮の2階から見る庭は、大変素晴らしいものだ。夜でも青々と繁った緑が、大きな窓から漏れる光を優しく反射して、目に癒しを与えてくれる。
現実逃避の末、「ああ、そう言えば彼と初めて会った日も、こうして庭の見えるバルコニーで話したな」……と、アリアナは思い出した。…それももう、2ヶ月ほど前のことになるか。
あの時。……そう、あの時にヴォルフは、力足らずな自分を『相棒』にしてくれたのだ……。
「────ッ」
堪えきれず、アリアナはぎゅうと目を瞑った。
……今は……、どうだろう?
……ヴォルフはまだ、自分を『相棒』にしてくれるだろうか??
───彼には、他にいくらでも選択肢があるのに……???
「「………」」
沈黙の間にも、アリアナはヴォルフの優しい眼差しを感じる。彼はまだ、毛布を広げて『待っている』のだ。こちらが冷たい孤独に堪えかね飛び込んで来るのを、待ち構えているのである。
(ううう………)
それが分かって、アリアナはジリジリと追い詰められているような心地がした。だがそれでも、ヴォルフに繋がれた手を払ったりはしない。不可解なことに、なんとなくそうしたくはなかったのだ。
…まあ、優しくしていると見せ掛けて「逃がすものか」という力加減で握られているようだから、振りほどくにしても骨が折れるだろうが。
そんなわけで、アリアナは何とか平和的に現状を打破しようと、口をもごもご動かしてみたのだけれど。
残念なことを失念していた……自分には、気の利いた誤魔化しのレパートリーなど、ほぼ無いのだ。
「その……、」
「うん」
「──あっ!そう言えば私、今度アイロワ侯爵令嬢様の誕生会に、呼んでいただけるかもしれないんだ!
他のご令嬢も集まるみたいで………それに、君や服飾店の皆も参加OKだって!」
アリアナは眼を開き、「とりあえず何か明るい話題を!」と思って、本日の戦果をヴォルフに報告した。
「へぇ?やるじゃないか!」
ヴォルフの嬉しそうな声に、アリアナも嬉しくなって。
つい、そちらへ顔を向けてしまった。
「!──ぁ…」
視線が、アイスグレーの優しい瞳とかち合う。
ヴォルフが黙ったまま、静かに手を握り直した。
────あたたかい。
途端、アリアナの中で何かがぽろぽろと崩れた。
「その、私………」
「…………」
ぱくぱく、と口が変に開閉する……。意図せずして、ぽっきり折れてしまったのだ───多分、意地とか見栄とか、そういうものが。
ヴォルフの聞こうとしてくれる姿勢に、アリアナは根負けした。ハァッ…と気管に詰まった悪いものを吐き出すみたいにして、息をする。
「手放したくない」、「側に居てくれ」、と。
資格もなく与えられた温かさに取りすがる様はきっと、未練がましくて滑稽に映るに違いなかった。
……………けれど、こうなってしまってはもう、仕方が無い。
アリアナは観念して、口を開いた。
「……私ね。…今日、一生懸命頑張ってみたんだ。自分なりに、だけど。………でも、全然駄目だった」
「────、」
情けない本心が、ヴォルフをガッカリさせるのではないかと思った。けど、彼は物言いたげに唇を動かしたあと、少し眉を上げただけで、何も言葉にはしなかった。
アリアナは続ける。
「結局私は、君に貰うばっかりだ…。
……誓って、胡座をかいているわけではないんだよ??ちゃんと、君に返したいと思っているんだ。
…なのに、見ろ。私は何にも報いることが出来てない。
追いつかないんだ───君が、あんまりにも格好良すぎるから」
アリアナは弱々しく笑いながらそう言った。
ヴォルフは思うところがあったのか、繋いだ両手をそっと放し、ふい…と顔を背けた。
だが、すぐに戻ってくる。そして、苦笑いしつつ言った。
「違う。ガンバって格好つけたんだ───お前と結婚したくて」
そんな言葉に、今度はアリアナが苦笑した。
ヴォルフは会話を重くさせないのが上手だ………だからただ単に、軽妙な冗談で返事をしただけなのだろう。
それが分かっているのに、彼の返事がまるで本心のように聞こえてしまった。…なんて主人思いな耳なんだろう!
