シチューが冷めないうちに
「シチューが冷めないうちに、私との婚約を破棄してくださいませ」
王宮の晩餐会場に、私の声だけが静かに響いた。
銀の燭台が揺らめく大広間。居並ぶ貴族たちが一斉に息を呑む気配が、肌を撫でるように伝わってくる。
けれど私は——リリアーナ・エルヴィーラ・ウィンターベルは、微動だにしなかった。
「……何を言っている?」
目の前の王太子エドワード殿下が、美しい碧眼を歪める。金糸の刺繍が施された豪奢な衣装。絵画から抜け出したような端正な顔立ち。けれどその瞳に浮かぶのは、困惑でも悲しみでもない。
——不快感だ。
(ああ、やはりそういう顔をなさるのですね)
五年間、この方の婚約者として尽くしてきた。公爵令嬢の身でありながら厨房に立ち、三日三晩かけて作った特製シチュー。殿下の好物だと聞いて、寝る間も惜しんで仕上げた一皿。
それが今、私の目の前で——一口も手をつけられないまま、冷めていく。
「リリアーナ、急にどうしたのです?」
甘い声が横から割り込んできた。蜂蜜色の巻き毛を揺らし、大きな翠緑の瞳を潤ませた女性。メイフィールド男爵家令嬢、セリーナ。
彼女の手元には、既に空になったスープ皿。
「私、何かリリアーナ様のお気に触ることを……?」
(あなたが何をしたか、全部わかっていますよ)
セリーナの『料理』から漂う、かすかな違和感。前世で『魔女の舌』と呼ばれた私の味覚は、決して誤魔化せない。あの香辛料に混ざった、禁術の気配を。
「セリーナは何も悪くない」
エドワード殿下が彼女を庇うように腕を伸ばした。その仕草の自然さに、周囲から感嘆のため息が漏れる。
「リリアーナ、君には失望した。セリーナのスープは繊細で、心が安らぐ味だった。それに比べて君の料理は——」
殿下は私のシチューを一瞥し、露骨に顔をしかめた。
「重すぎる。貴族令嬢らしい控えめさというものを、少しは学んだらどうだ」
——ああ。
その瞬間、私の中で何かが音を立てて切れた。
重い、ですか。
ええ、重いでしょうとも。
本当の私の料理を知らない貴方には、きっと一生わからない。
「殿下」
私は静かに微笑んだ。氷の令嬢と呼ばれた、いつも通りの完璧な笑顔で。
「五年間、お世話になりました」
「……は?」
「シチューが冷めないうちに、と申し上げましたのは——」
私はゆっくりと立ち上がり、テーブルの上の銀の皿を見下ろした。三日三晩、眠らずに作った料理。殿下に気に入られようと、わざと味を抑えた、偽りの一皿。
「私の心が冷めないうちに、という意味でしたの。ですが——」
窓の外で、教会の鐘が鳴る。
「もう、冷めてしまいましたわ」
セリーナが何か言いかけた。エドワード殿下が立ち上がろうとした。
けれど私は、もう振り返らない。
(もう、遠慮することにしました——いいえ、遠慮しないことにしました)
銀灰色の髪を翻し、私は晩餐会場を後にする。
背後でざわめきが広がる。「公爵令嬢が」「婚約破棄を」「自分から」——断片的な言葉が耳に届くけれど、もうどうでもいい。
廊下に出た瞬間、私は小さく息を吐いた。
前世の記憶が、鮮やかに蘇る。異世界の宮廷で『魔女の舌』と恐れられた、天才料理人としての生涯。一口食べれば魂が震えるほどの至高の味を生み出す、味覚魔法の使い手。
——その私が。
あんな男のために、五年も味を殺していたなんて。
「馬鹿みたい」
誰もいない廊下で、私は声に出して笑った。
さあ、これからどうしましょう。
公爵家の令嬢が自ら婚約破棄を申し出たのだ。社交界では確実に噂になる。父上には申し訳ないけれど——いえ、あの方なら「よくやった」と言ってくださるかもしれない。
とにかく今は、この窮屈なドレスを脱いで、思う存分料理がしたい。
前世の技術を全て注ぎ込んだ、本当の私の味を。
誰に遠慮することもなく。
誰に合わせることもなく。
月明かりに照らされた廊下を歩きながら、私は次の人生の構想を練り始めていた。
王都のどこかに、小さな食堂を開こう。
名前は——そう、『冷めないシチュー』がいい。
あの晩餐会で冷めていったシチューへの、私なりの弔いとして。
◇
