鹿騎士と狼商人の黎明
『マーナガラム商会』。
それは一代で築き上げた、ヴォルフにとって宝とも言えるもの。その商会が、今また目覚ましい成長を遂げようとしている。
───契約結婚相手、アリアナ・フロージ・マクホーンを手に入れたことによって。
「────はあ、」
剣術大会から5日程過ぎた今日、ヴォルフが居るのはアスガルズ支社の最上階だった。
そこに構えられているのは、商会長のための執務室。ヴォルフは手にしていた契約書を、パサリと机上に置いた。
……そして、大きな大きなため息をつく。
部屋の中で今点いているのは、机の上の電灯だけだ。
日も沈み切り、暗くなった室内を、ぼんやりとした橙色の光だけが、薄く照らし出していた。目の前のことだけに集中するには、ちょうど良い光源である。
すべての社員が退勤し、ひっそりと静まり返った建物……。「今日も泊まる」とことわって、管理係ももう詰所に帰らせた。そのため、今支社内に残っているのは、ヴォルフのみである。
(…こんなもん眺めて、何になる───)
ヴォルフは今しがた机に放った契約書を、忌々しく思った。
契約書は通常、商会が利用している銀行の貸し金庫にて、厳重に保管する決まりとなっている。間違っても、こうして仕事の合間に眺めるようなものではないのだが。
……この1枚だけは、別だった。
商会長室にある金庫に保管して、わざわざ手元に残しているのだ。その署名欄には、もう見慣れた羅列。
──《アリアナ・フロージ・マクホーン》──。
美しく生真面目な書体でサインされた名前を、ヴォルフは顔を背けながら目だけで流し見た。
(…まさか俺が、こんなことになるなんて、な)
ヴォルフは頭を軽く振った。沸いてくる感情を、追い払ってしまいたかったのだ。
(出過ぎた執着なんて、俺たちには必要ない)
だったら、
……「今頃どうしているだろう?」、とか。
………「訓練で怪我をしていないだろうか?」、とか。
…………「そもそも剣術大会で受けた傷の具合はどうなんだ?」、とか。
(そういうのは考えちゃいけない。──分かってんだろ?)
そのように「冷静になれ!!」と糾弾する自分のそばで、「いや、でもアリアナだって悪いだろう?」と都合の良いことを抜かす自分もいる。
「………」
……ヴォルフは静かに目を伏せた。
(……───リアは、俺とは違う)
……清く正しく美しく。世の1人1人に、等しく心を傾けているのだ。
(………分かってる)
「俺が強く欲しがりさえすれば、リアも俺だけに同じものをくれるようになる」───などとは、決して思わないことだ。
ヴォルフはそう自戒した。でなければ、後悔することになるのが分かっていたからだ。
(リアは、他人の気持ちに聡くないわけじゃない。むしろ、よく気が付き過ぎるくらいだ。それにもちろん、不誠実な訳でもない……)
…なのに、これまでアリアナは、ジャックの好意に応える事がなかったのだ。
それは何故か?───理由は明らかだった。
(──リアは、愛情の適用範囲が狂ってる──)
アリアナのように、すべての人間に向かい合って、全員に同じだけの愛情を分配することなど、普通は出来ない。
でも、アリアナは無自覚にこれをやってのけた上、「皆も当然そうなのだ」と思っている。
そんな人間が、自分に向けられた『特別』を、理解する訳がないのだ。従って、それを受け取り応えることも無い。
(…………今は、まだ)
そう、アリアナが今後も一生このままだとは、全く言いきれないのだ。これから彼女が、何かの拍子にそう言った感情を芽生えさせることだって、十分あり得る。アリアナに特別な好意を抱かせてしまうような人間が、突如として現れるかもしれないのだ。
(それが───もし、彼女の騎士人生を尊重してくれるような『貴族』だったら…?)