「あの日、契約書が机に出されていたのは、ただ眺めていただけ」で。
「婚約破棄なんてするつもりは無くて、ヴォルフは私のことを、ただ一人の相棒として心に決めてくれているのでは」───?
(………だなんて)
…そんな都合の良い話が、あるものか。
アリアナは頭の中で、幻想を否定する。
ヴォルフは、自分の大事な『相棒』で、婚約者で、理解者だけれど。
……突き詰めればどうしたって、契約で成り立っている関係だ。………利用し、利用される関係。
……なら、それに則らなければ。
…………ヴォルフの隣に立つために、しっかりと条件を満たさなければ。
ヴォルフは知らない。国王への挨拶で彼が耳打ちしてきた言葉に、自分がどれだけ救われたか。────どれほどの衝撃を、与えてくれたか。
アリアナは子供の頃、何故かやたらと王宮の茶会に呼ばれていた。騎士を目指し始めてからは頻度が更に増し、それは騎士団へ入団するまで続いて。
そこではいつも、自分の夢を「理解して貰えない」ということに、感謝の言葉を述べなければいけなかった。「お気遣いをありがとう。心配をかけてごめんなさい」、と。
アリアナは今になってようやく気がつく。自分が幼い頃から無意識に、己を鼓舞し続けていたということに。
「理解されないのは、立場上仕方のないことだ」。
「自分が『やる』と決めたことを貫ければ、それで何の問題もない」。
「私はちゃんと割り切っているから、大丈夫なんだ」──。
そう、思っていた。いや。思い込もうとしていた。
だが今思えば、割り切っているつもりになっていただけで、ほんとはずっともやもやしていたのだ。その形容しがたい気持ちが、いつの間にか社交への苦手意識にすげ変わっていたのである。
だが今日やっと、あの時感じていた気持ちの正体が分かった。そしてヴォルフの言葉で、幼かった頃の自分はほっとしたのだ。
──「そんな風に言われる筋合いはないぞ!」。
と、本当は思っていたし、周りにも言ってやりたかったけど、出来なかった自分。……それを、ヴォルフが認めてくれた。
……………どれだけ、嬉しかったか。
(君は分からないだろう?)
アリアナは、目の前の色素が薄い瞳を見つめ返した。
(だけど、関係ない。………返させて)
知れば知るほど、この相棒は素晴らしくて。
そんな彼に、剣しか握ってこなかった自分が、いつになったら恩を返しきれるのか。それは正直分からないけれど。
……また、こっそりその差に打ちのめされてしまうかも知れないけれど。
(それでもまだ、もしも君が隣を空けてくれているのなら。───私が、そこに立ちたいんだ)
そのためにはまず、ヴォルフに選んで貰えるような人間に。………もっと、もっと……っ。
「頼む……ヴォルフ………。今度は……!次は絶対、頑張るからっ……!」
「……………………………………………………。」
そんなアリアナの嘆願に、ヴォルフは長い沈黙で返す。
それが彼からの答えのように思えて、とてつもなく悲しくなって────アリアナは泣きたい気分だったが、何とか堪えた。
…………ふいに、こちらを見極めるようだった視線がふっと和らぎ、ふ―――……とヴォルフが息をつく。
「リア」
呼び掛けられて、アリアナはごくりと息を飲んだ。
「……………あ―――……。
俺、こんなこと言うの、柄じゃないんだけど」
そう続けながら、ヴォルフが苦笑する。
「……今日は『お前たち』と居すぎたせいで、感化されてんのかな?」と言って、困ったように眉を寄せた。
そうして珍しく少しだけ恥ずかしそうに視線を彷徨わせたあと、こちらにそれを戻し───彼は意を決したように口を開いた。
「あのさ。お前が……そんな風に思い詰める理由を、言いたくないなら言わなくて良い。
