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狼商人は微笑む

 ベルガレットと別れたヴォルフがダンスホールに顔を出すと、ユーストスがご令嬢と輪の中で踊っているのが見えた。その美しい容姿は一際目立つので、探す手間が省ける。勝手に目に飛び込んでくるのだ。

 その瞬間、向こうもこちらに気づいたらしい──バチリと目が合った。


 ヴォルフは軽く手を上げる。すると、ユーストスはニコリと口端だけ持ち上げて応え、その後、目線を動かしてヴォルフに合図した。


 ──彼の視線の先にいるのは、アリアナだ。


 ほとんど、最後に見た位置と変わらない所にいる。

 律儀に約束を守っていたのかと思うと、彼女がいじらしくて可愛くて、自然と微笑んでいた。


 この曲が終わるまではまだ少しだけ掛かるだろう。

 もう一度踊るユーストスに手で合図してから、ヴォルフは息を吐く。


 …現状は把握できた。

 今、アリアナと話しているあの男は─────。



◇◇◇



「貴女も女性にしては良い成績を残されたようで──」

「………」


 アリアナは曖昧な微笑みで相槌をうちながら、その男の会話──否、独り言を受け流していた。


(いつまで続くんだろうか…この時間は…)


 すっかり辟易してしまっている。というのも、ほんの少し話を聞いただけで、目の前で音を出している男性が、彼以外の者─特に女性や平民を─下に見ていて、かつそれらから何かを搾取することに快感を覚える質の人間であることが、容易に察せられたためだ。


 こういった気質の人間は、嘆かわしいことに少なからず存在する。騎士団にだって、もちろんいる。

 きっと「自分が最も優れているはずだ」という感情が根底にあるため、井の中から広い世界に出たとき、そうでない人間と比べて、かかるストレスが大きいのだろう。どうしたって上には上がいるし、命令される立場になることだって普通にある。そうなると、一時的に蓋をされてしまった感情はさらに暴走し、遂には自身より明らかに弱い立場の人間を標的にすることで発散せねば、自我を保てなくなってしまう。


 もしかすると幼い頃のトラウマや、家庭環境がそうさせてしまったのかもしれないけれど、それはアリアナが預かり知るところではないし、同情はしても許容はできない。


 男社会である騎士団において、自然と標的に選ばれやすいアリアナは、そういった人間への対処法がよく分かっていたし、何なら仲良くすら出来た。アリアナと幾度となく話すうち、ガンガン態度が軟化していくのだ。きっとそれは、相手にがっつりと一線を引いた対応をしつつも、尊敬を決して失わないアリアナだからこそ為せたことであろう。しまいには、態度に難があった本人さえ気付かぬ内に「最近丸くなったね」とか周囲の人間に言われるようになる。


 …でも、今目の前にいる男性に対しては、そうは行かないだろう。今のところ、彼にアリアナが尊重できるような要素は皆無であったし、そういった人間の中でも彼が『悪』に分類される者であろうということを、アリアナの勘は訴えていたから。


 ちなみに、この男性に声を掛けられたのは、自分と躍り終わってからも側についていようとする優しい弟を、ダンスへ送り出した瞬間だった。

 「婚約者のいるご令嬢に男性から声を掛けるのはマナー違反」──それが破られた時点で、距離を取るべきだった。でも、アリアナはそうしなかったのである。


 確かに「おや?」とは思った。…でも、この男性は単に婚約者(ヴォルフ)の存在を知らなかっただけかもしれないし、アリアナも「ご令嬢達に限らずより多くの知り合いが出来たなら、それはどんなに素晴らしいことだろう!」と安直に考え、取り合ってしまったのである。


 結論、その判断は間違いだった。

 ならば深入りせずに逃げるが勝ち、といったところなのだが、どうしたことか、アリアナが簡単に話を切り上げようとすると、途端に追い縋ってくるのである。


 「じゃあまだ何か言いたいことがあるのか?」というと、そうではないらしかった。現に、先程から聞かされるのはアリアナが知らないだろうと思われる世界情勢や、悪意を孕んだ根も葉もない噂話ばかりで、核心に迫る様子が全く無いのである。


 では、「ただの世間話好きなのか」というと、それも多分違う…。もしそうならば、話の弾まない自分とではなく、別の人の元へサッサとお喋りにいっていたはずだ。話し掛けられたタイミングから見ても、彼はこちらに狙いを定めてやってきている。


(じゃあ、もしかして………用件があるのは彼でなく、()()()と言うこと?)