ヴォルフは舌打ちして頭を抱えたくなった。「たられば」に脳の容量を割くのは趣味じゃない。というか、そういう不安を抱いたこと自体が「契約」相手としての思考から、逸脱してしまっている。
だが、どうしても考えることを止められない。……そんなことが続けば当然、否応なしに気持ちを自覚してしまう。
───そして、例の感情に1度気付いてしまったが最後、無かったことになど出来ないのだ。
(………なら、俺はこの先……、)
…ヴォルフは、机上の契約書に指を滑らせた。
そこに記された、1文。文字にして、わずか数十字。
──《いかなる理由があろうとも、婚姻関係は解消しない》──。
(この、たったの1行に。一生縋って、生きていくしか無いってのか──?)
「はあ……」
(冗談じゃない)
ヴォルフはズキズキと痛みだした頭を抱えて、椅子から立ち上がった。
少し肌寒い。室温を奪っている原因であろう大きく作られた窓の側に寄り、ヴォルフはカーテンを閉じようとした。
「…………ああ、」
何の気なしに、空を見上げる。
今日は満月らしい。
「…月が綺麗だな」
「────狼男にでも変身するつもりか?」
発した独り言には、何故か返事があった。それも、今1番聞きたかった声で。───どうして。
「……だったらどうする?」
ヴォルフはゆっくりと振り返った。
──執務室の入り口に、アリアナが立っている……。
今は夜で、部屋も薄暗い。なのに、彼女の瞳は相変わらず、陽の下に居るのと同じくらい輝いていた。暗闇の中で発光しているようにさえ見える。……夢みたいだ。
緑色の素晴らしい煌めきに囚われて、ヴォルフは顔を歪めた。
美しいアリアナは、窓際に佇むヴォルフを少しの間見つめる───そして、にこりと笑った。
「そうならないよう、君を助けに来たのさ。月を眺めるのにも、いい加減飽きてきた頃合いじゃないか??」
「…へえ?……なんでそう思う?」
「簡単だよ。今日、2人から通報を受けたんだ。『最近、ヴォルフが寝ずに仕事してる』ってね。
………君、剣術大会よりも前から、ずっと寝ていないんだろう?…これは、重大な取り締まり対象だ」
「今日は、その抜き打ちチェックさ」──と、茶化したようにそう言って、アリアナがゆっくりと近づいてくる。……どうやら、理由を聞き出すつもりは無いらしい。強く問い詰めないことで、被疑者を逃亡させないようにしているのだ。
「………」
(『2人』ってのは、レイバンとアハルティカか……?…くそ、アイツら)
ヴォルフは少しだけ息をついた。…今は、仕事をしていたい気分なのだ。睡魔に捕まるわけには行かない。それが、如何に幸せな夢でも、だ。
ヴォルフはアリアナを見つめ返す。
「言っとくが、そりゃ大袈裟なタレコミだ……」
「『大袈裟』??」
「そう。だって全く寝てない訳じゃない。ちゃんと隣の仮眠室で寝る時もある」
「そうか。じゃあ、そこへ。私が寝かしつけてあげよう。良い子は寝る時間だ」
「いや。『良い子』じゃないからいいんだ」
「俺って狼男だから」。そう言って、「あおーん」と遠吠えの真似をしてみせると、アリアナが笑ってくれる。呆れたように、おかしそうに。
(………───ああ、可愛い)
そんなことを思っているうちに、距離を詰めていたアリアナ。「さすが」と言うべきだろう、「避けなければ」と思う前に、素早く両手を取られた。
その感触で、「自分がうたた寝して見ていた夢ではない」と悟り、ヴォルフは密かに驚く。彼女は現実だ。
「…どうやって…。なんで、ここにいる?」
今更な疑問に、アリアナが苦笑した。
「君は勘違いしているな?確かに、私は寮暮らしだけど…。…『休日以外は支部から出られない』というわけでもないんだ。
