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小さな日常

 放課後、私は結衣と一緒に図書室へ向かった。テスト週間が近づくと、教室に残って勉強する子も増えるけれど、私は今日は“静かな場所”が欲しかった。静かな場所は、頭の中も静かにしてくれる。余計な想像や不安が騒ぎ出す前に、現実の手順で押さえ込める。


 図書室の前に立つと、結衣が小さく立ち止まった。


「……ねえ、柚葉。今日、寄り道って言ったけど」


「うん」


「テスト前だから、やっぱり……勉強優先?」


 結衣の言い方が、遠慮の形をしている。遠慮は優しさだけど、優しさはときどき誤解を生む。私は結衣の遠慮を“断り”にしたくなかった。


「寄り道、明日でいいよ。でも今日は、結衣と一緒に勉強したい」


 結衣の目が少し丸くなる。


「……一緒に、勉強」


「うん。結衣がいると集中できる」


 嘘じゃない。結衣が隣にいると、私は“今”に戻れる。誰かの悪意や、勝手な噂より、目の前の問題集の方がよほど扱いやすい。


 結衣は少しだけ口元を引き締めて、でも最後に小さく頷いた。


「……じゃあ、私もちゃんとやる」


「うん。ちゃんとやろ」


 私たちは図書室に入って、奥の席を確保した。夕方の光が窓から斜めに差して、机の上に薄い長方形を作る。椅子を引く音、ページをめくる音、シャーペンの芯が紙に擦れる音。世界が“勉強”に整列していく感覚があった。


 私は英語の単語帳を開いて、結衣は数学の問題集を広げる。最初はそれぞれ黙って進めていたけれど、十分もしないうちに、私は結衣のノートを横目で見てしまった。字が整っていて、式の流れが見やすい。几帳面というより、思考がきれいに並んでいる感じ。


 私がじっと見ていると、結衣が顔を上げた。


「……何」


「ノート、綺麗」


「当たり前」


「当たり前って言うけど、私こういうの苦手」


「柚葉は、字が綺麗なタイプじゃないだけ」


「フォロー雑」


 結衣は小さく笑って、シャーペンを止めた。


「見たいなら、見せる」


「いいの?」


「いい。隣なんだから」


 その“隣”がまた胸をくすぐる。私はノートを覗き込んだ。距離が近い。肩が触れそう。結衣のシャンプーみたいな匂いが一瞬だけ鼻先をかすめて、思考がふわっと飛びかけた。


 ……危ない。勉強しに来たのに。


 私は必死に視線を式に戻した。


「ここ、途中でマイナスが……」


「うん。符号変わる。ほら」


 結衣が指で示す。指先が紙の上を滑って、私の目線を導く。私が理解した瞬間、結衣が小さく言った。


「……分かった顔してる」


「分かった」


「偉い」


 その「偉い」が、やけに甘く聞こえた。結衣はたぶん無自覚だ。無自覚だから刺さる。


 私は気を逸らすように単語帳に戻った。


「じゃあ私も、英語教える」


「英語、柚葉の方が強いの?」


「得意。……結衣にだけ教える」


 言ってから自分で「何言ってるんだ」と思った。教えるのは普通なのに、“結衣にだけ”が余計だ。結衣が固まって、視線を逸らす。耳が赤い。


「……そういうの、やめて」


「ごめん。つい」


「ついって便利」


 結衣はぶっきらぼうに言いながら、私の単語帳に顔を寄せた。距離がまた近い。私は自分の鼓動がうるさくなるのを感じた。これ、図書室でやる距離じゃない。


 私は小声で囁く。


「……聞こえる?私の心臓」


「聞こえない」


「嘘」


「……聞こえそうだから、やめて」


 結衣がそう言って、私のノートに視線を落とした。逃げるんじゃなく、落ち着く場所に戻る。そのやり方が、結衣らしい。


 ※ ※ ※


 一時間ほど経った頃、図書室の入口が開く音がした。見上げると、風華が入ってくる。遠くからでもわかるくらい、視線がこちらに一直線だった。


 結衣が一瞬だけ固まる。私は内心「来た」と思った。テスト前のこの時期、誰がどこで勉強しているか、自然に情報が回る。浅葱が言っていた“時間割を組む”というやつだ。私はその仕様の中にいる。


