兎騎士は酒を注ぐ1※
───カランコロン。
「そろそろ来る頃かと思ってました。ヴォルフさん」
「よぉ、裏切り者め。元気してたか?」
闇夜にコツコツ…と軽い足音を響かせていた主が、電球色の下へと姿を現す。
カウンターの中からジャックが声を掛けると、ヴォルフは軽口を叩きながら目の前の席へと腰を下ろした。
──土曜日の<Rope's Kitchen>。時刻は夜の開店、10分前である。
(人混みでは話したくないことを、言いに来たんだな)
と、ジャックは察する。そして、思い直した。
(──いや、ヴォルフさんが内緒話を持ってくるのはいつもの事か)
実を言うと、ヴォルフがこうして夜の<R's>にやって来るのは、もう3度目なのだ───もはや、常連となりつつある。
ジャックはキュッキュッと拭いていたグラスを棚に仕舞うと、彼の方へ振り返った。
「………」
…相変わらず、何度見てもこちらがギョッとする程顔の整った男である。これでいてさらに新進気鋭の社長様だと言うのだから、世の中は不公平だ。
「申し開きがあるなら聞いてやるが?」
そう笑みを浮かべながら聞かれ、ジャックは歯の隙間から細く息を吸った。
「……勘弁してください。あの状態のアルに、隠し事が出来ると思いますか??」
──「君に聞きたいことがある」──。
そう問われたのは、トーナメント表が張り出されて寸刻後。
装備品の手入れを理由にして倉庫に隠れていたところを、冷えた目をしたアリアナに楽々取り押さえられたのは、記憶に新しい。
いつもはイキイキしている彼女の表情筋が、つり上がった眉以外ピクリともしていなかった。……マジギレである。
(今思い出しても震える……)
こちらだって当然、悪事をそう簡単に暴かれたかった訳がない…。しかし、あれほどの怒気を孕んだアリアナを、何とかできるはずもなかった。自分だけでなくきっと、誰の手にも余るだろう──目の前の男だって、例外じゃない。
…そう、彼女が自分自身で、怒りを鎮めでもしてくれない限りは。
「……」
ヴォルフが首を傾げる。目線を軽く上に向けて考え込んだ。多分、本日味わった恐怖を思い返しているのだろう。
「…無理だな。」
「でしょう?」
ひとまず得られた同意に胸を撫で下ろしつつ、ジャックは注文も受けないまま酒瓶を手に取った。
ヴォルフは一通りの酒がイケる口らしく、特に好き嫌いが無い。なので、適当に作ったものを出すのが通例だ。在庫整理にちょうど良い。
「…白状した後もアル、俺とろくに口も利いてくれませんでした」
とぷとぷ…と耳に心地良い音が、店内に響く。
「──『ヴォルフに直接確かめるまで、君の謝罪を受ける気はない』。って」
「……」
その徹底ぶりはすさまじく、業務に必要なこと以外は話さないし、そもそもほとんど自分の目の前にアリアナが現れることはなかった。つまり、避けられていたのである。
「それで、今日の朝一…支部の開門早々、どこかへすっ飛んでいくのが寮から見えて。
すぐ見当は付きました。『ああ、これからヴォルフさんのとこへ行くんだろうな』、って」
「……」
「本当に怖かったな、あの気迫は」。と、そう続けてもヴォルフが黙ったままだったので、ジャックは注いだお酒をカウンターにのせた。
(ヴォルフさんは全く酔わないけど…酒を入れれば少しは口が軽くなるかもしれない……)
そう思っての行動である。
言葉でヴォルフの先を急かしたりなどはしなかった。自分の今やるべき仕事は、お酒を作り、お客の話に耳を傾けることだからだ。
「…………」
「…………」
黙り込むその様は、いつも流暢に話すヴォルフの姿とは、かけ離れている……。そわそわと焦れていることが彼に悟られないよう、ジャックは心掛けた。
(…何か言いたいことがあって来たはずなのに、どうしたんだろう…)
沈黙に耐えかね、いよいよこちらから口を開きそうになったところで。
……ヴォルフが徐に、カウンターへと手を伸ばした。
グラスに触れ───そしてひょい、と目だけで一度こちらを見上げる。
「…んん」と、軽く喉を鳴らしてから、名を呼ばれた。
「…ジャック」
「はい」
返事をする。ヴォルフが自身の唇を舐めた。そんな何気ない仕草が、やけに絵になるのが腹立たしい。
「…悪かった。」
「!!」
言われて、思わず息を飲んだ。それほどに予想外の言葉だったのだ。だって、ヴォルフはきっと今日、自分に文句を言うためにやってきたのだと思っていたから。