平日でも、事前に申請さえしておけば、ちゃんと外出できるんだよ。日は跨げないけどね」
「ああ、会社の鍵は、さっき詰所のステラさんにお願いして開けてもらったよ」──と、そう返してくるアリアナ。ヴォルフは、彼女の門限からすぐさま逆算した。ここから支部までの移動時間を考慮すると……。
「じゃあ、あと1時間も居れないじゃないか」
「そうなんだよ。だからほら」
子供たちが戯れにダンスするように、アリアナがヴォルフを仮眠室へ誘導しようとする。
向き合って握った手を、くいくい、と優しく引っ張りながら。
「……………、」
「……こら。…もう。ヴォルフ??」
「行きたくない」、と駄々をこねるように歩みが遅いヴォルフを見て、アリアナが面白そうに笑う。
ヴォルフは幸せを感じながら、その顔をぼうっと眺めた。
……最近のアリアナは、こちらの葛藤に気づいている節がある。それがまさか、己に起因するものだとは思っていないだろうが。
(そのことに気付く度、なんだかんだと俺を笑わせようとして………ああ、くそ)
そんな風に気持ちを傾けてくるくせに、アリアナが自分に用意してくれたのは、「相棒」という名の椅子だけだ。
(……最初はあんなに『居心地が良い』と思っていたのに……)
それが今では、酷く窮屈に感じる。
そうして執務机の前を通った時だ。
点された小さな灯りで、アリアナの剥き出しな腕が見えた。
……そこに、多くの傷があることを知る。手の平に感じるタコの感触以外にも、こんなに、沢山。
それはきっと、アリアナの誇りなのだ。
「…………」
笑った顔、怒った顔、…泣いている顔。ソーセージを頬張って、幸せそうに蕩けさせる顔。それを見つめる自分に、嬉しそうな顔で残った1本をすすめてくれる、その心遣い。身分の差を感じさせない振る舞いで、仲間のレイバンやアハルティカのことまでもを尊重しようとしてくれる、懐の深さ。
それだけに留まらず、水や汗に濡れてきらめく肌や、意思が強くてときどきいたずらっぽく輝く瞳、そして、今見せた腕に残る傷なんかが。
───いちいち、心臓にクる。
(頼むよ、リア)
ヴォルフは思わず懇願した。
(……これじゃあジャックの二の舞だ。他の奴らはお前の大きすぎる器の中にチャプつくだけで、満足できたかもしれないけど)
ギリ…、と。ヴォルフが唇を噛み締めた。
(───俺は違う。『満足』なんて出来ないんだ)
……自分が勝手をしただけなのに、こうしてわざわざ夜に様子を見に来てくれる。
(俺はしないよ。するとしたら、世界で1番大事な子にだけだ)
────けれど、アリアナはそうじゃない。
(…くそ、なんだか泣きたくなってきた)
優しくされて「泣きたくなる」だなんて、よっぽどだ。確かに、自分には休息が必要なのかもしれない……。
アリアナは執務室に直結する仮眠室への扉を、器用に肘で開けてみせた。そうしてヴォルフを中に通す。こちらの部屋は、満月の明かりにやわらかく照らされるのみだ。そして、アリアナによって電気が点けられることもなかった。
先程も言っていたように、アリアナは自分を寝かしつけるつもりなんだろう。
とことこ、と2人でベッドの側に歩み寄ると、アリアナが優しく促した。
「さぁ、ベッドに座って。…そう。着替えはある?」
「…良い、脱いで寝る。あつい」
言いつつ、ヴォルフはシャツを脱ぎ捨てた。
先程とはうって変わった体感温度。その変化からやっと、自分の体調がよろしくないことを知る。
「そうか」
と言って、アリアナは戸棚に向かった。おそらく、水差しでも探しているのだろう。彼女はこちらの不調に気付いていたらしい…。ヴォルフは、アリアナの背中を眺めた。
彼女が「自分のために何かをしてくれる」、というのは大変気分が良い。が、あまりにも無防備すぎやしないだろうか?
