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百円の遺書

作者: 一条 泰義
掲載日:2026/09/29

「すみません。百円、いりませんか」


駅前で知らない男から百円玉を渡された。

ただし、条件が一つだけあった。

一緒に渡された「遺書」を最後まで読むこと。


百円で買わされた、知らない男の人生。

そしてそこには、たった一つのお願いが書かれていた。

「すみません。百円、いりませんか」


駅前で知らない男にそう言われた。


宗教かと思った。


「いらないです」


「そうですか」


男は残念そうに百円玉をポケットへ戻した。


それを見て、俺は少し惜しくなった。


百円あれば缶コーヒーくらい買える。


いや、今どき百円では買えないか。


でも百円は百円だ。


「やっぱりください」


男は笑った。


「ありがとうございます」


何で俺が礼を言われるんだ。


男は三十代くらいだった。黒いパーカーにジーパン。髪は少し伸びている。ホームレスには見えない。会社員にも見えない。


どこにでもいそうな男だった。


男は俺の手のひらに百円玉を置いた。


それから、四つ折りにした紙を渡してきた。


「これ、読んでください」


やっぱり宗教じゃねえか。


「何ですか、これ」


「遺書です」


「は?」


「僕の遺書です」


俺は百円玉を返そうとした。


「いや、いいです」


「もう受け取ったので」


「百円返しますよ」


「駄目です」


「何でだよ」


思わずタメ口になった。


男は笑っていた。


「百円払ったので、読んでください」


そう言って、駅の方へ歩いていった。


俺は追いかけなかった。


知らん奴の遺書なんか読みたくない。


そもそも、何で俺なんだ。


駅前にはいくらでも人がいた。スーツ姿の男、学生、買い物帰りの婆さん、スマホを見ながら歩く女。


その中で、なぜか俺だった。


手の中には百円玉と遺書。


最悪である。


捨てようと思った。


でも百円を受け取ってしまった。


契約として成立しているのか知らないが、妙な義務感があった。


俺は近くの喫茶店に入った。


コーヒーは五百八十円だった。


百円じゃ全然足りねえじゃねえか。


窓際の席に座って、紙を開いた。


字は汚かった。


---


これを読んでいる人へ。


突然こんなものを渡してすみません。


あなたとはたぶん初対面だと思います。


僕は今日死にます。


---


ここで読むのをやめた。


重すぎる。


知らん奴に背負わせる文章じゃない。


俺はコーヒーを飲んだ。


苦かった。


もう一度紙を見る。


まだ続いている。


---


理由は特にありません。


借金もありません。


病気でもありません。


仕事は嫌いですが、死ぬほど嫌いというわけではありません。


恋人はいません。


両親とは三年くらい会っていません。


友達は二人います。


二人ともいい奴です。


だから、誰かのせいではありません。


---


俺は少し腹が立った。


理由がないなら死ぬなよ。


こっちは突然遺書を読まされている。


せめて納得できる理由を書け。


会社で酷いいじめに遭ったとか、莫大な借金があるとか、恋人に裏切られたとか。


そういうのなら、まだ分かる。


理由は特にありません。


ふざけんなと思った。


続きを読んだ。


---


昔は、自分が何かになると思っていました。


小学生の頃は野球選手になりたかったです。


中学生になるとミュージシャンになりたくなりました。


高校では何もしていません。


大学生の頃、小説を書こうと思いました。


一行も書きませんでした。


会社に入ってからは、いつか辞めて何かしようと思っていました。


何もしませんでした。


気づいたら三十六歳でした。


---


俺はコーヒーを置いた。


---


別に三十六歳が遅いとは思いません。


そんなことを言ったら怒る人もいるでしょう。


四十歳からでも五十歳からでも人生は変えられる。


僕もそう思います。


たぶん本当です。


でも僕の場合、問題は年齢ではありませんでした。


明日やろうと思い続けていることでした。


僕にはずっと明日がありました。


明日、小説を書く。


明日、会社を辞める。


明日、旅行に行く。


明日、好きな人に連絡する。


明日、母親に電話する。


明日。


明日。


そうしているうちに、今日が嫌いになりました。


---


俺はそこで紙を伏せた。


窓の外を見る。


さっきの男はいなかった。


当たり前だ。


もう十分くらい経っている。


俺はスマホを取り出した。


警察。


いや、何て言う。


知らない男から遺書を渡されました。


どこに行ったか分かりません。


名前も知りません。


服装くらいしか分からない。


それでも電話した方がいい。


そう思った。


でも、電話しなかった。


理由は分からない。


