百円の遺書
「すみません。百円、いりませんか」
駅前で知らない男から百円玉を渡された。
ただし、条件が一つだけあった。
一緒に渡された「遺書」を最後まで読むこと。
百円で買わされた、知らない男の人生。
そしてそこには、たった一つのお願いが書かれていた。
「すみません。百円、いりませんか」
駅前で知らない男にそう言われた。
宗教かと思った。
「いらないです」
「そうですか」
男は残念そうに百円玉をポケットへ戻した。
それを見て、俺は少し惜しくなった。
百円あれば缶コーヒーくらい買える。
いや、今どき百円では買えないか。
でも百円は百円だ。
「やっぱりください」
男は笑った。
「ありがとうございます」
何で俺が礼を言われるんだ。
男は三十代くらいだった。黒いパーカーにジーパン。髪は少し伸びている。ホームレスには見えない。会社員にも見えない。
どこにでもいそうな男だった。
男は俺の手のひらに百円玉を置いた。
それから、四つ折りにした紙を渡してきた。
「これ、読んでください」
やっぱり宗教じゃねえか。
「何ですか、これ」
「遺書です」
「は?」
「僕の遺書です」
俺は百円玉を返そうとした。
「いや、いいです」
「もう受け取ったので」
「百円返しますよ」
「駄目です」
「何でだよ」
思わずタメ口になった。
男は笑っていた。
「百円払ったので、読んでください」
そう言って、駅の方へ歩いていった。
俺は追いかけなかった。
知らん奴の遺書なんか読みたくない。
そもそも、何で俺なんだ。
駅前にはいくらでも人がいた。スーツ姿の男、学生、買い物帰りの婆さん、スマホを見ながら歩く女。
その中で、なぜか俺だった。
手の中には百円玉と遺書。
最悪である。
捨てようと思った。
でも百円を受け取ってしまった。
契約として成立しているのか知らないが、妙な義務感があった。
俺は近くの喫茶店に入った。
コーヒーは五百八十円だった。
百円じゃ全然足りねえじゃねえか。
窓際の席に座って、紙を開いた。
字は汚かった。
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これを読んでいる人へ。
突然こんなものを渡してすみません。
あなたとはたぶん初対面だと思います。
僕は今日死にます。
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ここで読むのをやめた。
重すぎる。
知らん奴に背負わせる文章じゃない。
俺はコーヒーを飲んだ。
苦かった。
もう一度紙を見る。
まだ続いている。
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理由は特にありません。
借金もありません。
病気でもありません。
仕事は嫌いですが、死ぬほど嫌いというわけではありません。
恋人はいません。
両親とは三年くらい会っていません。
友達は二人います。
二人ともいい奴です。
だから、誰かのせいではありません。
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俺は少し腹が立った。
理由がないなら死ぬなよ。
こっちは突然遺書を読まされている。
せめて納得できる理由を書け。
会社で酷いいじめに遭ったとか、莫大な借金があるとか、恋人に裏切られたとか。
そういうのなら、まだ分かる。
理由は特にありません。
ふざけんなと思った。
続きを読んだ。
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昔は、自分が何かになると思っていました。
小学生の頃は野球選手になりたかったです。
中学生になるとミュージシャンになりたくなりました。
高校では何もしていません。
大学生の頃、小説を書こうと思いました。
一行も書きませんでした。
会社に入ってからは、いつか辞めて何かしようと思っていました。
何もしませんでした。
気づいたら三十六歳でした。
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俺はコーヒーを置いた。
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別に三十六歳が遅いとは思いません。
そんなことを言ったら怒る人もいるでしょう。
四十歳からでも五十歳からでも人生は変えられる。
僕もそう思います。
たぶん本当です。
でも僕の場合、問題は年齢ではありませんでした。
明日やろうと思い続けていることでした。
僕にはずっと明日がありました。
明日、小説を書く。
明日、会社を辞める。
明日、旅行に行く。
明日、好きな人に連絡する。
明日、母親に電話する。
明日。
明日。
そうしているうちに、今日が嫌いになりました。
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俺はそこで紙を伏せた。
窓の外を見る。
さっきの男はいなかった。
当たり前だ。
もう十分くらい経っている。
俺はスマホを取り出した。
警察。
いや、何て言う。
知らない男から遺書を渡されました。
どこに行ったか分かりません。
名前も知りません。
服装くらいしか分からない。
それでも電話した方がいい。
そう思った。
でも、電話しなかった。
理由は分からない。
面倒だったのかもしれない。
