夏休み前の話
翌朝、結衣の『内緒。柚葉の顔が元気になる場所』が頭から離れないまま、私は教室のドアを開けた。まだ眠気の残る教室には、いつもより早い時間の静けさが漂っている。窓際の席に朝日が差して、机の天板が淡く光っていた。四月から始まったこの新学期は、気づけば“慣れ”と“疲れ”の両方が溜まる時期に入っている。時間はちゃんと進む。私の痛みも、私の回復も、同じ速度で。
席に着くと、結衣がすでに弁当箱みたいな小さな容器をそっと机に置いていた。私と目が合うと、結衣は一瞬だけ目を逸らして、すぐに戻す。逃げない。そのくせ照れる。反則だ。
「おはよう、柚葉」
「おはよう。……それ、今日も?」
「……うん。昨日よりちょっと上手くできた」
私は笑いそうになって、慌てて咳払いした。朝から心臓に悪い。卵焼きの話をしているだけなのに、私たちの間には余計な熱が混ざるようになってしまった。
「じゃあ、後で点数つける」
「ちゃんと真面目にやって。適当な200点とかいらない」
「じゃあ、101点」
「そういうのやめて」
結衣はぶっきらぼうに言いながら、口元はほんの少しだけ緩んでいる。私も同じだ。こういう“小さなやり取り”が、私を現実に繋ぎ止めてくれる。
――その時。
教室の前の方がざわついた。担任が入ってきたからじゃない。クラスの誰かがスマホを見て、小さく声を上げたのが発端だった。
「え、マジ……?期末、範囲増えてる」
別の子が慌てて続ける。
「え、嘘。来週テスト週間じゃん」
来週。テスト週間。
その言葉が、私の中の“予定表”を一気に塗り替える。期末テスト。夏休み前の関門。そうだ、夏休みは突然来るんじゃない。こういう現実の山を越えた先にある。
担任が教壇に立って、淡々と告げる。
「はい、連絡。来週から期末テスト週間。各教科、範囲確認しておけ。放課後の委員会活動は一部停止、部活も短縮になる。以上」
教室が一斉にため息を吐く。私はその空気の中で、もう一つ別のことを考えた。テスト週間は、噂の拡散が弱まる。みんなが自分の点数に必死になるからだ。つまり――“沈静化の窓”ができる。
私は結衣の方を見た。結衣も同じことを考えたのか、ほんの少しだけ目が鋭くなる。
「……柚葉。テスト期間、変なの減りそう」
「うん。だから、ここで整えたい」
「整える?」
「私の立ち位置。あと、夏休みに向けて」
結衣の目が少し丸くなる。夏休み、という単語が出ただけで、教室の中の空気が違う色に変わった気がした。まだ先のはずなのに、みんなの心はそこへ飛ぶ。
「夏休み……一緒に何かできる?」
結衣が小さく言う。
私は胸がきゅっとなる。
「できる。……したい」
言った瞬間、結衣が固まる。私も固まる。
でも今度は、焦って取り繕わなかった。
胸が熱いなら、熱いままでいい。
※ ※ ※
放課後。私は風華からの連絡で、短く生徒会室に寄った。廊下を歩きながら、ふと気づく。最近の私は、生徒会室に行く時の足取りが軽い。以前は“泣きに行く場所”だった。今は“整えに行く場所”になっている。
扉を開けると、浅葱が即座に反応した。
「柚葉きた!聞いた?テスト!夏休みの前哨戦!」
「前哨戦って言い方やめて」
真白が資料をまとめながら淡々と言う。
「テスト期間は校内の雑談量が減る。噂の燃料が減少。好機」
千景が短く頷く。
「……揉め事も減る。動きやすい」
風華は私を見る。
「柚葉。夏休みまで、あと何週間?」
「……テスト終わったら、ほぼ直前」
「じゃあ、その前に“数話”必要ね」
私は思わず笑いそうになった。風華、無意識に“話数”で捉えてる。いや、私が今そういう話をしたせいかもしれない。
「数話って何」
「夏休みに入る前に、校内での構図を固める。結衣との関係も、私たちとの距離も。あなたの居場所を“仕様”として確定させる」
仕様、という言葉が妙にビジネスっぽくて、でも分かりやすい。居場所を偶然にしない。設計する。私はそれが好きだ。傷ついた自分を、もう偶然に預けたくない。
「そのために、やることは三つ」
風華が指を立てる。
「一つ。テスト期間は“静かに勝つ”。余計な発信をしない。二つ。紗羅の印象操作に矛盾を作る。柚葉が平穏に過ごしている事実を積む。三つ。夏休みの導線を作る。あなたが孤立しない時間割を組む」
浅葱が即座に乗ってくる。
「時間割!じゃあ夏休みのイベント案、出していい?勉強会、お泊まり、花火、プール、浴衣――」
「浅葱、飛ぶの早い」
「早い方が勝つの!」
私は顔が熱くなる。お泊まり。花火。浴衣。
頭の中に、結衣の横顔が勝手に出てくる。
結衣と浴衣。結衣と花火。
……心臓が忙しい。
風華が私の反応を見て、少しだけ目を細める。
「柚葉。今、何考えた?」
「何も」
「嘘」
「……何もじゃないけど」
浅葱がにやにやする。
「はい、今の“何もじゃない”は恋の顔!」
私は机に額をつけたくなった。
でも、こういう照れを共有できる相手がいること自体が、私の回復の証拠だ。
風華が話を戻す。
「夏休み編に入る前に、まずはテスト。ここであなたが崩れないこと。次に、夏休みに“勝ちの形”を持ち込む。つまり――夏休みは、反撃の準備期間になる」
私は頷いた。
夏休みは、逃げるためじゃない。
私の人生を取り戻すための、加速区間だ。
そして私は、結衣にそれを共有したくなった。守られるだけじゃなく、一緒に進むために。
生徒会室を出て、私は結衣にメッセージを送る。
『テスト終わったら、夏休み。私、夏休みを大事にしたい。結衣と一緒に、ちゃんと楽しい予定作りたい』
既読。すぐ返信。
『うん。作ろう。柚葉の夏休み、私が隣で守る。あと、寄り道の場所、明日ね』
寄り道。明日。
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、スマホを握りしめた。
夏休みはまだ先なのに、もう始まっている気がした。
私の中で、“未来の色”が戻ってきている。
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