「酒を呑む前に、…言っておこうと思ってな」
言いながら、グイとヴォルフは酒を呷った。
「…ふう」
一仕事終えた後のように、ヴォルフが息をつく。
「……驚いたな。それは何に対する謝罪でしょうか」
ジャックは聞き返した。
「さっきアリアナの家まで送ったときに、彼女が言ってたんだ。
『ジャックにも謝らなきゃ』、ってな。───今日まで君を避けたことを、だ」
「!」
「でも、それって変だろ?」
と、ヴォルフが微かに首を傾げた。
「俺の提案を君は了承して、それで事に及んだんだ。
その制裁に、例えどれだけ辛辣な態度をとったって、誰もリアを責められない。
いわゆる『共犯』で加害者の君からすれば、なおさらだ。…なのにどうして、被害者のリアがそれを謝る?」
「訳がわからない」と、本当に眉を寄せて考え込んでいるヴォルフ。
「───だから、君に謝った。
今回の件で、君に何かしらの謝罪が必要なら──リアが君に謝るより、俺はそっちの方が納得できる」
(嘘つけ、納得してる顔じゃないだろ)
と、ジャックは心の中で即座に反論した。
「正直、共犯なのにあっさり俺をリアに売ったことに対して、君から謝罪されたいくらいだが…」
「……」
「うっかり、この店を買収するところだった。収益も見込めそうだからな」。…などと、恐ろしい独り言が聞こえた気がする。
(なるほど。この人がわざわざやって来たのは──)
そう、ただ単に「文句を言いに来た」訳では無かったのだ。……というかきっと、本当にヴォルフの怒りを買ったのならば、そんな緩いことはされない───ということを、今悟らされる。
次の日に、何の沙汰もなく敵の大事なもの全てを奪い去ることが出来るほど、彼の力は飛び抜けているのだ。
「だから、強いて言うなら…今のは『下手な手を実行させたこと』に対する謝罪、かな」
「すみませんでした。」
「ふっ」
即座にした謝罪。ヴォルフはくつくつと笑った。
本当のところ、ジャックからすればヴォルフからの謝罪など必要ない。彼からの指示はかなり強引で、反則技のような一手であったが、同時に紛れもない妙手だったからだ。
ジャックとて、この下手すれば処分ものの作戦を実行することに、かなりの迷いはあった。が、同じ小隊で働いている身として、あの第2小隊長を引きずり出すにはこれしかなかったと確信している。
──何より、依然として自分はヴォルフの共犯となったとしても『約束』を守りたいと思っているのだから。
「君は、思ったより『使えない』な」
「………。」
ごくり。と、喉を鳴らして男を見つめる。
(……俺に、謝って────それから??)
…長く見ていると、恐れで吐きそうになる程冷えた色の瞳。
(店の買収か、『約束』の取り下げか…)
整いすぎた指先でその顎を擦るのが、スローモーションのように見えた。
「──アリアナは、お前のことが存外大事らしい」
一瞬、遠くを見て考え込むように顔をしかめた後。
次の瞬間、この場の空気に合わないほど、ヴォルフはふっ、と優しげに微笑んだ。
…こちらに視線が戻る。同時に、彼から差し向けられる雰囲気が、ひどく砕けた物に変わったのが分かった。
彼が、紙幣を1枚カウンターに置く。
「婚約者様のお怒りに触れるのは、こちらも避けたいんでね。
今後は開店後に来る───『約束』はしっかり守れよ?」
パチン、と片目を瞑って店を出ていくヴォルフ。
「…!もちろん!」
内心慌てふためきながらそう受け応えると、閉じていく扉の狭間───夜と明るい室内の境界線で、狼が牙を剥き笑った気配がした。
(…………もしかして、今のは九死に一生だったのでは?)
ジャックは動悸を感じながら、そう思い至る。
そして、その一生を得られたのは他でもない我が親友──アリアナのおかげだ。
ヴォルフとアリアナの間に、どんなやり取りがあったのか。…細かいことまでは、わからないけれど。
(……うわ……)
───ヴォルフが自分に報復するのではなく、わざわざ謝罪したのは。
今回の悪行に対する責任を、自身へ一本化する体を取ったのは…。
アリアナがたまたま今日──ヴォルフを心変わりさせてくれた、おかげ。
「…………………」
ジャックは男の足音が完全に聞こえなくなるまで、背筋を凍らせたままでいた。
───月曜日。ヴォルフから謝罪されたことをアリアナに話し、彼女が口を開く前に謝り倒して、なんとか許しを得たジャックを、門番として馴染みの騎士が目撃していたという。