 風華がこちらに近づいてきて、椅子の横に立った。


「ここにいたのね」


 私は小さく頷く。


「うん。結衣と勉強してた」


 風華の視線が一瞬だけ結衣に移る。結衣はそれを受け止めて、逃げずに言った。


「……邪魔だったら、席移ります」


 風華が即答する。


「邪魔じゃない。むしろ安心した」


 言葉が強い。結衣の眉が僅かに動く。私の胸もきゅっと鳴る。風華の「安心」は、いつも“管理”じゃなく“保護”の方に向いている。それが分かるから、私は拒めない。


 風華は私に小さな紙を差し出した。


「これ、テスト範囲の共有。真白がまとめた」


「……ありがたい」


「今度は“ありがたい”って言っていい」


 風華が淡々と言うから、私は思わず笑った。結衣が小さく息を吐く。緊張が少しだけ抜けたみたいだった。


 風華が続ける。


「浅葱がね、明日“勉強会”をやりたいって言ってる。場所は生徒会室。来れる?」


 結衣の肩が僅かに強張るのが分かった。生徒会室。結衣にとっては、まだ“アウェイ”だ。私は結衣を置いていく形にしたくない。


 だから私はすぐに言った。


「行く。でも、結衣も一緒」


 結衣が私を見る。驚きと、少しの嬉しさ。


 風華が頷く。


「もちろん」


 その当然のような返事が、結衣の緊張を少しだけほどく。結衣は小さく頷いた。


「……行きます」


 風華はそれで用件が終わったのか、少しだけ視線を落としてから言う。


「柚葉。今日は顔が良い」


「顔が良いって何」


「……元気そうってこと」


 言い直したのが可笑しくて、私はまた笑った。結衣が小さく言う。


「風華、言い方が不器用」


 風華が即座に返す。


「結衣も」


 結衣が固まる。私はそこで危うく吹き出すところだった。風華のカウンター、普通に刺さる。結衣が悔しそうに視線を逸らして、シャーペンを握り直す。


 風華は小さく息を吐いて、最後に私にだけ聞こえる声で言った。


「……無理しないで。明日、少し動きがある」


「動き?」


「紗羅が、焦ってる」


 その言葉で、図書室の空気が一段冷えた気がした。結衣がこちらを見た。私は頷いた。怖い。でも、怖いからこそ手順を選ぶ。


 風華はそれ以上言わずに去っていった。


 ※ ※ ※


 風華がいなくなった後、結衣が小さく言った。


「……明日、動きがあるって」


「うん。たぶん嫌なやつ」


「……私、柚葉の隣にいる」


 当たり前のように言う結衣の声が、胸を強くする。私は頷いた。


「うん。私も、結衣の隣にいる」


 結衣が固まる。私も固まる。

 同じ言葉を返しただけなのに、空気が甘くなる。


「……それ、反則」


「反則じゃない。等価交換」


「等価交換って何」


「結衣がくれたから、私も返した」


 結衣は顔を赤くして、私の単語帳をひったくるように開いた。


「じゃあ、勉強に戻る。今のは忘れて」


「忘れない」


「忘れろ」


「嫌」


 小声の喧嘩みたいになって、私たちは笑った。図書室の静けさの中で、笑いが浮いてしまうのが可笑しくて、また笑った。笑っても、私はもう怖くない。怖いものは残っている。でも、私の世界はそれだけじゃない。


 帰り道、結衣が小さく言った。


「明日、勉強会の前に……寄り道、していい?」


「内緒の場所?」


「うん。テスト前だから短く。でも、柚葉に渡したい」


「渡したいもの、多いね」


「多い。柚葉が……受け取ってくれるから」


 その言葉が、胸の奥に深く落ちた。私は受け取っていい。私はもう、奪われるのが怖いからって、全部拒む必要はない。


 私は結衣の手を、そっと握り直した。


「……受け取る。全部じゃなくても、少しずつ」


 結衣が小さく笑う。


「それでいい」


 そして私は思う。

 夏休みは、まだ先だ。

 でも、この“少しずつ”が積み上がれば、夏休みはきっと、私の人生を取り返す季節になる。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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