婚約破棄から三ヶ月。
王都の片隅に、一軒の小さな食堂が産声を上げた。
「お嬢様——じゃなかった、リリアーナ。看板、曲がってるわよ」
「……ハンナ、少し黙っていて」
私は脚立の上で悪戦苦闘しながら、木製の看板を壁に打ち付けていた。『冷めないシチュー』——素朴な字体で刻まれた店名が、午後の陽光を受けて輝く。
「あー、やっぱり曲がってる」
「……わかってます」
赤毛の三つ編みを揺らしながら、ハンナ・ブレンウッドが呆れたように腰に手を当てた。元王宮の厨房料理人。私が公爵令嬢の身分を隠して厨房に立った時、唯一その腕前を認めてくれた女性だ。
婚約破棄の噂を聞きつけるや否や、彼女は王宮を辞めて私の元に押しかけてきた。
『あんたの料理、もう一度食べたいのよ。雇いなさい』
その一言で、彼女は『冷めないシチュー』の副料理長兼給仕長に就任した。
「にしても」
ハンナが店内を見回す。カウンター席が五つ、テーブル席が三つ。こぢんまりとした空間に、磨き上げられた木の温もりが満ちている。
「本当に開店しちゃうのね、公爵令嬢が食堂を」
「元、婚約者ですけれど」
「そっちは『元』でいいのよ。問題は公爵令嬢の方」
私は脚立を降り、看板を見上げた。多少曲がっていても、悪くない。
「父上の許可は得ています。というより——」
婚約破棄を報告した時の、父上の反応を思い出す。
『そうか。よくやった』
厳格な表情は崩さないまま、けれどその灰色の瞳には確かに安堵が浮かんでいた。
『あの王太子では、お前の料理の価値はわからん。お前の好きにしなさい、リリアーナ』
父上は最初から、あの婚約に反対だったのだ。
「まあ、いいけど」
ハンナが肩をすくめる。「で、今日の仕込みは?」
「——シチューよ」
私は厨房へ向かいながら、エプロンを締め直した。
銀灰色の髪を高く結い上げる。前世の記憶が指先に宿るのを感じながら、私は包丁を手に取った。
今日から作るのは、誰かに気に入られるための料理じゃない。
私が作りたい、本当の味。
前世の技術と、この世界の食材と、味覚魔法を全て注ぎ込んだ——至高のシチュー。
「いい香り……」
三時間後、ハンナが目を見開いた。
厨房に満ちる、黄金色に輝くシチューの香り。牛肉と野菜が溶け合い、幾層もの味わいが織り成す芳醇なアロマ。
「ちょっと、味見していい?」
「どうぞ」
スプーンを差し出すと、ハンナは恐る恐る口に運び——
そして、固まった。
「……ハンナ?」
彼女の茶色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「なに、これ……」
声が震えている。
「お母さんの……いや、違う。お母さんの味を、百倍……いや、そんな単純な話じゃない……」
ハンナはスプーンを握りしめたまま、しばらく言葉を失っていた。
私は静かに微笑む。
味覚魔法——料理を通じて、人の心の真実に触れる力。このシチューを食べた者は、自分の心の奥底にある『本当の想い』に気づく。
「これが、私の料理よ」
「……あんた、化け物ね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ハンナは乱暴に涙を拭い、それから——ニッと笑った。
「いいわ。これなら、絶対に流行る」
こうして、『冷めないシチュー』は開店した。
◇
最初の一週間、客は数えるほどだった。
けれど——
「あの食堂のシチューを食べたら、ずっと忘れていた夢を思い出したの」
「俺は、親父と仲直りする決心がついた」
「妻への気持ちが、本物だって確信できた」
口コミは、静かに、けれど確実に広がっていった。
二週間後には行列ができ、一ヶ月後には予約制に移行せざるを得なくなった。
『あの食堂のシチューを食べると、心の奥底にある本当の想いに気づく』
そんな噂が、王都中に広まり始めていた。
◇
開店から二ヶ月が経った、ある雨の夜。
「いらっしゃいませ——」
閉店間際に入ってきた客を見て、私は言葉を止めた。
フードを深く被った長身の男性。けれど隠しきれない気品が、滲み出ている。そして何より——
(この人、見覚えが……?)