大げさなことにしたくなかったのかもしれない。
あるいは、男が本当に死ぬとは思っていなかったのかもしれない。
人間は目の前で血を流している奴には驚くが、「これから死にます」と言う奴には案外冷たい。
俺もそうだった。
続きを読む。
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死にたいわけではありません。
ここは大事なので書いておきます。
僕は死にたいわけではありません。
ただ、生きたいと思えなくなりました。
似ているようで、少し違います。
朝起きる。
会社に行く。
帰る。
飯を食う。
動画を見る。
寝る。
また朝になる。
それを不幸だとは思いません。
僕より辛い人はいくらでもいます。
だから余計に困りました。
不幸なら、不幸のせいにできた。
僕はたぶん、それなりに恵まれていました。
それでも毎日がいらなかった。
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店員が水を足しに来た。
俺は反射的に紙を隠した。
「ありがとうございます」
店員が去る。
また紙を出す。
何をやっているんだろうと思った。
知らない男の遺書を、五百八十円のコーヒーを飲みながら読んでいる。
しかも百円もらって。
続きを読んだ。
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ここまで読んでくれてありがとうございます。
あと少しです。
僕はこの遺書を百人に渡そうと思っています。
百円ずつ払います。
一万円です。
最後の散財としては安いですね。
なぜ百円なのかというと、無料だと捨てられると思ったからです。
人間は百円でも金をもらうと、少しくらい責任を感じるんじゃないかと思いました。
嫌なやり方です。
すみません。
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その通りだった。
俺は百円のせいでここまで読んでいる。
百円なんかどうでもいい。
なのに捨てられなかった。
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お願いがあります。
僕を助けないでください。
警察にも電話しなくていいです。
その代わり、一つだけやってください。
あなたが「いつかやろう」と思っていることを、今日一つだけやってください。
何でもいいです。
ラーメンを食べるでもいい。
会社を辞める必要はありません。
夢を追う必要もありません。
そんな大げさな話ではないです。
会いたい人がいるなら連絡してください。
読みたい本があるなら一ページ読んでください。
行きたい場所があるなら調べてください。
謝りたい人がいるなら謝ってください。
小説を書きたいなら、一行だけ書いてください。
僕はそれをやらなかったので。
百円は、その代金です。
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最後に名前が書いてあった。
**佐藤健一**
知らない名前だった。
その下に、もう一行だけあった。
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あなたの今日は、僕にはもうありません。
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俺はしばらく動けなかった。
腹が立った。
勝手なことを言いやがって。
だったらお前も今日やればいいだろ。
母親に電話しろよ。
小説を書けよ。
会社辞めろよ。
旅行行けよ。
何で全部やらずに死ぬんだ。
知らん奴に百円渡して満足してんじゃねえよ。
俺は紙をぐしゃぐしゃに丸めた。
そのままゴミ箱へ投げようとした。
やめた。
スマホを取り出した。
110と入力した。
通話ボタンの上で指が止まった。
「助けないでください」
知らん。
そんなもん知るか。
俺は電話した。
事情を話した。
名前。
服装。
場所。
男が歩いていった方向。
警察は淡々と質問した。
電話を切った。
これで助かるかは分からない。
もう遅いかもしれない。
そもそも全部嘘かもしれない。
悪趣味ないたずらかもしれない。
それならそれでよかった。
会計を済ませて店を出た。
ポケットの中に百円玉があった。
駅前の自販機で水を買おうとして、やめた。
家に帰った。
机に座った。
パソコンを開いた。
真っ白な画面を出した。
俺にも、いつかやろうと思っていたことがあった。
小説を書くことだった。
何度も書こうと思った。
タイトルだけ考えた。
設定だけ考えた。
小説家になった自分を想像したことまである。
なのに一行も書いたことがなかった。
馬鹿みたいだ。
キーボードに手を置いた。
何を書けばいいのか分からない。
十分くらい何も書けなかった。
やっぱり俺には無理なんじゃないかと思った。
その時、ポケットの中で百円玉が鳴った。
俺は一行だけ書いた。
「すみません。百円、いりませんか」
そこから先は、
意外とすぐに書けた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「いつかやろう」と思っているうちに、時間だけが過ぎていくことがあります。
この小説が、誰かの「今日」に百円くらいの意味を残せたなら嬉しいです。