ただ、俺にとって……。
…『お前から打ち明けて貰えない』って事実は、色んな意味で相当堪える──ってことだけは、覚えておいてくれるか?」
そう言ったヴォルフの表情は、とても悲しそうだった。
「!!??」
予想外過ぎて、アリアナは衝撃を受ける。だって───『予想外』ということはつまり、これは自分の願望ではない、ということだ。彼のこの表情は、己のフィルターの掛かっていない『正真正銘』の表情なのである。
1拍間を置いて、アリアナは息を吹き返した。
「──えっ……?!?!君が!?どうしてっ???」
「………お前なぁ。俺を一体何だと……」
と言って、ヴォルフがガックリ拍子抜けしたようにこちらを見てくる。
「違うんだ!そう言うことじゃなくって…!!」と、アリアナはかぶりを振る。
(おかしいよ…!どうして……ッ?何で、私が君を『悲しませて』いるんだ……?!)
アリアナは混乱してしまった。
だって、今日してきたことは全て、ヴォルフを『喜ばせる』ために努力した結果だ。ヴォルフに自分を『選びたい』と思って貰うために!
だから、アリアナはきちんと予想していたのだ。彼からの返事を。
───「いいや、もう続けられない」、「お前はこの契約に不適格だ」………。
───あるいは、「分かった」、「もう少しだけ猶予をやる」。…………とか。
「願わくば後者が良い」………と、分不相応にも自分は考えていたのである。
とにかく、今日の結果でヴォルフを呆れさせることはあったとしても、『悲しませる』だなんてことに、なるはずが無かったのに…?
「????」
アリアナは眉をひそめ、ポカンと口を開ける。
(──ええと………つまり、今日の夜会は、君の『婚約相手選び』を左右するものでは無かったと言うこと??)
思わず首を傾げると、それを見ていたヴォルフが同じ方向に首を傾げた。…ひどく、怪訝そうにしながら。
(『私』の契約者としての善し悪しなんて言うものは、君にとって問題じゃないってこと……??)
だって、先程ヴォルフが伝えてくれた言葉は、そういった『契約条件』云々より、はるかに前提の話─────『自分自身』のことを指しているように聞こえた。
「……………???」
(いや……でも。だって、そんなの…………)
「……………………」
(まるで………婚約者が私に決まってるみたいじゃないか……?!)
アリアナは眼を見開いた。「いやいやいや……!そんなわけがない!!」と、アリアナは自分自身に「待った」をかける。
だって、ヴォルフにはヴォルフの目的があるのだ。
───自分は『貴族』だけど、『騎士』で。
もちろん、それを後悔だなんてしてはいないけれど。
…でも、どうしたって『そうじゃない』ご令嬢方と比べれば、「ヴォルフの目的を果たす」という点に置いて不足している。だから、もっと頑張らなくちゃいけないはずで。
(………なのに、その目的のための条件を差し置いて、関係なしに『私』を選んでくれている………?なんて………)
「そんなはずはない……!!馬鹿な考えを起こすのはやめるんだ!」と、アリアナはごちゃついた思考を整理しようとした。
そう。自分達の関係はいたってシンプルなのだ。
───『利害の一致』───。
ただその上に成り立っていて、それ以上でも、以下でもない。だからそもそも、お互いに釣り合っていなければ、決して選ばれないはずなのだ。
(そうだよ、だって…!君は私のこと、好きでもなんでもないんだから!)
…………
……………
………………
──────────────はた。
と。突然、思考の渦が動きを止めた。
………「君は私のこと、好きでもなんでもない」。
(──────────『君は』?)