黒髪と琥珀色の瞳。王家の金髪とは異なるその風貌に、私はかすかな既視感を覚えた。
「シチューを」
低く、けれど耳に心地よい声だった。
「かしこまりました」
私は厨房に戻り、最後の一皿を用意する。
男性は黙ってそれを受け取り、スプーンを口に運んだ。
そして——
その琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
「……この味は」
男性の声が、かすかに震えていた。
「二十年前、城下町で迷子になった私に、一人の少女がシチューを分けてくれた。あの時の……いや、それ以上の……」
男性はゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「君が、あの時の少女か」
——迷子の少年に、シチューを分けた記憶。
それは確かに、私の幼い頃の思い出にある。けれど相手の顔までは覚えていない。
「……存じ上げませんが」
「そうか」
男性は——初めて、微笑んだ。
その笑顔は、冷徹な印象とは裏腹に、驚くほど穏やかで。
「私はレオンハルト。また来る」
レオンハルト——その名に、私は息を呑んだ。
王弟殿下。影の実力者と呼ばれ、宮廷で恐れられる存在。
そして、あのエドワード殿下の弟。
「……お待ちしております」
私は平静を装って答えた。
けれど胸の奥で、小さな波紋が広がっていくのを感じていた。
彼の瞳に宿っていた感情は、ただの懐かしさだけではなかった。
あれは——執着に近い、何か。
「面倒なことにならなければいいけれど」
閉店後、私は一人呟いた。
けれど翌日から、レオンハルト殿下は毎日のように店に通い始めることになる。
そしてそれが、王宮を巻き込む大騒動の始まりだと——この時の私は、まだ知らなかった。
◇
レオンハルト殿下が、本当に毎日来るとは思わなかった。
「いらっしゃいませ、殿下」
「レオンハルトでいい。ここでは客だ」
「……かしこまりました、レオンハルト様」
「『様』もいらない」
(面倒な方……)
内心でため息をつきながら、私はいつもの席——カウンターの一番奥——にシチューを運ぶ。
開店から三ヶ月。レオンハルト殿下……いえ、レオンハルトは、一日も欠かさずこの店に通い続けていた。しかも毎回、閉店間際の最も空いている時間を狙って。
「今日の味も、完璧だ」
「ありがとうございます」
「……座らないのか」
「私は店主ですので」
「客が座れと言っている」
(本当に、面倒な方)
けれど店内に他の客はいない。ハンナは厨房の片付けをしながら、こちらをニヤニヤと眺めている。あとで説教だ。
仕方なく、私はカウンターの内側に腰を下ろした。
「……何かご用ですか」
「用がなければ来てはいけないのか」
「いいえ。ただ、王弟殿下がこのような場所に連日いらっしゃるのは、不自然かと」
「不自然か」
レオンハルトはシチューをスプーンですくいながら、わずかに目を細めた。琥珀色の瞳が、燭台の炎を映して揺れる。
「私は二十年間、あの味を探していた」
「……あの味?」
「城下町で迷子になった日のことは、話しただろう」
ああ、初日に言っていた話か。
正直なところ、私にはほとんど記憶がない。幼い頃、城下町で泣いている男の子にシチューを分けてあげた——それだけのこと。
「あの時」
レオンハルトの声が、わずかに柔らかくなった。
「私は王宮を抜け出して、一人で街を歩いていた。兄上——エドワードは常に周囲にちやほやされていたが、私は違った。母の血筋のせいで、王家の中では異端視されていた」
黒髪と琥珀の瞳。確かに、アルヴァレス王家の金髪碧眼とは異なる。
「迷って、泣いていた私に、一人の少女が声をかけた」
「……」
「『泣いてるの? お腹すいてる? これ、私のお昼ごはんだけど、半分あげる』」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に閃くものがあった。
——ああ、そういえば。
「『シチューはね、冷めても温め直せば美味しいの。だから大丈夫。泣かないで』」
幼い自分の声が、記憶の底から蘇る。
「あの時のシチューの味を、私は一度も忘れたことがない」
レオンハルトは真っ直ぐに私を見つめた。
「二十年間、宮廷料理人に作らせ、王都中の店を回り、他国にまで探させた。けれど、どれも違った。あの味には、二度と出会えないと諦めていた」
「……」
「それが——この店で見つかった」
私は思わず目を伏せた。
味覚魔法の影響だろうか。それとも、前世からの料理への想いが伝わったのだろうか。どちらにせよ、彼がこれほど執着する理由が、ようやくわかった。
「レオンハルト様」
「『様』はいらないと言った」
「レオンハルト」
私は静かに言った。
「私は確かに、あの時の少女かもしれません。けれど——もう二十年も前のことです。私はもう、あの頃の私ではありません」
「知っている」
レオンハルトは淡々と答えた。
「君は王太子の婚約者として五年間を過ごし、自ら婚約を破棄した。今は一人の料理人として生きている」
