プロローグ 「はぐれメイドは懐かない」
それは,とても寒い雪の日だった。
雪の積もった夜の道,一人のメイドが買い物袋を片手に歩いていた。
それは,とても美しい女性であり,すれ違う人がいたならば,その美しさか,メイド服姿という奇異さかのいずれかによって,すべての人が振り向いたことだろう。彼女のもつ袋の中には,ポテトチップスとコーラが入っていた。それは,彼女が夜食用に買ったものではない。
「なのか様にも困ったものですね……」
言葉とは裏腹に,笑みを残した顔でメイドはつぶやいた。彼女は,彼女の愛すべき主人のために,こんな夜更けに買い物に出かけたのである。にまにまと笑いながら,歩く彼女は,ちらつく外灯の先,道先に何かが倒れていることに気がついた。
「何かしら?」
メイドは,用心深く倒れている何かに近づいていく。雪を踏む音が静かな夜の街に響き,一歩,また一歩とメイドが何かに近づく。白い息が暗闇に消え,ぼんやりと何かの姿が見えてきた。
「……人?」
果たして,それもまたメイドであった。彼女と同じくらいの背丈のメイドが,道端に倒れていたのである。
「……」
彼女はそっと倒れるメイドの頬に手をあてた。機械のように,ひんやりと冷たい。
「放っておくわけにはいきませんね」
彼女は携帯電話を取り出すと,どこかに電話をかけ始めた。
透き通るような夜の日に,一人のメイドが拾われた。
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「……んん」
先ほどまで道端に倒れていたメイドが目を覚ましたのは,暖かい部屋であった。くらくらする頭を押さえ,メイドはまず髪の毛を確認した。しっかりと,”ついている”。つづけて,自分の身なりを確認する。
「うん……」
見たことのないパジャマを着ていた。自分がいつ着替えたのか……それどころか,ここがどこなのかわからぬまま,メイドはため息をついた。
「お屋敷では……ないね」
メイドは身体を起こすと,もう一度自分の置かれている部屋を見回した。特に何もない殺風景な部屋。言うならば,そう,客間のようであった。
「……誰かに拾われたのかな?」
そのつぶやきが終わるかどうかというタイミングで部屋の扉が開いた。入ってきたのは,ポテトチップスとコーラを無事に主人に届け終えた,あの美人であった。
「目が覚めたのですね」
彼女は起き上がっているメイドを見て,ほっと息をはいた。
「……ここは,どこでしょうか」
「ここは,雪城なのかさまのお屋敷です」
「雪城……」
メイドには聞き覚えのあるような,ないような苗字だった。
「いくつか質問があるのですが,よろしいでしょうか」
思案顔のメイドに対して,部屋に入ってきた女性が言葉を続ける。メイドはこくりと頷き,続きを促した。
「そうですね……。まずは,お名前から伺いましょうか」
「……明日帆,といいます」
メイドは,いくらかの逡巡ののち,そう名乗った。それに対して,女性は複雑な表情を浮かべる。
「苗字……も気になりますが,それは本名ですか?」
今度は明日帆が複雑な表情を浮かべることになった。それを話すには,まだ,相手の素性がわからない。
「……失礼いたしました」
そのようすを悟ったのか,女性が頭を下げる。
「ご事情があるのであれば,これ以上は追及いたしません」
「いえ……」
「では,違う質問をいたしましょう」
そう言って女性は,ぱんと手をたたいた。雰囲気を変えようとしてのことだと思われたが,その音に明日帆はびくりと身体を小さく震わせた。
「明日帆さんは,どうして,道端に倒れていたのでしょう?」
「それは……」
「しかも,メイド服で」
明日帆は女性の視線から逃れるように,ついと首を横に動かした。何をどこから説明すればよいのかわからず,明日帆は口ごもった。
「ここは,雪城なのかさまのお屋敷です」
そんな明日帆のようすを横目に,女性は同じセリフをくり返した。
「あなたをお連れした私が言うのもどうかと思いますが,お嬢さまに害を及ぼす可能性があれば,ここに置いておくわけにはいきません」
それは強い意志の宿った言葉だった。その強さに明日帆には,返す言葉がなかった。ふらふらとした足取りで立ち上がると,女性の横を通り過ぎる。そのまま扉を開いて出ていこうとして,足がもつれた。
歩き方を忘れたかのような感覚。そのまま彼女はばたりと倒れた。どこか遠くで,彼女の名前を呼ぶ声を聴きながら,世界が暗転することを悟った。
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「悪い子には見えないよ」
「しかしですね……」
「私が話を聞いてみる」
「……」
「ね?」
「……かしこまりました」
明日帆が目を覚ましたのは,それから数時間が経過したのちだった。ぼんやりとした頭で,夢かうつつか,二つの声が会話をしていたような気がした。その瞳が,先ほどまで会話をしていた女性をとらえ,明日帆は頭を下げた。
「度々,申し訳ありません」
「いえ,構いません」
女性は目を覚ました明日帆の額に手をあてる。
「熱と……あとは,睡眠不足,栄養不足でしょうか」
「そうかも,しれません……」
明日帆は寝転がったまま,天井を見上げた。女性は何も言わず,ただ,明日帆の傍に控えていた。その沈黙がいやに心地よく,明日帆は口を開いた。
「……暖かい」
そのつぶやきが引き金となったのか,女性はどこか諦めにも似た吐息をはくと,部屋を出ていった。一人残された明日帆は,静かに目を閉じた。一人になって,不安なような,安心なような,複雑な心境だった。そのまま再び眠りに落ちようかという直前,控えめなノックの音が響いた。明日帆はとっさに声が出せず,ひとまず失礼のないように,身体を起こして視線を扉に向けた。
「失礼します」
入ってきたのは,先ほどの女性と,これといって特徴の思いつかない,しかし,それでいて可愛らしさは失わない少女だった,
「疲れていると思うけど,ごめんね」
少女はそう言って,明日帆の元に近づいていく。明日帆の脳裏に,つい先ほど二度も聞いた人物の名前が浮かぶ。
(……雪城,なのか)
少女は恭しくお辞儀をすると,明日帆が浮かべたものと同じ,その名を名乗る。
「私は,雪城なのか。この屋敷の主です」
その顔は屈託なく,その場を和ませる力があった。次いで,なのかの横に立つ女性が頭を下げた。
「当屋敷でメイド長を務めております,立花ひなたです」
こちらは一変,あくまで仕事の一つといった所作だった。その態度に,なのかは困ったように笑うと,明日帆の手を取った。温度の感じられない手だ,となのかは思った。
「……」
明日帆は何も言わず,失礼に値しないように,その手を離す。なのかは,特に気を悪くした風でもなく,離された手を自然に戻して,言う。
「あなたのことを,教えてほしいの」
明日帆はそんな彼女に向けて,淡々とした口調で答えた。その手の温度と同じく,機械的な声だった。
「私は,あるお屋敷でメイドをしていました」
それは,とても寒い雪の日だった。
「ある理由で,そのお屋敷を逃げ出しました」
透き通るような夜の日に,一人のメイドが拾われた。
「私にはもう,居場所はありません」
明日帆と名乗ったメイドは,感情のない瞳でそう告げ,自嘲気味に微笑んだのだった。