 そう思い至り、「う―――ん…」とアリアナは考え込んだ。


 未だ話し続ける男性の名は、『マックス・レージングル・ファーバー』。

 現ファーバー家当主であり、爵位は男爵だったはずだ。恰幅の良い──というと聞こえが良いが、どちらかというと不健康な食生活が伺える──体型で、喋り始める時に「シーシーっ」と、空気が歯と歯の間を通り抜ける音がする。何かしらの手振りをするときに、指輪が肉をぎちぎちと締め付けているのが視界に入るせいで、「大丈夫かな、痛くないのかな」と見当違いな心配をしてしまう。


 出会えば、あまり忘れなさそうな特徴の持ち主である。だが、どれだけ考えても、彼との接点は思い出せなかった。特にこちらから彼に話しておかなければならないことにも、心当たりがない。


 そうこうしている間に、まるで油を飲み込まされているみたいに、だんだんと気分が悪くなってきた。彼が披露してくれる話は、はっきりいって自分とは合わない。


 すると。



「───アリアナ」


「!ヴォルフ」


 背後からやって来たのは、ゆったりとした微笑みを浮かべたヴォルフだった。


 突如として現れた婚約者殿の「美しさ」という威圧感に、男爵は一瞬怯んだようである。

 その隙にヴォルフはするり、と自然に身を寄せてきて、こちらの右頬に自身の右頬をくっつけるような仕草をした。

 アリアナは思わず戸惑ってしまう。おそらくミズガルダでは普通の挨拶なんだろう。でも、彼から出会い頭にそれをされたのは、初めてだった。


 まるで、「ちょっとの間でも離れているのが寂しかった」と言わんばかりの振る舞いである。しまいには「ただいま」、と耳打ちまでされてしまう。


 そんなあたかも「本物の婚約者同士」みたいなヴォルフの素振りに、アリアナはなんとか真っ当な理由を見出だそうとした───「そうか。『2人の世界』感を醸して、男爵を退散させる試みだな」、と。


 頬を離した彼が、今度は真っ直ぐ顔を向かい合わせて、にんまり微笑む。ヴォルフからは彼がつけている香水と────そして、微かに煙草のにおいがした。

 アリアナの知る限り、ヴォルフもベルガレットも、愛煙家ではないはず。どうやらヴォルフはヴォルフで、上手く人脈を築くことに成功したようである。


 独特な苦味と重さを感じさせる煙の匂いが、何故かアリアナを酷く安心させた。

 いや違う───「華やかな、甘い香りでなかったこと」に安堵したのだ。



「おかえり。…来てくれてありがとう」

「ん?良いよ」


 そのまま小声でやり取りした後、身を起こしたヴォルフが男爵に向き直った。


「初めまして、マックス・レージングル・ファーバー男爵。ヴォルフ・マーナガラムと申します。


私がいない間、婚約者の相手をしてくださったようで」


 「感謝いたします」と、ヴォルフが続ける。

 「もうあんたはお呼びじゃない」と言外に告げられたファーバー男爵は、イライラと舌打ちした。


 2対1になれば勝手に退いてくれるかと思ったのだが、そうは行かないらしい。男爵はお得意の偏った価値観を振りかざして、暴言を吐く。


「…下民風情がッ。偉そうに…!まだ話の途中だ!」


 ヴォルフはひょい、と肩をすくめた。


「それは失礼しました。ですが、この後国王へのご挨拶がありますので…」


 ──「それとも何か?お前の()()とやらは、この国のトップと話すより重要度が高いとでも言うのか?」と、ヴォルフがまたしても突き放す。


 ニッコリと笑う婚約者殿に、男爵は黙り込んだ……自身の方が不利だと理解したのだろう。

 そして、悔しさからか顔を真っ赤にさせながら吐き捨てたのである。



「…『名無し』の商人が!図に乗るなよ!!」



 ──男の捨て台詞に、アリアナの中で何かが切れた。



(『名無し』だと?──この、下衆が)



 即座に男の頸部に親指を突き立て、声を出せなくしてから背後を取る。後は静かに絞め落として、介抱する振りでバルコニーに運び出そう。そうすれば簡単に、もう一言も喋らせず、この男をヴォルフの前から排除することが出来る。