「……調べたのですか」
「当然だ。君に関することは、全て」
さらりと恐ろしいことを言う人だ。
(これが影の実力者……)
「君が兄上の婚約者だった頃、私は何度か君を見かけていた」
「え?」
「晩餐会で、舞踏会で。いつも控えめに、兄上の隣で微笑んでいる君を」
レオンハルトの瞳に、わずかな苦味が滲んだ。
「あの頃は気づかなかった。君があの時の少女だと。君の本当の姿が、あの仮面の下に隠されていると」
「……」
「けれど今、この店で君の料理を食べて確信した」
彼はシチューの皿を空にし、スプーンを置いた。
「君は、私が二十年間探し続けた人だ」
その言葉の重みに、私は何も返せなかった。
◇
「あの黒髪の殿下、今日も来てたわね」
閉店後、ハンナが意味深に言った。
「……ええ」
「毎日毎日、熱心なこと。で、何か進展は?」
「進展って何よ」
「とぼけちゃって。あの殿下の目、完全に恋する乙女——じゃなかった、恋する男の目だったわよ」
「……馬鹿馬鹿しい」
私は皿を拭きながら、素っ気なく答えた。
けれど——否定できない部分もあった。
レオンハルトの瞳に宿る感情は、確かにただの客としてのものではない。二十年前の思い出に囚われた、執着にも似た何か。
「悪い話じゃないと思うけど」
ハンナが肩をすくめる。
「王弟殿下よ? しかもあの方、実質的に王国の政務を仕切ってるって噂じゃない。王太子より有能だって」
「だからこそ、面倒なの」
私はため息をついた。
「私はもう、王宮の人間関係に巻き込まれたくない。ここで静かに料理を作って暮らしたいだけ」
「あら、そう?」
ハンナの声に、からかうような響きが混じった。
「でもねぇ、リリアーナ。あんたの料理を食べた人は、本当の想いに気づくんでしょう?」
「……それが何」
「あの殿下、もう何十杯もあんたのシチューを食べてる。それでも毎日通ってくる。つまり——」
ハンナはニヤリと笑った。
「あの方の『本当の想い』は、とっくにあんたに向いてるってことじゃない?」
「……黙って」
私は顔を背けた。
頬が、わずかに熱い。
(面倒な方……本当に、面倒な方だわ)
けれど——不思議と、嫌ではなかった。
エドワード殿下に向けていた五年間とは違う。あの頃の私は、婚約者として「こうあるべき」という形に自分を押し込めていた。
でも今は——ただの料理人と、ただの客として向き合っている。
それが、悪くない。
「まあ、様子を見るわ」
「あら、前向きじゃない」
「うるさい」
皿を拭きながら、私は窓の外を見た。
月明かりに照らされた王都の街並み。その遠くに、王宮の尖塔が見える。
あそこにはもう、私の居場所はない。
けれど——
この小さな食堂で、新しい何かが始まろうとしている予感がした。
◇
異変に気づいたのは、開店から四ヶ月目のことだった。
「リリアーナ様、本日もご繁盛で」
店を訪れる客の中に、明らかに『貴族』の気配を纏う者が増えてきた。
最初はちらほらだった。けれど今では、予約客の半数以上が爵位持ちだ。変装して来る者もいれば、堂々と名乗る者もいる。
「——いったい、何が起きているの」
閉店後、私はハンナに問いかけた。
「さあ? 噂が噂を呼んでるだけじゃない?」
ハンナはのんきに答える。けれど私には、別の予感があった。
貴族たちがこの店を訪れた後、妙なことを口にするのだ。
『なぜ私は、あの男爵令嬢を素晴らしいと思っていたのだろう?』
『セリーナ嬢の料理を褒めていた自分が、信じられない』
『王太子殿下の判断に従うのが正しいと思っていたが……いや、おかしいぞ?』
セリーナ・メイフィールド。
あの晩餐会で、エドワード殿下の隣に座っていた男爵令嬢の名前だ。
「……やはり」
私は静かに確信した。
彼女の料理から感じた、あの違和感。禁術の気配。『魅了の香辛料』——人の心を惑わせ、操る魔法。
私のシチューを食べた貴族たちは、その魅了から解放されつつある。
「リリアーナ?」
「ハンナ、明日から少し忙しくなるかもしれないわ」
私は厨房の奥へ向かいながら呟いた。
味覚魔法の使い手として、私には責任がある。
◇
翌週、予想外の客が現れた。
「……久しぶりだな、リリアーナ」
その声を聞いた瞬間、店内の空気が凍りついた。
金髪碧眼。絵画のように整った顔立ち。けれど——五ヶ月前に見た時より、どこか精彩を欠いている。
エドワード殿下だった。
「……いらっしゃいませ、殿下」
私は平静を装って答えた。内心では——
(何をしに来たの、この人)
「一人か?」
「ええ。お供は外で待たせている」
エドワード殿下は店内を見回し、わずかに眉をひそめた。
「随分と繁盛しているようだな。まさか君が、こんな場所で料理人になるとは思わなかった」
「左様でございますか」
私は淡々と席に案内した。レオンハルトがいつも座る、カウンターの一番奥——ではなく、窓際のテーブル席へ。
「……シチューを」
「かしこまりました」
厨房に戻りながら、私は考えた。
なぜ、エドワード殿下がここに?