「仮眠室」とは言え、ここは紛れもなく「ベッドルーム」なのだ。そんなところで上裸の男に背を向けているのだから、何かされても文句は言えないだろう。
「………うーん…、あ。ここかな??」
「…………」
熱が上がってきたせいか、今度はわんわんと反響するかのようになり始めた頭痛。それに眉をしかめつつ、ヴォルフはジッ……とアリアナの後ろ姿を見つめた。
いよいよ頭がおかしくなってきているらしい。唐突に、ヴォルフは思った。
(───優しく、抱き締めてしまいたい)
そして、びっくりした顔で振り返ったアリアナの唇に、甘くて長くて深い……そんなキスをするのだ。
「………」
その後、潤んだ瞳でアリアナを見つめ、小声で愛を──そう、まさしく「高熱に浮かされているんですよ」って感じに──囁いてみたら、どうなるだろう?
…彼女は優しいので、きっと「病人」を突き飛ばしたりなんてしないはずだ。しかも貴族だから、そんな風に狡く男から迫られたことも、今までにないはずで。
(……多分、強くは抵抗しない。なんなら、驚いて固まるかもしれない)
その隙に、アリアナをベッドへ押し倒せばいい。
───そして優しく丁寧に、彼女の全てを暴くのだ────。
「……はあ、」
(……………どうかしてる、な……………)
ヴォルフは「馬鹿馬鹿しい」と、犯罪染みた思考を放棄した。……自分は別に、アリアナから全てを奪いたい訳じゃない。
(そうじゃなくて、俺は────リアにも『同じ気持ち』になって欲しいんだ)
………と。
また、思考がスタートに帰りついた。「だからそうはならないんだ」と、さっき執務室で思ったばかりなのに。
最近はぐるぐると同じところを廻るばかりとなってしまった気持ちに、ヴォルフは再度頭を抱えた。
(もし…、……もし普通に、リアと出会えていたなら………)
──と。……ぼんやり、思考が滲んでいく。
(…『リアの全部を尊重しなければ』、だなんて思わなかったはずなんだ…)
きっと、恋愛に興味のないアリアナを、あの手この手で引き寄せて、絶対に逃がしはしなかった。
彼女の尊い博愛主義を真っ向から否定して、「他人を特別に想う」ってことがどういうことなのか───それを身をもって、彼女に解らせてやっていたはず。
だけどあの時───自分は契約してしまったのだ。
(………利用する代わりに『リアの全部を守りたい』、って。……そう思ってしまった………)
「───よっ、…と」
アリアナはどうやら看病慣れしているらしい。母か弟の世話で技術を身に付けたのだろうか。
棚から水差しを見つけてコップに注ぎ、それらを溢さないよう手に持って向かってくる。腕にはタオルを幾つかぶら下げていた。
両手が塞がり、いよいよ狼の目の前に放り出された子鹿状態のアリアナを、ヴォルフは爛々と見つめる。
(このままベッドに引きずり込んで、朝までじっくり啼かしてやろうか…)
しかし、ヴォルフは結局、ひとりベッドに潜り込んだ。正面からじゃ、隙に付け入ることなど到底出来はしないだろう……アリアナ相手に勝算があるとは思えなかった。
「水は飲める?」
「今は渇いてない…」
「そうか。じゃあいつでも飲めるように、水差しとコップをここに置いておくから。忘れて倒したりするんじゃないぞ」
ベッドに程近い、小さなサイドテーブル。アリアナは、そこに水差しとコップを置いた。
「………」
そして、テーブルとセットになっているチェアをベッド脇まで押してきて、ストンと座る───そっと、こちらの手を握って。
「!…ぁ」
───「用が済めば帰ってしまう」、と。ヴォルフはそう思っていたのだ。だから、驚いてアリアナを見上げた。
「…うん?」
片眉を上げて答えるアリアナ。「なんだそれは、俺の真似か?」と言いたかったが、音にはならなかった。
(…………はあ、)
そして内心でため息をつく。
こんなの、わかってない奴だったら勘違いをしてしまう。
声を大にして言いたい。「お前の愛は異常だ」、と。
みっともなく喚いて「俺のことだけ好きになって」と伝えたい。
(でもしないよ、俺はおとなで、商人だから)
