枯木人間
ベッドの上で、目覚まし時計が騒々しく鳴り響く。横になっていた幹男は、手探りで目時計を止める。音がやむと、彼は気だるげに起きあがる。
右側にある窓のカーテンは閉じられ、わずかな隙間から日の光が差しこんでいる。彼はおぼつかない足取りで立ち上がり、両手でサッとカーテンを開ける。まぶしい朝日が、睡魔を払いのけてくれた。
それでも、まだ身体にはだるさが残っている。夜遅くまで働く日が続き、起きてもまだ疲れが居座っているせいだ。
幹男は重い足取りで洗面台へ向かう。1Kのアパートなので移動の手間は少ない。リビングを抜け、2つ目の扉を開く。部屋の電気をつけたら、正面に洗面台が目に入る。
蛇口をひねり、冷たい水で顔をひと洗いする。右手にあるウォールシェルフから石けんを取りだし、泡だてる。泡まみれになった顔を、冷水でジャブジャブと洗い流す。汚れが落ちると、少し気分が楽になった。
左側に置いてあるシェービングクリームのふたを開け、缶のボタンを押し左手に泡をとる。泡を顔に塗りたくり、右側のラックからT字カミソリをつかむ。
幹男は正面にある鏡を見ながら、濡らしたカミソリで丁寧にヒゲをそっていく。薄いヒゲなので、すぐにそり終わる。
幹男は鏡に映る自分の顔が不満だった。まだ20代の後半なのに、疲労のせいで5歳は老けて見える。せっかくのいい男が台無しだと、忙しい日々が恨めしくなる。
考え事をしていたせいか、カミソリを握る手に少し力が入りすぎた。右のほほがチクリと痛む。肌を切ってしまったらしい。彼はサッとカミソリをゆすぎ、ラックに戻す。すぐ顔全体を洗い流し、傷口を確かめる。
鏡に映った顔の左側には、小さな切り傷ができている。幹男は血が出そうだなと落胆するが、いっこうに血がにじんでこない。不審に思い、鏡に映る傷口を凝視する。
傷口の下に見えるのは赤色ではない。違和感を覚えた彼は、ぽつりとつぶやく。
「あれ……?」
中からのぞいていたのは、枯木のようにくすんださび色。それも見る者を地獄の淵に引きずりこむような、暗い色合いだった。
本能的に恐怖をかき立てられ、彼はなんだか薄気味悪くなってきた。途端にお腹回りが妙にスースーしてくる。腹全体を氷のうで覆いつくされ、急速に熱を奪われていくようだった。
彼はパジャマの上着と肌着を脱いで、上半身を確認してみる。奇妙なことに、腹回りは恐ろしいほどへこんでいた。まるで内臓がそっくり消失してしまったかのように、肋骨の下には異様な空白が広がっている。異常なことが起きている! そう直感し、幹男は動揺する。
さらに、幹男を不安がらせる事態が起きていた。先の傷口を中心に、顔の皮膚がポロポロと落下しはじめていたのだ。おがくずのようになった皮膚片が、洗面台の受け皿に積もっていく。目を白黒させている間にも、皮膚はみるみる身体から離れていく。
ほんの十秒ほどで、すべての皮膚がはがれ落ちた。洗面台には、積もった皮膚片の山ができている。鏡に映っていたのは、白骨などではなかった。生気のない、枯木を想起させるさび色の骸骨。見るからに貧弱で、眺めているだけでも壊れかねないほどの危うさが漂っている。
気が動転している幹男は、まだ自分が骸骨に変わり果てたことに気づいていない。洗面台にできた山を、両手で拾いあげることに夢中だったからだ。しかしいくら触れど、まったく肌触りがわからない。触覚を失った指の間から、皮膚は無情にもこぼれていく。惨めさがつのるばかりだった。おもむろに鏡を見た幹男は、くぐもった声で悲嘆に暮れる。
「ウソだろ……?」
とうとう、彼は自分が骸骨になっていることに気づいた。髪も目も、内臓もない。白かった歯も、太古の遺跡から発掘した骨のようなさび色になっていた。声までもが、不明瞭な発音しかできない代物に成りさがっている。
幹男は身震いし、鏡の前に立ちすくむ。両ひざのあたりから、鈍くきしんだ音が聞こえる。音は次第に大きくなる。何かが砕けていくような音だ。不吉な予感が、幹男の頭の中を駆けめぐる。
まさか、両足が壊れてるのか……?