もちろん、この店の噂は王宮にも届いているだろう。けれど彼が自ら足を運ぶ理由がわからない。セリーナに操られているなら、むしろ私の店には近づかないはず——
「お待たせいたしました」
シチューを運び、テーブルに置く。
エドワード殿下は黙ってスプーンを手に取り、一口——
そして、固まった。
「これは……」
彼の碧眼が大きく見開かれる。整った顔が歪み、スプーンを持つ手が震え始めた。
「なん、だ……これは……私は、なぜ……」
私は静かに見下ろしていた。
味覚魔法が、彼の心の真実を暴いている。セリーナの魅了に覆われていた記憶が、本来の姿を取り戻していく。
「セリーナ……あれは、何だった……私は、なぜあの女の料理を……」
「——お気づきになられましたか」
私は静かに言った。
「メイフィールド男爵令嬢の料理には、『魅了の香辛料』が使用されております。禁術ですわ」
「禁術……? 馬鹿な、そんな……」
「信じられないのも無理はありません。殿下は五年間、その魔法に操られていたのですから」
五年間。
私が婚約者として尽くした、その全ての期間。
エドワード殿下は頭を抱えた。
「私は……リリアーナ、君に……」
「ええ。重いとおっしゃいましたわね、私のシチューを」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「繊細さを学べとも。——あの言葉、魔法のせいだけではないでしょう?」
「っ……」
「魔法に操られていたとしても、殿下ご自身の浅慮がなければ、あそこまでの仕打ちにはならなかったはずです」
私は一歩下がり、丁寧に頭を下げた。
「お代は結構でございます。どうぞ、お引き取りくださいませ」
「待ってくれ、リリアーナ」
エドワード殿下が立ち上がる。
「私は……やり直したいんだ。君との婚約を——」
「お断りいたします」
私は微笑んだ。氷の令嬢と呼ばれていた頃の、完璧な笑顔で。
「殿下、私が婚約破棄を申し出たのは、魔法に気づいたからではありません」
「え……?」
「シチューが冷めたから、です。私の心が」
エドワード殿下の顔が、蒼白に変わった。
「今さら温め直しても、もう遅いのですわ」
◇
エドワード殿下が去った後、奥の席からゆっくりと人影が立ち上がった。
「見事だった」
レオンハルトだった。いつの間に来ていたのか、閉店間際の常連席に座っている。
「……盗み聞きですか」
「偶然居合わせただけだ」
(絶対嘘だ)
「兄上は愚かだ。君の価値を、五年間も見誤っていた」
レオンハルトはカウンターに歩み寄り、私を真っ直ぐに見つめた。
「私なら——君のシチューを重いとは言わない」
「……知っています」
彼は毎日、一滴残さず食べてくれる。
「君は、これからどうする?」
「どうとは?」
「セリーナの禁術が露見すれば、王宮は大騒ぎになる。君もその渦中に巻き込まれるかもしれない」
私は少し考え、答えた。
「私は料理人です。政治には関わりません」
「本当に?」
「ええ。——ただ」
私は厨房を見やった。
「私の料理を食べた方が、真実に気づくのは止められませんわ。味覚魔法とは、そういうものですから」
レオンハルトの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「そうか。では——私も協力しよう」
「協力?」
「王宮の者たちを、この店に招待する。偶然を装って」
「……それは政治への関与では?」
「私がやるのであって、君ではない。君はただ、いつも通り料理を作ればいい」
なんという詭弁か。
けれど——悪くない、と思った。
セリーナの魅了魔法を、私の味覚魔法で解く。それは料理人としての、ある種の矜持だ。
「……お好きになさってください」
「そうさせてもらう」
レオンハルトは満足そうに頷き、いつもの席に座り直した。
「それより——今日のシチューをもらえるか」
「もう召し上がったでしょう」
「二杯目だ」
私は呆れながらも、厨房へ向かった。
月明かりが窓から差し込む中、小さな食堂に温かな香りが満ちていく。
——物語は、まだ終わらない。
王宮の大宴会が近づいている。セリーナが王太子妃候補として披露する、料理対決の日が。
◇
王宮からの招待状が届いたのは、大宴会の三日前だった。
『リリアーナ・ウィンターベル殿
王太子妃候補選定の料理披露会にて、審査員として御臨席賜りたく——』
「審査員……ね」
私は招待状を見下ろし、薄く笑った。
「これ、罠よね?」
ハンナが露骨に顔をしかめる。
「どう考えてもセリーナの差し金でしょ。元婚約者を呼びつけて、目の前で勝利を見せつけようってわけ」
「そうでしょうね」
セリーナは、私の店の噂を知っているはずだ。貴族たちが次々と正気を取り戻していることも。
追い詰められた彼女が打った、最後の賭け。
「行くつもり?」
「ええ」
私は招待状を畳んだ。
「——ただし、審査員としてではなく」
◇
大宴会当日。
王宮の大広間は、きらびやかな装飾と貴族たちで埋め尽くされていた。
