神獣は柔らかく微笑む
暗い場所で蹲っていた僕を、ひょいと抱き上げたのはこの国の王妃であった。
純白のドレスに身を包んだその人は、怯える僕をそっとそのかいなに抱きしめた。
見上げた先にある、美しいかんばせと真っ青な空が眩しくて僕は目を細めた。
始まりはいつだって唐突だ。
からん、と鐘が鳴る。
それが、王妃と国王の結婚式の鐘だと知ったのはずいぶん後になってからだった。
僕はこの国の歴史が動いたその日に生を受けた、神獣である。箱庭に生きる脆く美しい生き物たちを、僕は愛しく思う。
***
お気に入りの庭の大樹の根元でまどろんでいると、草を踏む音が聞こえてきて片目を開ける。
しばらくすると予想通り、ラルシェ、と王妃が僕の名を呼ぶ。
僕の姿を認めると、王妃、モナが輝く笑顔を浮かべておいでよ、と手を振る。駆け出したモナの背中に僕が付いてこないという考えはないらしい。遠ざかる背中を目に留めながら、大きく伸びをする。みょーんと全身を伸ばせば、ぱきりと肩の骨がなった。
彼女の背を追いながら、彼女の脱走にまた力を貸すことになるのかと嘆息する。
憂い顔の国王が目に浮かんで、少しだけ申し訳なく思う。
「ラルシェ、こっちっ!」
眩しい限りの笑顔で、僕に手を伸ばすモナは二月ほど前にこの国の―――ミセン国の王妃になった。
美しい黒髪の、若き乙女。
エドワードが一回りも離れた彼女を寵愛しているのはこの二月ばかりで嫌というほど理解している僕は、彼女を止めるべきだ。
王妃の、モナの為に造られた庭を抜けて、彼女は僅かに空いた隙間に身を滑らせた。
モナは、大空の一族の娘。
―――自由を愛し、風を好む彼女はきっとこの息苦しい王宮が苦手なのだろう。
煌びやかで華やか、それでいて薄暗い。王宮は富と名誉の場所でもあり、陰謀と破滅の場所。そこで生まれたエドワードが、空を自由に飛び回るモナに惹かれるのもなんとなく分かる。僕は彼らの結婚式の日に生まれたから、彼らがどのようにして出会い、恋に落ちたのかを見ていたわけじゃない。それでも、エドワードの瞳の熱やモナの絶えない微笑みが、彼らの愛を感じさせた。
彼女の後を追って、駆け出す僕もまた、王宮は苦手である。だから、彼女の肩を持ってしまう。彼女が、苦手なこの王宮で生きていくために必要な休息であると、僕は知っていたから。そして、エドワードが心配するように国に帰ってしまおう何て彼女は考えていないと知っていたから。
雑踏を抜けると、城下町だ。
「うまくいったな、ラルシェ!」
少年の服を好む王妃―――モナはからりと笑って僕の手を引いた。
神獣と呼ばれる僕は、今は7つ程の子供の姿をしている。四足の方が早く走れるし身軽だけど、モナと一緒に歩くには手を繋ぐほうがいい。
モナの手は柔らかく、暖かい。
モナと手を繋いだり抱きついたりするとエドワードは時々苦い顔をするけど許して欲しい。モナは、僕が生まれて初めてあった人で、その柔らかな抱擁こそこの世界に生まれた記憶だ。モナは母のような存在で、僕は彼女のそばが一番安心するのだ。
「モナ、」
「うん?」
「モナ、すき」
エドワードとは異なる感情だけど、僕はモナが好きだ。
きょとんと僕を見つめ返す黒曜石の瞳を、僕は愛しく思う。
モナの手を引いて、僕はゆっくりとエドワードが治める国を歩く。エドワードは時々疲れたとかしんどいとか洩らしているけど、彼がこの国を愛していることは国の人たちを見ればよく分かる。
にぎやかな人、活気ある商店。
行き交う人の笑顔。
全て全て、愛しい。人の営み。
僕には全てが新鮮で、それでいて懐かしい。
ミセンの国が、栄えますように。
僕はいつも願わずにはいられない。
***
「エドワード、怖い顔」
横でモナが身を小さくしていた。
それに寄り添うように僕は隣に座り、目の前の国王様をみた。
