ざまぁは終わらない
午前の授業は、内容が頭に入らないわけじゃないのに、妙に集中が切れた。ノートを取っているはずなのに、視界の端に結衣の横顔が入るだけで、ペン先が一瞬止まる。卵焼きの匂いが残っているせいかもしれないし、教室のざわつきがまだ胸の奥に残っているせいかもしれない。
私は何度も自分に言い聞かせた。浮かれるな。今はまだ途中だ。ざまぁは感情で突っ込むと失敗する。冷静に、正しい手順で、逃げずに進む。
それでも、結衣がたまに私の方を見て、目が合いそうになるたびに、胸がきゅっと鳴った。負けるな、私。
授業の合間、隣の席の子が小声で言った。
「柚葉、結衣と仲いいんだね」
私は、あえていつも通りに頷いた。
「うん。隣だし」
“隣”という言葉は便利だ。恋にも友情にも使えて、どちらにも寄せすぎない。でも同時に、どちらにもなれる余白がある。私はその余白に、少しだけ救われている。
結衣がその会話を聞いていたのか、私の方を向いて小さく言う。
「……隣、便利だね」
「便利だよ。結衣がいるから」
言ってしまってから、私は顔が熱くなるのを自覚した。結衣が固まって、視線を机に落とす。反応が正直すぎて、私も目を逸らした。教室で照れるのは、心臓に悪い。
※ ※ ※
昼休み。
私は結衣と弁当を広げた。朝の卵焼き騒動があったせいで、周りの視線がいつもより集まりやすい。けれど、担任の“拡散禁止”が効いているのか、直接突っ込んでくる子は少ない。静かな好奇心が漂うだけだ。
結衣が弁当箱を開けながら、ぼそっと言う。
「……さっきの質問、変な空気だった」
「好きなの?ってやつ?」
「うん」
私は箸を持ったまま、少しだけ息を整えた。結衣が気にしているなら、逃げるのは悪手だ。曖昧にすると、教室の空気が勝手に形を作る。形ができたら、誰かに利用される。紗羅みたいな人間は、そういう“形”を餌にする。
私はできるだけ軽く言った。
「私は、結衣と仲良いのは本当。結衣が私の味方ってのも本当。……それで十分じゃない?」
結衣は箸を止めて、私を見た。言葉に引っかかったみたいに。
「……十分?」
「うん。今はね」
“今は”を付けたのは私の正直だ。
今は、十分。
だけど、未来は分からない。
結衣は小さく頷いて、視線をおかずに落とす。
「……柚葉が決めるなら、それでいい」
その言い方が、胸を温かくする。結衣は私を急かさない。奪わない。勝手に決めない。私が一番欲しかった距離感を、ちゃんと差し出してくれる。
私は弁当の蓋を少し動かして、結衣の方へ寄せた。
「今日も、少し分ける」
「……いいの?」
「うん。結衣の卵焼き、もう一回食べたい」
言った瞬間、結衣の顔がまた赤くなる。
「ばか……!今それ言う?」
「言いたくなった」
「……言われたら、明日も作りたくなるじゃん」
私は箸を止めた。
「え」
結衣も止まった。言ってから気づいた顔。
教室の雑音が遠ざかって、心臓の音が近くなる。
「……今の、聞かなかったことにして」
「するわけない」
「……柚葉、ずるい」
私がずるいなら、結衣もずるい。
私は笑いそうになるのを堪えながら、卵焼きを一切れ口に運んだ。
美味しい。
味も、状況も。
※ ※ ※
昼休みの終わり際、スマホが震えた。風華からだ。
『放課後、少し時間ある?短くでいい』
私は一瞬迷った。今日は結衣と駅まで一緒に帰る流れを作っていた。だけど、風華の連絡は“安全”と“戦略”に直結する。今の私は、どちらも手放したくない。
私は結衣を見た。結衣は私の顔を見ただけで察したように言う。
「……風華から?」
「うん。放課後、少しだけ」
結衣は少しだけ口を結んで、それから、ちゃんと笑って頷いた。
「行っておいで。私、待つ」
「待つって、どこで?」
「……駅。いつものとこ。柚葉が来るまで」
その言い方が健気で、胸がきゅっと鳴る。