「リリアーナ嬢、お久しぶりです」
「まあ、本当にいらしたの」
私の姿を見つけた貴族たちがざわめく。五ヶ月前、あの晩餐会で自ら婚約を破棄した公爵令嬢。今や王都一の食堂の店主。
——そして今夜は、銀灰色の髪を高く結い上げ、厨房用のエプロンを身につけていた。
「お嬢様、これは……」
傍らの父、アルバート・ウィンターベル公爵が静かに問う。
「申し訳ありません、父上。少々、派手なことをいたします」
「……そうか」
父上は一瞬だけ目を細め、それから口元を緩めた。
「好きにしなさい」
「ありがとうございます」
壇上では、セリーナが満面の笑みを浮かべていた。蜂蜜色の巻き毛を揺らし、清楚なドレスに身を包んで。その隣には、青白い顔のエドワード殿下。
「皆様、本日は王太子妃候補の料理披露会にお集まりいただき——」
司会の声が響く中、私は一歩前に出た。
「恐れながら、進言がございます」
大広間が静まり返る。
「披露会を、料理対決に変更していただきたく」
「な——」
セリーナの顔が引きつった。
「リリアーナ・ウィンターベル。私も、料理人として参加させていただきます」
ざわめきが広がる。「元婚約者が?」「挑戦状?」「まさか、復縁を……」
「お待ちください!」
セリーナが声を上げた。甘い声に、わずかな焦りが滲んでいる。
「突然の変更など、認められません。それに、公爵令嬢が料理などと——」
「私は今、料理人でございますわ」
私は静かに微笑んだ。
「それとも、メイフィールド男爵令嬢。——お逃げになりますか?」
その一言で、セリーナの顔から血の気が引いた。
逃げれば、敗北を認めたことになる。彼女には、受けるしかない。
「……いいでしょう」
セリーナは唇を歪めた。清楚な仮面の下から、冷酷な本性が覗く。
「私の料理に勝てると思っているなら、お見せください」
◇
厨房が二つ、壇上に設置された。
私は自分の持ち場に立ち、食材を確認する。牛肉、野菜、香辛料——全て、この日のために厳選したもの。
「リリアーナ」
背後から、低い声がかかった。振り向くと、レオンハルトが壁際に立っていた。
「……来ていたのですか」
「見届けに来た」
彼の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「君なら勝てる。——いや、勝つだろう」
「……ありがとうございます」
「終わったら、話がある」
「話?」
「後でな」
意味深な言葉を残して、レオンハルトは観客の中に消えた。
(まったく、人の心臓に悪いことを……)
けれど、不思議と力が湧いてくる。
さあ、始めよう。
私は包丁を手に取った。
◇
二時間後。
私の手元には、黄金色に輝くシチューがあった。
あの晩餐会で、エドワード殿下に拒絶された特製シチュー。けれど今度は違う。一切の遠慮なく、前世の技術と味覚魔法を全て注ぎ込んだ——完全版。
香りだけで、観客席からため息が漏れた。
「そ、それでは……試食を」
司会の声が震えている。
まずはセリーナの料理が配られた。繊細な見た目のスープ。けれど——私の鼻は、その中に混ざった禁術の気配を捉えていた。
(最後まで、諦めないのね)
貴族たちがスプーンを口に運ぶ。一瞬、彼らの目が虚ろになりかける。魅了の香辛料が効き始めている——
「——続いて、私のシチューでございます」
私は自らの皿を配った。
黄金色の液体が、燭台の光を受けて輝く。一口でいい。このシチューを口にすれば、全ての魅了は解ける。
最初に口をつけたのは、老齢の公爵だった。
そして——
「……っ」
彼の目から、涙がこぼれ落ちた。
続いて伯爵夫人、騎士団長、侍従長——次々と、貴族たちの頬を涙が伝う。
「これは……」
「何という、味だ……」
「私は、なぜ今まで……セリーナ嬢の料理を……」
魅了が解けていく。本来の判断力を取り戻した貴族たちが、驚愕の表情でセリーナを見つめる。
「な、なぜ……」
セリーナの顔が蒼白に変わった。
「どうして、私の魔法が……」
「魔法?」
その言葉を、老公爵が聞き咎めた。
「メイフィールド男爵令嬢、今、魔法と言ったか?」
「ち、違います! 私は——」
「いいえ」
私は静かに進み出た。
「メイフィールド男爵令嬢は、禁術『魅了の香辛料』を使用しておりました。五年間、王太子殿下を含む多くの方々を、その魔法で操っていたのです」
大広間が、騒然となった。
「禁術だと!?」
「王太子殿下を操っていた!?」
「嘘よ! 嘘! 私は何もしていない!」
セリーナが叫ぶ。けれど、魅了から解放された貴族たちの目は、もう彼女を信じていない。
正気を取り戻したエドワード殿下が、愕然とした表情で立ち尽くしていた。
「私は……五年間も……」
「殿下」
私は彼の方を向いた。
「あの晩餐会で、殿下は私のシチューを重いとおっしゃいました」
「……」
「けれどあのシチューは、殿下に気に入られようと、わざと味を抑えたものでした。——これが、本当の私の味です」