いつにもまして怖い顔。精悍な顔には連日の激務と、モナの脱走で精神的な疲労を感じているのだろう険しいかをしている。
こめかみを押さえる彼には悪いと思うが、モナが今にも泣きそうだ。
「ラルシェ、お前が付いていながら何でこんな事になるんだっ」
「ちがっ、ラルシェは…っ」
エドワードの言葉を遮って、立ち上がったモナはエドの一睨みにあってしゅんと肩を落とした。
「ラルシェは、悪くない…」
ぐす、と鼻をすする音がしてエドワードは苦い顔をする。
エドワードがこのお転婆なお妃様を大切に大切にしているのは分かっている。モナの泣きにめっぽう弱いことも。モナが嗚咽を堪えるように唇を噛みしめているのを下から見ながら、僕は二人を交互に見る事しか出来なかった。
けれども、エドワードの方もいい加減我慢の限界らしい。
モナの逃走は日に日に大胆になっていく。
今日なんて朝から姿をくらまして、太陽はとっくに沈んだ頃に戻ってきたのだ。僕も彼女に便乗して、むしろ加担して遊びまくったのだけれど。
最後はお婆ちゃんの荷物をひったくっていった男の人を二人で追いかけて、飛び掛って、乱闘してご用にしたところで、僕たちも僕たちを探しに来ていた親衛隊の人たちに捕まって連行されたけど。
エドワードが、ぐしゃりと髪を掻き揚げた。
「そんなに、俺の側にいるのが嫌か」
いつになく、投げやりな言葉と声音にモナがそろりと顔を上げる。エドワードの視線はモナからも僕からもそらされて、どこを見るともなく見ている。
目線が合わないことにモナが焦っている。うーむ。
「エドワード、わたしは、…」
「もういい」
背を向けたエドは知らない。
彼女が、モナが、ぼろりと涙を流したことを。
***
モナを寝台に寝かせて、そっとその髪をなでた。
いつも艶やかで美しい髪。
エドの寵愛を受ける、若き国王妃。
モナの中でまだ色々と整理の付いていない物事があることを僕は知っている。時々僕にだけ洩らしてくれる本音のような弱音は、酷く心細げで僕はうんうん、としか聞いてあげられない。
大空の一族である自分を誇りに思っている一方で、国王妃として自分に何が出来るのかモナが不安に駆られて、逃げ出したくて外に出ていることも知っている。
「モナ」
「どうしよ、ラルシェ…っ」
エドワードは知らない。
モナがエドワードしか頼る相手がいないということを。
どんなにこの子が、一人で耐えているのかを。
エドワードの築き上げてきたものを自分が壊してしまわないように損なってしまわないように、日々の努力と張り詰めなければいけない日常にどれほど、疲弊しているのかを。
それでも、エドワードの隣にいたいと願い頑張っているのかを。
「大丈夫だよ、モナ。エドも明日になれば冷静になるよ」
エドワードも多分まだ、全然、子供なのだ。
モナのことが好きで、好きで。
モナの不安よりも、側にいてくれない不安に目がいってしまうだけ。
大丈夫。
子守唄のようにモナに大丈夫だと声を掛け続ける。泣き疲れて眠ってしまうまで、彼女の手を握り髪を撫でた。本当はこの役目は、僕じゃなくて…ドアの前で躊躇って入ってこれない国王陛下の役目だと思うんだけどと思いながら、モナが眠りに落ちるまでそばに居続けた。
「…寝たか」
「うん。エドのあんぽんたん」
悪口に嫌そうに眉を寄せたエドワードは、そろりと部屋に入ってきてモナの顔を覗き込んだ。涙の後が痛々しくて僕はちくりと彼を責めたくなる。
「…そんな目で見るな、ラルシェ。大人気なかったと思ってる」
「明日謝る?」
「ああ」
「エドワードもモナも言葉が足りないんだよ、きっと」
「そうだろうか。…何を話せばいい?」
子供みたいな事を言うんだなぁと呟けば、エドワードに頭をかき混ぜられる。もう、と反論したかったけれどモナが小さく唸ったので二人して動きを止めた。そろりと二人で視線を交わしてそっと部屋の外に出れば、エドワードの部屋に誘われる。