両ひざがひときわ大きな、乾いた音を響かせた。この骨では、自らの重みにすら耐えられないのだ。ひざから下の感覚が消え、崩れ落ちそうになる。咄嗟に両肘を洗面ボウルの底につき、転落を防ぐ。かつて両足だった骨はバランスを失い、床に倒れこむ。骨は大きな音を立て、跡形もなく砕け散る。
転倒こそ免れたが、もはや幹男は完全に正気を失っていた。瞬く間に、恐怖がすべての感情を追い出してしまった。呼吸もかなり乱れている。恐怖は痛みにもつながり、彼の胸をきつく締めあげてくる。
どうしよう……! どうしたら……?
狼狽しきった頭に浮かぶのは、この言葉だけだった。幹男を追いつめるように、洗面台についた肘が忌まわしい音を立てる。獲物を狙う肉食動物の足音が、徐々に近づいてくる思いだった。聞きたくなかった音が、恐怖をこらえる彼の感覚を奪う。肘から先が、流しの中を転がる。
それでも彼は、なくなった両肘を流しの底につける。さらに洗面台のへりに胸を押しあて、懸命に身体を支える。目の前には、洗面台の蛇口と水栓のレバーが突きつけられている。
このままだと、レバーの上に倒れる。そうなれば、レバーと蛇口が……頭に、突き刺さる……!
何の変哲もない蛇口が、今の彼には処刑台に他ならなかった。それでも、身動きをとることはできない。この距離では顔を下に向けただけでも、レバーにぶつかってしまう。
彼は恐怖に耐えかね、頭は動かさず蛇口から目をそらす。しかし目を伏せた先にあったのは、両腕の残骸だった。台の上を半回転しただけなのに、どちらの骨もひびまみれの有り様だった。残酷すぎるなれの果てが否応もなく目に入り、今にも気持ちが折れそうになる。
しかし諦めたら一巻の終わりだ。このもろさでは、落ちたら死ぬことはわかりきっている。
怖い……怖い! 死にたくない!
悲壮なまでの努力で、彼は恐怖とも懸命に戦っていた。その決意を打ち砕くように、今度は両肩がうめきだす。地獄から、亡者たちが早く来いと自分をせかしている。恐怖が目を濡らし、処刑台がにじんで見える。目に映るすべての輪郭までぼやけていく。
ついに時の死神が、彼の肩を叩いた。乾いた破壊音とともに、両腕が身体から完全に離れる。支えを失った上半身は、蛇口に吸い寄せられていく。
極度の緊張と恐怖から、落下中の幹男にはすべてがスローモーションで見えていた。周囲と同じく、自分の動きも非常に遅くなっている。それでも不思議なことに、時間の体感自体は普段と変わらない。このことが、彼の苦痛と恐怖を何倍にも増幅させていく。
迫りくる恐怖に耐えかね、幹男は喉の奥からつぶれた声を絞りだす。
「うぁぁぁぁぁぁっ!」
自分の大声で、幹男はベッドからはね起きた。聞こえたのは不鮮明な発音ではなく、なじみのある自分の声だった。
慌てて目覚まし時計を確認する。鳴る前に起きてしまった。恐怖と興奮で息が切れている。壁からドンと衝撃が伝わる。朝早くから大声を立てたことに対する、隣人からの抗議だ。
幹男はうつむき、静かに呼吸を整える。まだ恐怖は鮮明に残っている。汗でびっしょり濡れた身体から、冷えた汗がツーッと流れ落ちる。ようやく彼は、自分が夢を見ていたのだと気づく。
「なんだ……。夢か……」
言葉にしたことで、少しずつ実感がわいてきた。安心感が次第に広がり、生々しかった恐怖を溶かしていく。自らの無事を確かめるように、彼は大きく息を吸いこんで深呼吸する。
間違いない。オレは確かに生きている。もう何も、怖がる必要はない……。
気持ちが落ちつくと、ひとりでに笑みがこぼれる。右手でカーテンを開け、窓から朝日を取りこむ。部屋全体を照らす日光は、心の闇まで消しさってくれる。やはり、あれはただの夢だったのだ。
生きている喜びに包まれると、自分にまとわりつく汗の不快さまでもが強調された。彼は静かに立ち上がり、洗面台を目指す。
部屋の電気をつけ、明るくなった洗面台のレバーを上げる。蛇口から出る水を両手にため、汗と不快感を一掃する。これでスッキリした。本当に、生き返った気分だ。
彼は鏡の前で、自分を元気づけようと会心の笑みを見せる。
しょせん、ただの夢さ。またきょうも、いつも通りの1日が始まるんだ……。
明るく輝きだした幹男の顔が、一瞬で凍りつく。鏡に映る両側のほほから、皮膚がはがれ落ちていた。夢の中で準備運動を終えた枯木色の骨が、現実の幹男をも蝕みはじめていた。