私は残ったシチューを、エドワード殿下の前に置いた。
「どうぞ。冷めないうちに」
殿下は震える手でスプーンを取り、口に運んだ。
そして——崩れ落ちた。
「なんて、ことだ……私は、なんて馬鹿な……」
涙を流しながら、エドワード殿下は呟いた。
「リリアーナ、私は……君に、どれほどの……」
「殿下」
私は静かに微笑んだ。
「謝罪は不要でございます。——ただ」
私は一歩下がった。
「このシチューは、もう貴方のために作ったものではありませんの」
「え……」
「シチューは——冷めてしまいましたから」
エドワード殿下の顔から、全ての血の気が引いた。
謝っても、許しても、もう戻らない。
五年間の想いは、確かに冷めてしまった。
「お、お待ちください……!」
セリーナが逃げ出そうとする。けれど、衛兵がすでに出口を塞いでいた。
「禁術使用の容疑で、拘束する」
「いやぁぁぁっ!」
断末魔のような悲鳴を上げながら、セリーナは引きずられていった。
◇
宴会場が静まり返る中、ゆっくりと歩み寄る足音があった。
「見事だった」
レオンハルト。
彼は私の前に立ち、手を差し出した。
「リリアーナ・ウィンターベル。——いや、あの日シチューを分けてくれた少女」
「……殿下?」
「二十年間、探し続けた。君の味を。君という存在を」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「私の専属料理人になってくれ——いや、違う」
彼は、片膝をついた。
大広間が、再びどよめく。
「私の妻になってくれ。君のシチューを、一生独り占めしたい」
「……は?」
私は思わず素で声を上げてしまった。
「お、お待ちください、殿下、ここは……」
「レオンハルトだ。様も殿下もいらない」
「レオンハルト、それは同じことでは?」
「違う」
彼は真剣な顔で首を横に振った。
「妻になってくれたら、私も君に料理を作る。毎朝、下手くそなスープを」
「……」
私は思わず、声を上げて笑った。
この不器用な人は、本気でそう言っている。二十年間の想いを、こんな場所で、こんな形で。
「……考えておきます」
「考える?」
「ええ。まずは、そのスープを食べてみないと。料理人として、味も見ないで返事はできませんわ」
レオンハルトの顔が、微かに赤くなった。
「……わかった。明日、店で作る」
「楽しみにしていますわ」
月明かりが差し込む大広間で、私たちは見つめ合った。
新たな婚約者は、私のシチューを「重い」とは決して言わない人だ。
——むしろ、毎日二杯目をおかわりする人。
(まあ、それも悪くない、かもしれない)
頬が熱くなるのを感じながら、私は小さく微笑んだ。
◇
——一年後。
「リリアーナ、これ食べてくれ」
朝日が差し込む食堂のカウンターに、一皿のスープが置かれた。
色は……まあ、スープらしい色ではある。香りは……うん、香りと呼べなくもない。問題は、浮いている謎の物体だ。
「……レオンハルト。これは何?」
「野菜スープだ」
「野菜は、どこに?」
「……溶けた」
(溶けた?)
私は震える手でスプーンを取り、恐る恐る口に運んだ。
——塩辛い。ものすごく塩辛い。そしてどこかで焦げた味がする。
「……どうだ」
「ええ、まあ……」
私は必死に言葉を探した。
「……前回よりは、確実に進歩していますわ」
「本当か?」
レオンハルトの琥珀の瞳が、子犬のように輝く。影の実力者と呼ばれる男が見せる、あまりにも無防備な表情。
「……本当です。少なくとも、今回は食べられますから」
「よかった」
彼は満足そうに微笑んだ。あの冷徹な印象とは裏腹の、穏やかで不器用な笑顔。
毎朝、約束通りスープを作ってくれる。壊滅的に下手だけれど、一年間、一日も欠かさずに。
「……ねえ、レオンハルト」
「なんだ」
「そろそろ、私に教わりません?」
「いや」
即答だった。
「なぜですの?」
「自分で作りたいからだ。君に食べてもらう料理は、君に教わらずに作りたい」
「……意味がわかりませんわ」
「俺にもわからん。けれど、そうしたい」
まったく、不器用にもほどがある。
けれど——その不器用さが、嫌いではなかった。
「……ごちそうさまでした」
「完食してくれたのか」
「ええ」
私はスプーンを置き、立ち上がった。
「では、私もお返しをしませんと」
「シチューか?」
「いいえ」
私は厨房へ向かいながら、振り返った。
「今日は、スープを作りますわ。——あなたが目指している味を、お見せします」
「……それは、嫌だ」
「嫌?」
「手本を見せられたら、自分で作る気がなくなる」
「……本当に面倒な方」
私は呆れながらも、笑ってしまった。
◇
『冷めないシチュー』は、今や王都一の名店となっていた。
予約は三ヶ月待ち。貴族から庶民まで、あらゆる層の客が訪れる。『救国の料理人』——民衆は私をそう呼ぶようになった。
大宴会での一件は、瞬く間に王国中に広まった。
セリーナは禁術使用の罪で追放。彼女の一族、メイフィールド男爵家も連座して没落した。