面倒だったのかもしれない。


大げさなことにしたくなかったのかもしれない。


あるいは、男が本当に死ぬとは思っていなかったのかもしれない。


人間は目の前で血を流している奴には驚くが、「これから死にます」と言う奴には案外冷たい。


俺もそうだった。


続きを読む。


---


死にたいわけではありません。


ここは大事なので書いておきます。


僕は死にたいわけではありません。


ただ、生きたいと思えなくなりました。


似ているようで、少し違います。


朝起きる。


会社に行く。


帰る。


飯を食う。


動画を見る。


寝る。


また朝になる。


それを不幸だとは思いません。


僕より辛い人はいくらでもいます。


だから余計に困りました。


不幸なら、不幸のせいにできた。


僕はたぶん、それなりに恵まれていました。


それでも毎日がいらなかった。


---


店員が水を足しに来た。


俺は反射的に紙を隠した。


「ありがとうございます」


店員が去る。


また紙を出す。


何をやっているんだろうと思った。


知らない男の遺書を、五百八十円のコーヒーを飲みながら読んでいる。


しかも百円もらって。


続きを読んだ。


---


ここまで読んでくれてありがとうございます。


あと少しです。


僕はこの遺書を百人に渡そうと思っています。


百円ずつ払います。


一万円です。


最後の散財としては安いですね。


なぜ百円なのかというと、無料だと捨てられると思ったからです。


人間は百円でも金をもらうと、少しくらい責任を感じるんじゃないかと思いました。


嫌なやり方です。


すみません。


---


その通りだった。


俺は百円のせいでここまで読んでいる。


百円なんかどうでもいい。


なのに捨てられなかった。


---


お願いがあります。


僕を助けないでください。


警察にも電話しなくていいです。


その代わり、一つだけやってください。


あなたが「いつかやろう」と思っていることを、今日一つだけやってください。


何でもいいです。


ラーメンを食べるでもいい。


会社を辞める必要はありません。


夢を追う必要もありません。


そんな大げさな話ではないです。


会いたい人がいるなら連絡してください。


読みたい本があるなら一ページ読んでください。


行きたい場所があるなら調べてください。


謝りたい人がいるなら謝ってください。


小説を書きたいなら、一行だけ書いてください。


僕はそれをやらなかったので。


百円は、その代金です。


---


最後に名前が書いてあった。


**佐藤健一**


知らない名前だった。


その下に、もう一行だけあった。


---


あなたの今日は、僕にはもうありません。


---


俺はしばらく動けなかった。


腹が立った。


勝手なことを言いやがって。


だったらお前も今日やればいいだろ。


母親に電話しろよ。


小説を書けよ。


会社辞めろよ。


旅行行けよ。


何で全部やらずに死ぬんだ。


知らん奴に百円渡して満足してんじゃねえよ。


俺は紙をぐしゃぐしゃに丸めた。


そのままゴミ箱へ投げようとした。


やめた。


スマホを取り出した。


110と入力した。


通話ボタンの上で指が止まった。


「助けないでください」


知らん。


そんなもん知るか。


俺は電話した。


事情を話した。


名前。


服装。


場所。


男が歩いていった方向。


警察は淡々と質問した。


電話を切った。


これで助かるかは分からない。


もう遅いかもしれない。


そもそも全部嘘かもしれない。


悪趣味ないたずらかもしれない。


それならそれでよかった。


会計を済ませて店を出た。


ポケットの中に百円玉があった。


駅前の自販機で水を買おうとして、やめた。


家に帰った。


机に座った。


パソコンを開いた。


真っ白な画面を出した。


俺にも、いつかやろうと思っていたことがあった。


小説を書くことだった。


何度も書こうと思った。


タイトルだけ考えた。


設定だけ考えた。


小説家になった自分を想像したことまである。


なのに一行も書いたことがなかった。


馬鹿みたいだ。


キーボードに手を置いた。


何を書けばいいのか分からない。


十分くらい何も書けなかった。


やっぱり俺には無理なんじゃないかと思った。


その時、ポケットの中で百円玉が鳴った。


俺は一行だけ書いた。


「すみません。百円、いりませんか」


そこから先は、


意外とすぐに書けた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


「いつかやろう」と思っているうちに、時間だけが過ぎていくことがあります。


この小説が、誰かの「今日」に百円くらいの意味を残せたなら嬉しいです。


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