「───………!!!!」
その瞬間、みぞおちから何か熱いものがせり上がってきた。正体不明なそれがアリアナの心臓に届き、恐ろしいほど脈打つ。
バチバチと、ばらばらだったパズルのピースが嵌まり込み、急スピードで形を成し始めた。
(────────そうだ…)
…そもそもが、おかしかったのだ。
普段の自分であれば、こんな探り探りで不確実なことはしなかったはず。
「『契約者の変更』を希望する意思が、ヴォルフにある」と気付いた時点で、話し合いの場を設けるべきだったのだ。そして、「『契約相手』として不足な点があれば教えてほしい」、「出来る限り改善の努力はする」と彼に宣言すべきだった。
それが真の意味で、「ヴォルフの意思を尊重する」ということ。
なのに、そう………ヴォルフを寝かしつけた、あの夜だ。
あの時から自分は、彼に拒絶されてしまう可能性に……自覚もないまま、怯えて。
「……ッッ、」
アリアナは喉を震わせた………恐ろしさに、涙が出そうになる。
…分からない。分からないけれど多分…………自分は『経験不足』なのだと思う。
『こういった感情』を抱えきれずにもて余し、暴走してしまうような、未熟者。
「だけど、自分が誇り高き騎士であることには変わりない」───と、アリアナは思った。
騎士は、簡単には泣かない。
涙で訴えるのでなく、勇気を持って───そう、言葉で伝えなければ。
………たとえ、それで自分が傷付いたとしても。
(───理由も知らせず君を悲しませるより、百倍良い───)
アリアナは、本気でそう思った。
舌が、緊張で強張るのを叱咤する。伝えなければ。何としてでも。
───「どうか、どうか、こちらに振り向いて」。「君を生涯大切にする権利を、私に与えてほしい」───そう言えるようになるための、初めの1歩を。
(だって、私は───)
「───っ私は君のことが、好きだから……!」
ザアッ……と風が強く吹いて、ヴォルフの前髪が舞う。綺麗な髪の毛の合間に見える瞳から、アリアナは眼を離せない。
「!…………へぇ。『すき』?」
「ああ…!!大好きだ」
一瞬目を丸くしたヴォルフ。アリアナは更に強く、言葉を重ねた。
「ほー」
ヴォルフの目がすぅ、と細くなる。
(……!!ああ、どうしよう、伝わっていない……!!)
アリアナは焦った。「言葉を尽くしたつもりだが、ヴォルフの理解には及ばなかったようだ」、と。
それも当然である。だって、伝えるにはあまりにも脈絡が無さすぎた。というか自分自身、唐突に形が与えられたこの感情に、随分と動揺してしまっている。こういう大一番には、もっと勉強をしてから臨みたかった!雰囲気作りとか、言葉の言い回しとか……何かそういったことを!
と、そんな後悔をしても、後の祭りである。ふむ、とヴォルフが腕を組んで、こちらを見つめてきた。
「…『特別に』好きってこと?」
「そうだよ。だからこそ、君に選んで貰えるよう頑張ったんだ。今回は奮わなかったけど……これからも頑張る!
だから、私に時間をくれ。婚約破棄を、考え直して欲しいんだ…!」
するとヴォルフが、「…ん??」と首を傾げた。
(ああ…!どうか分かって。悲しいことに、これでダメなら私にはもう、打つ手が思い浮かばないんだ)
アリアナは、自分が手数の少なすぎる人間であることを、自覚していた。だから、ふるふる……と緊張に足が震えてしまう。
だがそれでもアリアナは、ヴォルフの薄い色をした瞳をしっかりと見つめ、決して逸らそうとはしなかった。巧いやり方が分からないからこそ、ここに賭けるべきだと分かっていたのだ。
「この本気が、視線からも伝われば良いのに」───ただ、そう願っていただけかもしれないけど。
「ふーん」と鼻を鳴らしたヴォルフが、口を開いた。
「俺は愛してる」
「」
シュ――――――――――……、と。
しぼんでいく真っ赤な風船みたいに、肺から勝手に空気が押し出されていった。
──「え????『愛してる』って、つまり『すき』ってこと?????」……などと、何だか良く分からない文字の羅列が頭をぐるぐると巡る。
「だから、婚約破棄の予定は無い。安心してくれ」
「」
そう言われても、安心など出来はしない。もちろん、アリアナはヴォルフの気持ちを疑っているのではなかった……単に、肺に空気の貯蓄が無くなって苦しいのだ!