 アリアナはもうたったの一秒だって、この男をヴォルフの視界に入れておきたくなかった。


「───……」


 意識せずとも、身体から無駄な(りき)みは取れていたし、次の行動へのシュミレーションも完了している…。

 自分たちを今視界に入れている人間の位置だって、正確に把握していた。


 アリアナは真っ直ぐに男爵を見つめる。緑の瞳が物騒にめらめらと燃えていることに、男爵は気付いていない。


(許せるものか)


 ───大事な相棒を、その身分を理由に軽んじた。

 それだけでも許しがたいというのに、この男は名前のことを引き合いに出したのだ。



 アスガルズの貴族は、王家から本名とは別に『名前』を頂くのが慣わしである。アリアナで言うと『フロージ』がそれに当たる。これらはアスガルズ建国の歴史書より、無作為に選ばれた名詞に由来していて、国に対する忠誠心の証明でもある。


 『それを持っていない』──つまり『名無し』と言うのは、傲慢な貴族から見た平民……または、貴族でありながらその名を剥奪されるほどの罪を犯した大罪人に使われる、ごく差別的な言葉、なのである。



 …ヴォルフはミズガルダの出身だ。だからもちろん、そんな慣わしなんて知る由もないし、そもそも無関係なのに。


 それをさも『自身が優れている』ことの証明のように──あるいはヴォルフが『劣っている』と決定付ける要素のように──吐き捨てる卑小さ。

 そして、彼を産み育ててくれた家族たちもろともの誇りすら冒涜しておきながら、何とも思わないらしいその腐った性根が、アリアナには許せなかった。


 ヴォルフのそのままで当たり前に素晴らしい、完璧な名前を──そう、マーナガラム一族の誇り高き名前を侮辱したことを、地に頭を付けて誠心誠意謝罪させなければ、気が済まない。


 たとえ、その無礼を当のヴォルフが理解していなくても、だ。


「…」


(───…ヴォルフ)



 そこまで考えてやっと、アリアナは隣に並ぶ婚約者殿の立場を意識した。



「、………」


 ………肺から静かに息を吐き出す。


 それは震えて無様に乱れていた。

 だけど、なんとか殺気を霧散させることには成功したようだった。


(……ヴォルフは『商人』だ……)


 今後お客となるかもしれない人間との間に、それを取り持つため契約したはずのアリアナが進んで亀裂を入れてしまったのでは、元も子もないだろう。


(今………。私さえ、我慢できれば……)


 …でも、やっぱりヴォルフをこれ以上謂われない悪意に触れさせたくはなくて。


「……」


 アリアナは考えるより先に、ヴォルフの腕を掴んでいた。


 そして、クロエの言っていたことを思い返す──そうだ、彼女の真似をさせてもらえば良いのだ。……アリアナの場合、節制していてお酒は飲まないのだけれど。


(…『酔ったみたいだからどこかで休みたい』と言ってしまえば良い。それで、さっさと退散してしまおう)


 アリアナは、隣に立つヴォルフの横顔を見上げた。

 嘘をつくのは下手くそだけれども、たったの数文字を並べるだけなら自分にも出来るはずだ。あらぬ心配をかけてしまう可能性もあるが、察しの良い彼のことである。すぐにこちらの意図を分かってくれるはず───、よし。



「……ヴォルフ……」


「うん?」



(!…)


 ──アリアナは面食らった、そして。



「…………っ」


 …ぎゅう、と眉根を寄せる。



 ………………………理解ができない。


(…どうして。そんなに、幸せそうなんだ──)



◇◇◇



 ──「…『名無し』の商人が!図に乗るなよ!!」。


「???」


(『名無し』?…なんだそれは。アスガルズジョークか?)