それを忌々しく思う。あんな契約さえしなければ。
多分、当時はアリアナに対して『仕事』の意識が先行しすぎていたのだ。ひたひた…と、実際にはほとんど並走していたもう1つの感情に、気付けていなかった。今になって、それが猛スピードでこちらに迫ってくる。ゴールを目指して。
(馬鹿なことをした──『契約結婚』だなんて)
…だが、それがなきゃそもそもアリアナと出会っていないのも事実。
(だったら……)
「…いつまで…………、っ」
ぐっ、とヴォルフの全身に力が入る。握った手や、引き結んだ口、瞑った瞼。
「なあに?」
───弱った思考が、口をつかせた。
「いつまで、一緒にいてくれる──……?」
「ずっとだよ。」
ヴォルフは目を見開く。
こちらの必死さが、表情に現れていたのかもしれない。アリアナは何かいとおしいもの─赤ん坊や子犬だとか─を見つめるようにして笑ったかと思えば、真摯な瞳と声で、間髪いれずにそう言い切った。
(────『ずっと』?いや、そんな訳が………)
ヴォルフは否定する。それはきっと、手放しに信じるには値しない、言葉の綾。なのに、その一言の威力はとんでもなく、ヴォルフを簡単に夢の世界へと落っことした。
「君が眠るまで、ずっとだ」───と。
遠くから、声が聞こえる……。きゅ…、と手が握り返された。
その暖かさを感じながら、ヴォルフの瞼は閉じられてゆく──。
◇◇◇
すう、と寝息をたて始めたヴォルフに、もう側を離れても起きない、と分かっていたが、アリアナは時間ギリギリまでヴォルフのぬくくなった手を握り続けた。
窓際で大きな月を背に背負って立つヴォルフ。
見た時点から、彼の体調が芳しくないことを悟っていた。顔は青白く、目にもいつもの覇気がないのに、呼吸だけは軽く運動した後みたいに微かに乱れていたから。
なお握った形を保持しようとするヴォルフの手を、アリアナは丁重にほどかせた。そして、代わりに持ったタオルで、見える部分の汗を軽く拭いてやる。腕まで拭いてから、ヴォルフの顔をもう一度覗き込んだ。
苦しくはなさそうだ。おそらく寝不足からくる不調で、「今日ぐっすり寝れば明日には問題ないところまで回復しているだろう」と当たりを付ける。
もう汗が滲みはじめたその額。アリアナは再度タオルを当ててから、起こさないよう細心の注意をはらって額にキスをおくった。
(おやすみなさい、良い夢を)
「どうか起きないでくれ」と祈りながら、アリアナは仮眠室の扉を静かに閉じた。
……そして、足音を立てずに執務机に向かう。
(────やっぱり)
仕事で使っていたと思われる書類やメモが丁寧に並べられている上に、不自然に投げ出された見覚えのある紙。
そう。ヴォルフと出会った時、自分がサインした契約書だ。
「………」
間違っても触れたり、風で位置がずれたりしないよう気を付けながら、アリアナは中身を検分する。
───結婚のこと、お互いの仕事のこと、財産のこと。
…特に、あのときの内容と変わったところは見受けられない。
(なら、どうしてここに……?)
契約の更新でも変更でもなければ、何故ヴォルフはこんなものを取り出していたのだろうか。
「………」
(もしかして………、破棄するために───?)
瞬間、ぐらん!と地面が揺れたような心地がした。……足になんとか力を込め、アリアナは考える。
(まさかそれが、ヴォルフの最近見せる違和感の正体なのか?)
「そんなはずはない」───とは、言えなかった。むしろ、そう考えればヴォルフの難しい表情にも説明がつく。「契約破棄について、言い出しあぐねているのだ」、と。
「………っ、……ふ――――……」
どくどく、と脈打つ心臓に黙ってもらいたくて静かに深呼吸する。
(大丈夫、落ち着いて)
相棒という関係性を抜きにしても、ヴォルフは自分のことを少なくとも『友人』ぐらいには思ってくれているはずだ。何か、お互いの関係に決定的な不備があった訳ではないと思う。
だから、「今すぐに契約の撤回を!」と言われることはないだろう。
「………、」
………でも、もし社交で思ったように結果を出せなかったら?