「リア。呼吸」
「、う、ん」
クスクス愉しそうに笑われて、何とか息を吸う。口に「ヒュウッ…!!」と景気良く迎え入れられた空気を感じた瞬間。
ひたり。と、こちらの顎にヴォルフの指先が触れた。
「化粧してて、良かったな?」
「は、え…?」
「俺は直し方を知らないんだ」
ゆるりと眼を細めたヴォルフ。「リアは?」と問われて、アリアナはつっかえつっかえ返事をした。急な接触にびっくりしたのは、自分だけらしい。
「わ、たしも」
「だよな、残念」
そう言ったヴォルフが、親指で下唇の際を軽く押した。ふに、と唇の形が変わるのを、ヴォルフがじっ…と見ている。
「でも、折角挨拶も終わったしなあ…………」
「折角」の意味も分からず、アリアナはヴォルフの指先が大胆に動き出したのを、ただ感じるばかりであった。
すりすり………と、ヴォルフが頬を撫でてくる。それが、いつの間にか自分にとってお馴染みの感触であることに気付いて、アリアナは動揺した。
知らぬ間に移動したヴォルフの手が、悪戯に耳をくすぐってからイヤリングを軽く弾いて首筋を通り、なめらかにこちらの手を取る。
アリアナは目を見開いた。
すい、と持ち上げられた自分の手が、ヴォルフの唇に誘われるのを、ただ眺める。
……ちゅ。
「「……」」
それは極々一瞬の、小さな、軽い、接触だった。
瞳で射るようにして、こちらの様子を窺う婚約者殿に、アリアナは抵抗することが出来ない。いや、…する気が起きない。
それを、眼を細めながら満足気に見て取った目の前の男は………一体、何者だ?
───………「 け だ も の 」。
そんな言葉が、脳裏を過る。
きっとこれまでは、巧妙に『紳士』の皮を被っていたのだ。
灰色がかった上等な毛並みをもつ獣が、今まさに本性を現し、獲物の味見をしようとしている……。
ペロリ。
と、舌先の熱さと柔さを、指先に感じた瞬間。
「…あッ、?」
感電したように、爪先からビリビリと信号が送られ、アリアナの脳を直撃した。閃光弾が炸裂したように、視界が真っ白くスパークする。
「足元が覚束ない」という感覚があったのは、瞬きの間のこと。気が付いたときには腰にヴォルフの片腕が巻き付き、好きにされた手にはお互いの指が絡んで、痛いほど握り込まれていた。
抱き寄せられて、ゼロ距離にいるからだと思う。
耳元で大きな音がした。ヴォルフの首に、自分の耳が触れている。筋肉が、興奮に引き攣っているのかもしれない。彼が息をするたび、グルグル………とその喉が鳴っている。
…なぜだろうか。アリアナにはそれが、酷く気の毒に思えた。
咄嗟に「無理をするな、我慢しなくて良い」、と。アリアナは空いた片手で、ヴォルフを優しく撫でてやりたくなった。
スローモーションのように、自分の手が彼のうなじへと回ろうとする。───それを、まるで他人事みたいに鑑賞していた。
(待て。このままじゃ、多分何かがまずい───)
そう思った瞬間。
バキリッ。
…と。「およそ舞踏会で聞こえていいような類ではない」と分かる、破壊音の幻聴がした。




