第3話:底へ
曇り空の隙間から差し込む光が、エプロン姿の若い女性を照らす。
「皆さんこんにちは。一文字岩鉄先生のクッキングエルボー、しつこいようですが今回も野外ロケです」
カメラマンの足が微かに震えている。レンズを通してこの世にあらざるものを見た為か。
「それでは登場してもらいましょう。実は先々週から入院しっぱなしで、昨日退院したばかりの一文字岩鉄先生です」
若い女性の横には、黒い道着を着込んだ屈強な男が腕組みをして立っていた。
「うむ、皆には心配をかけた」
「退院おめでとうございます。ところで先生、途中で病状が悪化したりしませんでしたか? 具体的には先週あたり」
「む? 医者の話によると先週が峠だったらしい。峠を越したら急激に回復して驚いたそうだ」
「分かりましたありがとうございます。それで先生、今日のメニューはなんでしょうか」
「うむ、今日は近くに川があるので、魚でいきたいと思う。ん? このセリフ、どこかで言ったような憶えがあるな」
「気のせいです。それでは先生、よろしくお願いします」
男は首をひねりながら川へ向かって歩き出した。しっかりとした足取りには微塵の迷いもない。
男は川についても足を止める事無く、ざばざばと水の流れをかきわけていった。
「先生、何も持っていないようですが、どうやって魚を捕まえるのですか?」
「うむ、真の男の料理には道具など不要。使うのは己の肉体のみ」
男は川の中ほどで足を止めると、川面に向かって右手を構えた。
「素手で魚を捕まえるのですか?」
「うむ、普通にやっては魚に逃げられてしまうが、”意”を消す事で捕らえる事が可能になる」
「意を消すといいますと?」
「うむ、人は意識せずとも自分の意を体に表しているのだ。例えばこの場合、魚を捕まえようとする意識は、自分でも気付かないくらいの肉体の変化を生み出し、魚はそれを敏感に察知して逃げてしまうという結果を生む。そうならない為には己を消し、己を川底の石と同じにしてしまえばよい。それが意を消すという事だ」
「なるほど、つまり魚を捕まえられるという事ですね?」
「うむ、そのとおりだ」
男は川面に向けて右手を構えたまま微動だにしなくなった。緊迫した空気が河原を包む。
「はっ!」
男の気合の入った声があたりに響く。川に突き入れられた右手が、水と一緒に川底の石を跳ね上げた。跳ね上げられた石は空中で美しい孤を描き、鈍い音と共に若い女性の頭部に命中した。
「むう、すこし意を残してしまっていたか……まだまだ修行が足りないようだ」
うずくまっていた若い女性は、あふれる血を手でおさえて立ち上がると、川面に向かって再び構えを取る男に近づいた。
「先生、やはり川底の石になるには、水から出ているよりは水の中の方がいいのではないでしょうか」
「おお、なるほど、一理あるな。早速やってみよう」
男は川の深い所へ向かって歩いていき、ざばざばと全身を沈めていった。
男の沈んだ地点からは、時折泡が浮き上がってくる。
ぽこり、ぷかりと泡二つ
流れる木の葉を泡が押す
押された木の葉は舞い踊る
ぽこり、ぷかりと泡一つ
流れる水に泡が舞う
水から旅立つ泡一つ
ぽこり、ぷかりはもういない
静かな流れ、流れる静か
川はひたすら流れゆく
「それではまた来週」