………騎士などでなく社交に集中して、商会をもっと効率的に大きくしてくれる貴族の女性が現れたら?
(……うぅ、)
と、アリアナは心の内であえいだ。
ヴォルフは単なる契約相手の自分から見ても、大変素晴らしい男性だ。細かい気遣いが出来るし、動作もスマートで無駄がない。一見冷たく、見るものが圧倒されるような美貌の持ち主だが、実際にはチャーミングなところがあって、話せば話すほど惹き付けられてやまなくなる。どこかほっと安心させてくれるのだ。
レイバンは以前、貴族と商人の隔たりについて話してくれたけれど。
…やはりアリアナは、「それを超えて余りある程に、ヴォルフは魅力的だ」と思ってしまうのである。
そんな彼と「是非結婚したい」と言う、商会にとって理想的な女性がいても、何らおかしくはないんじゃないだろうか?
…いや、すでに誰かが名乗りをあげている可能性すらある。
「………──」
そこまで考えて、アリアナはもう一度大きく深呼吸した。
自分には、剣しか。
…それしかないから。
……そのことを、誇りに思っているから。
ヴォルフにより良い相手が現れたなら……、笑って送り出してあげなければ。──潔く友人として、手を離してあげるべきだ。
ズギリ、と。体の内が嫌な音をたてた。
(……ヴォルフは、自分自身でも想像がつかないほどの未来へ、向かおうとしているんだ……)
────そんなヴォルフに必要なのは、きっと。
(彼に見合うぐらい一流の、契約相手)
それは多分、…………『アリアナ』じゃない。
(……………)
───『騎士でいたい』。その現状を維持するだけでもいっぱいいっぱいだったアリアナと、まだ見ぬ場所へ到達しようとしているヴォルフ。2人はそもそも、結婚相手探しのモチベーションに差がありすぎたのだ。
「…………っ、」
アリアナは、目蓋をぎゅっと閉じる。
……自分はなぜ、そんな初歩的なことにも気づけなかったのだろう────??
(私とヴォルフは………全然違う。悲しいほどに)
それでも………ベルガレットは大会で、自分を『変わった』と言った。
それは間違いなくヴォルフのおかげだ。
(私たちは違い過ぎたから。だから、こんなにも早く、強く、変化した)
アリアナはそんな自分の変化を好ましいものだと思っているし、それを与えてくれたヴォルフに、心から感謝している。
だから。
だから、誰かがどうせこの先、ヴォルフを幸せにするなら───。
(───それは、『私』が良い)
チリリッ───、と。
音を立てて胸に灯ったのは、これまで抱いたことのない、新しい炎。
ぐっ……!とアリアナは拳を握る。
思い返せばヴォルフはこれまで、ときどき間違うことはあっても、こちらを理解しようとする努力を惜しんだりしなかった。
……だったらまずは、自分もそれに倣って彼のために今出来る努力を精一杯するべきだ。
───ヴォルフに、きちんと返せるように。
夢に向ける彼の熱意を尊重しながら、『隣にいる人間』として選んでもらえるように。
諦めるのは、やるべきことをすべて試してからでも遅くはない。
アリアナは執務室から廊下に出る扉へ手をかけた。
1度だけ、ヴォルフの眠る仮眠室への扉を見つめる。
(───すまない)
見苦しく抗う自分に免じて、あと少しだけ許してはくれないだろうか。
「簡単に離れたりなんてするもんか」
音もなく、扉は閉じられた。
◇◇◇
瞼にうっすらと朝の光を感じて、狼は目を覚ます───。
「あら、起きたの寝坊すけさん」
「……アハルティカか」
ずいっ!!と、目の前に水の入ったコップが差し出された。
「アリーじゃなくて残念!──酷い声よ、水でも飲みなさい」
体を起こしてコップを取ろうとすると、アハルティカが悲鳴を上げる。