 と、ヴォルフは浴びせられた言葉に内心首を傾げていた。意味が全く理解できなかったのだ。…その瞬間。



 ──── ブ チ リ 。



「!……」


 隣から突如響いた音に、ヴォルフは目を見開いた。


(……驚いたな)


 それもそのはず。なにしろ初めてだったのだ、堪忍袋の緒ってものが切れる音を聞いたのは。


 ──「本当に音がするんだなぁ」。なんて、ヴォルフは呑気に思う。


 一般人のヴォルフには、他人の気配を察知するだなんて芸当は出来ないのだけど、今回だけは違った。その近さ故だろうか。隣から、チリチリと肌を焼くような気配が燃えあがっているのを、ヴォルフは感じていた。



(───…ああ。好きだな)


 場違いにも、ヴォルフはアリアナを想う。彼女とは対照的に、全く緊張感がない──だって。


 この「生まれてこの方、人を憎んだことなんてありませんよ」と言うような、聖人じみた印象をたたえる婚約者様が、自分のための怒りをその身の内で滾らせているなんて。


 こんなのは彼女を知る人なら誰でも、愉快に思うはずだ。現に自分の心は、持つべき危機感よりも不思議な爽快感に満たされている。


 ヴォルフは、思わず笑ってしまいそうになった。


 『名無し』?…が何かは知らないが、ユーストスから事前に注意喚起すらされないような、程度の低い悪態なのであろう。そんなのは全く問題にならない。


 ヴォルフにとっては、良く分からないやっかみよりも、明確に伝わるアリアナの正義や思いやりのほうが身に染みて、幸せな気分だったのである。


(さて……)


 これに浸るのも悪くないが、ヴォルフとてアリアナをこのような緊張状態に長く晒しておきたいと思っているわけではない。だから「どうしたものか…」、と──もちろんキャンキャン喚く男爵の方ではない、アリアナをだ──思考を巡らせた。



 その時。

 アリアナがヴォルフの腕を握った。いつの間にか、肌がひりつく感覚は消えている。


「……ヴォルフ……」


 その思慮深さを感じさせる声音に、ヴォルフは胸が温かくなった。

 …婚約者様はどうやら、『商人』としての自分を、尊重しようとしてくれているらしい。


「うん?」


 それに気付いたヴォルフは、見上げてくるアリアナを見つめ返して、穏やかに微笑んだ。

 真ん丸く見開かれた美しくて優しい緑色の瞳に、否応なく吸い寄せられてしまう。



(…力一杯抱き締めたい。──リア、今すぐ俺のものになって)



 そうしてしまいたい衝動がヴォルフを襲ったが、何とか捻切ることに成功した。自律心があったわけではない──唐突過ぎて、アリアナに怖がられてしまうのが嫌だったのだ。

 せめて、いつもみたいに頬に触れたいと思ったが、それも自粛した。


「…どうやら、彼女の体調が良くないらしい。国王にお会いする前に、少し休ませなくては」

「!…、」


 ヴォルフが男爵に向かって言う。

 すると、アリアナは少しだけ目を泳がせてから、黙ってその丸いおでこをこちらの肩口に付けた。単純に、「言葉を喋れば嘘がバレる」と思ったからだろう。

 一生懸命、「具合が悪そう」に振る舞っているだけのアリアナ。なのに、肩へ掛かるささやかな重みとぎゅっと握られた腕の感触を馬鹿みたいに喜んでしまう自分がいて、ヴォルフはこっそりため息をつく。

 そして、そんなことが傍目には分からないほど完璧に、別れの礼をとった。


「申し訳ありませんが、これにて失礼いたします…。


────…ああ。そうだ、」


 ピタリ、と。


 アリアナを連れて1歩踏み出したはずのヴォルフが、動きを止めた。

 男爵に、歯を見せて笑う。


「貴方の領地にあるグリンカム商会。上流階級の間で、かなりの売り上げを出しているそうですね。

同じ商人として、羨ましい限りです」


 言うと、男爵の目蓋が僅かに持ち上がった。濁った瞳がよく見える。


 ヴォルフは笑みを浮かべたまま、片方の眉をくいと上げた。──力のある競合他社について、優秀な自分の右腕がその内実を調べ上げていない訳がない。

 アスガルズにやって来てすぐ、レイバンが報告してくれた情報は、気分の良いものではなかった。



 貴族たちへの橋渡しをすることを条件に、男爵が法外な仲介料をせしめとっている商会───それがグリンカム商会だ。

 …男爵は仲介料の件以外にも、随分と好き放題やっていたらしい。特に、商会で働く者たちや、その家族である女性たちにしてきた非道な仕打ちは、とてもじゃないが見過ごせるものではなかった。


