第1話「ちょっとくらいなら,お手伝いいたします①」
少女は特別な何かに惹かれていた。
周囲は少女のことを「お嬢さま」と呼ぶものの,彼女自身にその自覚はなかった。少女は自身を「普通」と評していた。その身体的特徴のみならず,学業成績,運動能力など,すべてにおいて平均点であると考えていた(あるいは,事実そうであったともいえる)。
だからこそ,無意識のうちに特別な何かに惹かれ,傍においておきたいと思った。それを最も強く体現しているのが,彼女のメイドであった。メイド長の肩書をつけたメイド「立花ひなた」は,少女「雪城なのか」にはない特別な何かを有する女性であった。
それはつまり,圧倒的な美しい顔立ちのことでもあったし,その女性らしい身体つきでもあった。あるいは,彼女の献身からくる働きぶりも,特別と表現してよいのかもしれない。
なのかはそんな彼女に惹かれ,傍においた。かくして,ひなたは今の立場を築き上げたのである。
さて,なのかは,ひなたに感じたものと同じそんな思いを,拾われてきたメイドにも感じた。そのメイドの表情は読み取りにくく,体温も機械のように冷たい。瞳に生気はなく,声も抑揚に乏しい。しかし,それでいて,気品と呼ぶべき精悍さを確かに感じたのである。
明日帆と名乗ったメイドの手をとったとき,なのかは純粋に,この人を傍におきたいと思った。直感であったことは間違いなく,根拠はなのかの心にしかない。しかし,その時点では,身元不明の不審人物であるにも関わらず,彼女の心は決まったのである。
もしかすると,なのかはお嬢さまとして,人の上に立つべき資質,つまり,人を見る目を有していた,といってもよいのかもしれない。
結局のところ,真実は,闇の中であるが……。
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「ここで,メイドをしてみない?」
なのかは,明日帆に向かってそう言った。すぐ傍では,ひなたのため息が聞こえたが,なのかはそれを無視する。
「……」
明日帆は虚を突かれたようで,一瞬間停止したのち,わずかに首を傾げた。聞こえた言葉を咀嚼するように,口をしばらくもごもごと動かした後,小さく答える。
「……そう,ですね」
それは肯定のようなセリフだったが,声の響きは拒絶の色しか感じられなかった。ひなたの咳払いが聞こえる。ため息と同様に,なのかはこれを気にせず,再び明日帆の手をとろうと腕を伸ばす。
……が,あまりにも自然にそれを避けられ,行き場をなくしたなのかの小さな手は,所在なさげにさまよった。そのようすに,ひなたは誰にも気づかれない程度に顔をしかめ,なのかに声をかけた。
「どのようなお話をされるにせよ,本日はもう遅いですし,また明日にしましょう」
その発言を最後に,三人の間に言葉はなく,まず,なのかが部屋を出た。残された明日帆とひなたの間に独特の気まずい空気が流れる。ひなたは明日帆の顔をじっと見つめ,対する明日帆は頑なに視線を合わせない。ひとしきり明日帆の顔を眺めたのち,ひなたは一礼し,部屋を出た。
向かう先は,なのかの部屋。
主であるなのかの発言に異を唱える気はないが,彼女に「お嬢さま」である自覚がないと,意図せず,不利益を被ることだってある。たとえ,なのかの意に反したとしても,それだけは避けねばならない使命であった。そう……。自身が強く強く「普通」と感じても,なのかは「お嬢さま」なのである。
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ひなたは歩きながら,先ほど明日帆をメイド服からパジャマに着替えさせたことを思い返していた。彼女の頭を悩ませるのは,大きく三つに分けられた。
一つ,明日帆が着ていたメイド服のポケットに入れられていた手紙。
二つ,明日帆が頑なに「自分のこと」を話そうとしないこと。
そして,三つ――。
「ひなた」
思考にはまりかけた彼女を呼び止めたのは,なのかであった。ひなたは即座に従者の表情をつくると,主に向き直る。
「どうされました? お嬢さま」
「手紙,読んだよ」
「さようでございますか」
なのかの手には,明日帆のポケットから出てきた手紙が握られていた。そこには,明日帆が仕えていた家の話,逃げ出した経緯などが簡単に記され,最後に,明日帆と出会った人に向けて,明日帆のことをお願いする旨が書かれていた。
「身分の証明には申し分ないと思ったけど?」
「……」
ひなたは表情を変えず,その手紙に視線を落とした。確かに,そこに問題はないのかもしれない。
「桜宮家のメイド,でしょ?」
手紙は,二人の署名で締めくくられていた。そのうちの一つに「桜宮アリス」というものがあった。
桜宮家といえば,有数の富豪の家系であり,「お嬢さま」と呼ばれる地位にいるなのかにとっては,嫌でも名前を聞く家名であった。桜宮アリスとは,その桜宮家のご息女。その桜宮の名がつく手紙をもっている明日帆が,不審人物ということはありえない。
「ならばなぜ,そのことを言わないのでしょう?」
ひなたはなのかに問う。
「……この手紙からしか明日帆のことはわからないけど,逃げ出したのなら,言えるわけないよ」
「……」
ひなたはため息をついた。主の前で,そのような顔をすることは憚られたが,きっと無意識のものだったのだと思われる。ひなたが本当に問い質したいのはそこではなかった。そこではなく,彼女が悩んでいる三つめの――。
「私は,明日帆と過ごしてみたい」
そう言われて,ひなたに返す言葉はもはや一つしか残されていなかった。そしてそれは,言葉にせずともお互いに通じ合った。なのかは,柔らかい笑みを浮かべて言う。
「明日帆はきっと,特別な人なんだと思う」
「その手紙の通りの人物なら,そうなのかもしれません」
結局,ひなたは,三つめの悩みを飲み込んだ。主のそんな顔を前にして,今ここで切り出す話ではないと判断をしたのだ。
つまるところ,彼女に心から仕える優秀なメイド長曰く,
「ご本人がおっしゃるように,お嬢さまはもしかすると普通の女の子なのかもしれません。けれど,私にとってはすべてが特別です。特に,あの笑顔は」
ということなのだ。
だから,ひなたは重大な秘密を飲み込んだ。今後,本当に明日帆がなのかと一緒に過ごすのであれば,必ず越えなくてはならない大きいな秘密。
ひなたは明日帆を着替えさせたときに気づいたのだ。手紙にも書かれていない大きな秘密。
明日帆は「彼女」ではない。
ひなたが名前を問うたとき,困った顔をしたのは,それが理由なのか,はたまたもっと別の理由があるのかわからない。ただ,少なくとも,もともと「明日帆」という名前ではないのだろう。
それを語ろうとしない以上,ひなたの中で,「彼」に対する不信感は決して拭えない。けれど,ひなたは主の判断に従い,明日帆をメイドとして雪城家に置いておくことにした。
結局,ひなたはなのかには甘いのである。