「ちょっとあんた裸じゃない!!アリーに手ぇ出したんじゃないでしょうね!?!?」
いつの間にか下も脱いでいたらしい。
勝手に仮眠室へ入ってきたのはそっちなのに、「この性欲狼!!」とよく分からない罵倒をされてしまう………ヴォルフはアハルティカを放っておいて、入り口近くに立つレイバンへ声をかけた。
「ん…、もう昼前か。
休日の申請してくれたのか?」
「実を言うと、昨日の内から申請してある。誰から見ても、お前の様子はおかしかったからな」
こくり、と水を飲んでから聞くと、当たり前のようにそう返ってきて、ヴォルフは思わず唸る。
昨日思考し、口に出したすべてを一言一句記憶している。「おかしかった」ゆえに、あれはまごうことなき己の本心だ。聞くに耐えないことばかりだった。
ヴォルフは替えの服を手渡されながら応える。
「ありがとう。………悪かったな」
「なーにが、『悪かった』よ。私たちの言うことは全然聞かなかったくせに、アリーを呼んだらコロリと寝ちゃって!」
ぷりぷりと背を向けて怒るアハルティカに、ぐうの音も出ない。
「大体、あんたが寝ずにやってたの、全部アリーと結婚してから進める予定のものばっかりじゃない!なに考えてるのよ?」
「それは俺も気になっていた。どうなんだ、ボス?
俺たちの間に隠し事は無しだろう?」
服を着ながら聞こえていない振りを貫き通していたが、ここまで言われては答えない訳にいかない。
ヴォルフはふ―――、と一呼吸した。
「───俺は、リアが好きだ」
「「!」」
振り返ったアハルティカがキリリ、と眉を引き上げたのとは逆に、レイバンは面白そうに顔に笑みを作った。
「……で?あんたまさか、そのために……?!」
ヴォルフは顔に片手を当ててうつむいた。情けなさすぎて、もうなにも言えない。
アリアナとの関係を、契約の前からやり直したかった。ただ、それだけだったのだ。
だから、どうにか彼女との結婚前に、貴族へつながる道は無いか、と。流通を拓ける方法はないか、と──ヴォルフは血眼になっていた。
すべてをやり終えて、契約を一旦白紙に戻す。それさえできれば、アリアナをこちらに振り向かせる権利が得られると思った。
彼女の在り方を否定し、そして───自分だけがその器になみなみ入った愛情を飲み干して、独り占めする。…………そんな、権利が。
でも、うまく行くわけが無い。そもそもが、アリアナとの結婚を前提にした計画である。
「あっきれた!手放すために体を壊すほど仕事するなんて、馬っ鹿じゃない?!」
「手心は加えてやれよ、アハルティカ」
くすくす、と笑うレイバンに対しても、さらに身が小さくなる思いだ。
「大体ねぇ、世界進出も、アリーのことも、結局最後はどっちも手に入れるんでしょう!?
だったら、どっちが先かの順番なんて有って無いようなもんよ!違う?!」
「!」
(……違わない)
と、ヴォルフは思った。
ストン、と言葉が胸に落ちる。
(そうだ。………俺はどちらも手に入れる)
アリアナを必ず惚れさせるし、世界でトップの商会になる。
「あんたは『ヴォルフ・マーナガラム』!
欲しいものは何でも手に入れる、天下の狼商人じゃなかったの!?」
レイバンが声を上げて笑いながら、拍手している。いつ聞いても、アハルティカの啖呵は痺れる。
ヴォルフはニヤリと凄絶に笑って見せた。
「そのとおりだ。」
この回を書くことができたことを、大変嬉しく思います。
読んでくださる皆さんのおかげです!本当にありがとうございます。
ここからは両片想い(※片方無自覚)による素手と素手の殴り合いデスマッチが開幕(心象)いたします。
今後ともお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