「一緒にいて欲しいんだよって」
「は?」
「そういえばいいんだ。モナが帰ってしまいそうで不安だから、一緒にいて欲しいって言えばいいんだよ」
「…言えるか」
「どうして。モナはエドの隣にいたいけどエドが一人で何でもしちゃうから隣にいけないのに」
エドワードの真ん丸くなった瞳に、やっぱり気付いてなかったんだな、とため息が漏れる。人間って本当にめんどうくさい。いや、エドワードがにぶちんで面倒くさい。
「モナが、そういったのか?」
「エドってモナのこと見てるのに、肝心なところを見てないよね」
「ラルシェ」
「だってあんなにエドの事好きなモナが、エドをおいていくなんてことあるわけ無いのに。エドはモナが大空の一族だからと畏れるけど、モナは大空の一族だから王族の生活に慣れようと必死になっている事に気が付いていないよね」
「…」
「エドはモナをここに連れてきたのに、モナの覚悟と孤独をどうして想像できないの? エドが捨てれなかった故郷を、モナはエドといるために旅立ったのに」
伸ばされた手が、そっと頬を撫でてくるから僕がいつの間にか泣いていたんだってことに気が付いて気まずくなる。エドワードの腕の中に閉じ込められて、ぐすっと溢れていた涙を拭った。
「…泣くなラルシェ。俺があんぽんたんだってことはよく分かったから。モナと話してみるから」
「モナをいじめたら許さないからね」
「いじめない」
ぽんぽん、と背中を撫でられていつの間にかうとうとしていると、エドワードが寝台に寝かせてくれた。
「ずっと一緒だって、誓ってた」
「…ああ、誓った」
「だったらずっと一緒にいなくちゃだめなんだよ」
モナがとても美しく微笑んだその顔を、エドワードは忘れてしまったんだろうか。僕は、こんなに幸せな顔が出来る国に生まれた事をうれしく思ったのに。
「ああ。ちゃんと、覚えている」
「だったらいい」
だったらいいの。
エドワードと一緒に眠りに落ちながら見た夢は、三人でにこにこと笑っている幸せな夢だった。
***
みょーん、と身体を伸ばしているとエドワードとモナが遠くから歩いてくるのが見えた。大樹の下で、もう一度身体を丸めて顎を前足の間に落ち着かせれば、僕に気が付いたモナがたっと駆けてくる。とても身軽で、羽が生えているようなモナだから、エドワードは心配しながらも彼女に惹かれたんだなと思っていると、僕と視線を合わせるためかモナが躊躇いもなく膝をついた。
「ラルシェ、一緒にお茶しよう?」
「おやつはなあに」
「クッキー」
尻尾がゆらりとゆれた。
モナがその尻尾を手で掴もうとするから、ゆらゆらと左右に振って遊ぶ。
「こら、モナ」
「エドはやくー」
「ドレスが汚れる。トマにまた怒られるぞ」
「それはだめ」
慌てて立ち上がったモナを眩しそうに見つめるエドワードに小さく笑う。人間口が付いているから、お話すればいいんだといった僕の言葉は間違ってなかったらしく、あれから二人はたくさんお話をしたらしい。
ドレスが汚れないように布を広げて、侍女が差し出してくるクッションをいくつか置けば、エドワードは彼女たちを下がらせた。
バスケットの中から紅茶のポットとカップ、クッキーが出てきて僕はぽん、と人型をとった。モナが手早く人間の服を着せてくれる。
「いつ見ても不思議だな」
「そう? 僕はどうしてみんなが出来ないのか不思議」
モナに寄りかかれば、エドワードにそれとなく睨まれる。独占欲の強さって、器の小ささの事をきれいに言ってるだけじゃない?
気にせずモナに寄りかかっていると、口に付いたクッキーのかすを指で払われ、何だか恥ずかしくなって離れた。
「おこちゃまめ」
「うるさーい」
エドワードの事を無視して、こくりと紅茶を口に含む。
さわっと風が吹く。
この世界はとても美しい。目を細めて、木漏れ日が漏れる大樹を仰ぎ見た。
えんど。