 故に、マーナガラムはグリンカムへコンタクトを取ったのだ。こちらに合併すれば、男爵を通さずともアリアナから物を流通させられる。つまり、彼の理不尽から解放してやれるのだ。マーナガラム商会の方としても、グリンカムのノウハウや顧客を得られるなら、損はなかった。

 渡りに船で、彼らはマーナガラムへ与することにもう同意している……つまり、名前は残しているものの、実質「グリンカム商会」は我が傘下であるということだ。



 グリンカム商会の商会長、スティーブン・グリンカムは、今までどんな圧力にも声を上げず、黙って耐えてきた。それは、いたずらに抗議することが悪手だったからに他ならない。


 その上、何とか上手く騎士団に頼れたとしても、それが因縁の終止符となる確証は無かった。

 貴族から平民への罪は、被害者が求めるよりも刑罰が軽くなるのが常だからだ。

 国による制裁なんかでは、グリンカムの被った痛みを癒せるはずもない。無論、満足など出来ないだろう。


 だから、騎士としての誇りを持つアリアナにはこのことを言いたくなかったし、男爵にも会わせたくもなかったのに。


 まさか、向こうから仕掛けてくるとは思っていなかった。

 彼がどこから聞き付けたのかは分からない…。が、おそらく、同じ立場となりつつあるアリアナから、何かしらの申し入れがないか様子見をしたかったのであろう。男爵にはきっと、()()()()()()()()を先んじて行ったことで、その界隈に幅を効かせている自覚があった。



 ─「うちにはアリアナがいる」。

 そう言ってスティーブンと合併交渉しようとした時、彼は言った。


 ─「ヴォルフさんを信用します」。



 ───「でももう、貴族のことは信用できそうもありません」───。



 ………そう語った彼のために。


(俺が、お前を裁こう)



 獄中生活など生温い。

 じわじわと……苦しみ抜いた末、貧しさにあえぎながら路傍で死ぬように。そう、何から何まで徹底的に。



 とは言え、男爵が今から散財を改めて慎ましく暮らせば、細々と生き永らえることは出来るかもしれない。……その希望を残したのは、ヴォルフにとって最大限の慈悲だった。



 ヴォルフは黙ったまま、じぃっ……と男の眼を覗き込む…。


「…───」


「……ウッ…!?」


 その深みに囚われた男爵が、引き吊るような呻き声を上げた。


 そして、ぶるぶると身体を震わせ始める───雪原に独り、放り出されたみたいに。

 人は太刀打ちできない自然を前に、縮み上がることしか出来ない。



 …………そこへサクサクと、雪上にクッキリと足跡を残しながら、尾を揺らし近付いていくものがいる───。




 既に名前だって申し上げたはずなのに、男爵は初めてその輪郭を見たみたいに、口をあわあわと動かした。

 「何だ、こいつは───?」と言いたくて、でも言葉にならない。…例えるならそんな感じだった。



「またお会いすることも、あるかもしれませんね───その時は是非、よろしくお願いします。

…では」



 そう言って、何か獰猛で美しい大きな獣が、極めて至近距離を悠然と通り過ぎてゆく──そんな心地に支配され、不規則に手と眼球を震わせるだけの男爵に、すれ違いざまヴォルフは告げた。



「───彼女が『同類』とでも思ったか?」

「…………!!!」


(貴様のように、欲望や金のため他人を消耗するような人間だと?)



「───はははっ」


 ヴォルフは嗤う。可笑しかったからだ。


 男爵は一言も喋らなかった。小さく、唸るようにされた問いに、答えは求められていないことを──いや。小物故に、一言でも口答えすれば死が待っていることを──彼は悟っている。



(俺にとって直接手を下す価値すら無い自分に、感謝するといい……この、愚図が)



 ヴォルフはさらりと目線を外すと、全てが無かったように男を後目にした。


「行こう」


 ダンスが終わってから急いで駆けつけてきたのだろう。思ったより早い段階で合流し、男爵の背後から会話を聞いていたユーストスに、ヴォルフは声を掛ける。

 信じられない程冷えきった表情を浮かべる義弟の頭を、軽く撫でてからその肩に腕を回した。そして3人一緒にダンスホールを離れる。


 その間も、男爵は満足に呼吸すら出来ていない。

 『それ』が牙を収めて姿を消してもまだ、死の匂いが絡まり離れなかったからだ。





微笑むように牙を剥く。


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