エドワード殿下は、魅了魔法に操られていたとはいえ、五年間の失態を問われ、王太子の地位を剥奪された。今は地方の領地で静かに暮らしているという。
そして——
「リリアーナ、今日の仕込みは終わったか?」
「ええ。あとはハンナに任せてありますわ」
私は厨房から出て、レオンハルトの隣に座った。
あの告白から一年。私たちは正式に婚約し、来月には挙式を控えている。
「……父上から、また手紙が」
「アルバート公爵から? なんと?」
「『娘を泣かせたら公爵家の全力を以て潰す。覚悟しておけ』と」
「……毎週同じ内容では?」
「毎週、微妙に文面が変わっている。今回は『全力』の部分に下線が引いてあった」
私は思わず噴き出した。
「父上らしいですわね」
「義父になる方だぞ。もう少し優しくしてほしい」
「あの方なりの愛情表現ですから」
レオンハルトは苦い顔をしながらも、口元は緩んでいた。
◇
昼下がり。
店の開店準備を終え、私たちは厨房の隅で小さな食卓を囲んでいた。
テーブルの上には、二つの皿。
私が作った特製シチューと、レオンハルトが作った——色々と問題のあるスープ。
「……いただきます」
私はまず、彼のスープに手をつけた。
相変わらず塩辛くて、焦げた味がする。野菜は溶けて原型をとどめていない。前世の『魔女の舌』を持つ私からすれば、料理とは呼べない代物だ。
けれど——
「美味しい」
「嘘だろう」
「本当ですわ」
私は微笑んだ。
「レオンハルト、あなたが私のために作ってくれた料理は、どんな味でも美味しいのです」
「……それは、味覚魔法か何かか?」
「いいえ。ただの——愛情、というものですわ」
レオンハルトは一瞬固まり、それから顔を赤くした。
影の実力者と呼ばれ、宮廷で恐れられる男が、私の前ではこんなにも無防備になる。
「……ずるいぞ」
「何がですか?」
「そういうことを、さらりと言うのは」
「あなたが先に、毎朝スープを作ってくれているでしょう。私は返しているだけですわ」
「……」
レオンハルトは黙って、私のシチューをスプーンですくった。一口、二口、三口——いつものように、一滴残さず食べていく。
「……リリアーナ」
「何ですか」
「愛している」
唐突な告白に、私は一瞬言葉を失った。
「……何を急に」
「急ではない。毎日思っている。けれど、毎日言わないと伝わらないと思った」
「……」
「明日も言う。明後日も。来月も、来年も、一生」
私は顔が熱くなるのを感じた。
「……本当に、不器用な方」
「自覚はある」
「でも——」
私は、静かに微笑んだ。
「私も、です」
レオンハルトの瞳が、驚いたように見開かれる。そして——
あの、子犬のような笑顔を見せた。
「……ありがとう」
「お礼を言われることでは——」
「いや、言わせてくれ。君と出会えて、本当によかった」
窓の外では、夕日が王都を橙色に染めている。
小さな食堂に、温かな香りが満ちている。
これが、私の選んだ場所。私の選んだ人。
『冷めないシチュー』——その名前には、もう一つの意味が加わった。
二人の間で、決して冷めない想い。
◇
「お嬢様——じゃなかった、リリアーナ。そろそろ開店よ」
ハンナの声が厨房から響く。
「今行きますわ」
私は立ち上がり、エプロンを締め直した。
「レオンハルト、今日は?」
「夕方に来る。閉店まで待っている」
「いつものことですわね」
「当然だ。君のシチューを食べないと、一日が終わらない」
私は小さく笑い、厨房へ向かった。
◇
夕暮れ時。
いつもの席に座るレオンハルトの前に、シチューを置く。
「——お待たせいたしました」
「ああ」
彼は黙ってスプーンを手に取り、一口——
そして、目を閉じた。
二十年前、城下町で迷子になった少年に分けた一杯のシチュー。
その味を、彼はずっと忘れなかった。二十年間探し続け、ついに見つけた。そして今、毎日こうして食べている。
「……やはり、この味だ」
「お気に召しましたか」
「毎日気に入っている。一生気に入り続ける」
私は小さく微笑んだ。
かつて、別の婚約者は私の料理を「重い」と言った。繊細さを学べと嘲笑った。
けれど今——
「リリアーナ」
「何ですか」
「俺は、君と結婚したら、毎日このシチューを食べられるのか」
「ええ。お望みなら」
「では、毎日食べたい」
「……毎日は体に悪いですわよ」
「構わない」
私は呆れながらも、頬が緩むのを抑えられなかった。
窓の外では、夕日が王都を橙色に染めている。
小さな食堂に、温かな香りが満ちている。
これが、私の選んだ場所。私の選んだ人。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
「ああ。——いただきます」
レオンハルトは幸せそうにシチューを食べ続け、私はその隣で微笑んでいた。
かつて、シチューが冷めて終わった婚約があった。
けれど今——新しい物語は、温かいまま続いていく。
永遠に、冷めることなく。