私は結衣の手元を見て、正直に言った。
「……ありがとう。すぐ行く。長くならないようにする」
「長くなってもいいよ。柚葉が必要なら」
必要。
その言葉に、私は一瞬だけ目が熱くなった。
必要とされることが怖かった時期がある。必要とされた分だけ、簡単に捨てられたから。
でも結衣の“必要”は、私を縛るためじゃない。私を支えるための必要だ。
私は頷いた。
「……行ってくる」
※ ※ ※
放課後、廊下に出ると、空気が少し張っていた。取り巻きの件があったから、身体が勝手に警戒する。でも、警戒は悪じゃない。必要な装備だ。
階段を下りたところで、浅葱に呼び止められた。
「柚葉!今日の卵焼き、事件だったね」
「事件扱いしないで」
「だって教室が一瞬で平和になったじゃん。あれ、すごいよ。柚葉が笑って、結衣が照れて、周りが『あ、なんかもういじめる空気じゃない』ってなるやつ」
浅葱の言い方は雑だけど、核心を突いてくる。
私は短く息を吐いた。
「……平和、続くといいけど」
「続けるんだよ。柚葉が中心なんだから」
中心。
その言葉が、少し怖くて、でも少し嬉しい。
私は風華のクラスの前で立ち止まった。廊下の窓から差す夕方の光が、床に長い影を作っている。扉の向こうから、誰かの笑い声が漏れる。自分とは別の世界みたいに聞こえた。
でも今は、そこに足を踏み入れる勇気がある。
「……失礼します」
風華が廊下に出てきた。視線が合う。相変わらず落ち着いた顔。だけど、私を見る目が少しだけ柔らかい。
「来てくれてありがとう。歩きながら話そう」
「うん」
私たちは並んで歩く。風華は歩幅を、私に合わせてくれる。言葉にしない優しさ。
それだけで、胸が整う。
「今日の教室、どうだった?」
「卵焼きで騒いだ。結衣が作ってくれて……その、私、嬉しくて」
風華は一拍置いてから言う。
「……よかったね」
昨日より、少しだけ自然な“よかったね”。
でも私は、風華の目の奥に小さな揺れを見た気がした。
嫉妬、と言い切るには違う。
でも“私の知らないところで柚葉が幸せになるのが、少しだけ寂しい”みたいな揺れ。
私はその揺れに、心がくすぐられた。
「風華も、可愛いとこある」
言った瞬間、風華が止まった。
「……今、何て?」
「可愛い。浅葱も言ってた」
「浅葱の言葉を根拠にしないで」
風華の耳が少し赤い。私は内心で小さくガッツポーズをした。ラブコメは、こういうところで回る。
風華は咳払いを一つして、話題を戻す。
「本題。紗羅の動き。今日、クラスで“柚葉が周りに言いふらしてる”って方向で話してたらしい」
私は胸の奥が冷える。でも同時に、理解もした。来た。想定通りの印象操作。
だからこそ、私は感情で動かない。
「……どうする?」
「やることは同じ。柚葉が“言いふらしてない”ことを、自然に見せる。あなたが普段通り教室で過ごして、余計な発信をしない。それだけで矛盾が出る」
「矛盾?」
「言いふらしてるなら、柚葉の周りは“話題”で埋まる。でも今、埋まってるのは卵焼きと……結衣でしょ」
風華の言い方が少し刺さって、私は思わず笑ってしまった。
「……そこ、ちょっと嫉妬してる?」
風華が真顔で言う。
「してない」
「即答こわい」
「怖くない。事実を言っただけ」
私がくすくす笑うと、風華は小さくため息をついた。
「……柚葉が笑えるのはいい。けど、油断はしないで」
「うん」
風華は歩きながら、私の手元を一瞬だけ見る。
「結衣さんと、手を繋いだ?」
「……結衣は同学年だから“さん”やめて」
「……結衣と、手を繋いだ?」
言い直したのが可笑しくて、私はまた笑った。
「うん。繋いだ」
風華の横顔が、ほんの少しだけ固くなる。
でも次の瞬間、淡々と頷いた。
「分かった。柚葉が安心するなら、いい」
その“いい”が、優しいのに少しだけ強い。
私はその強さを、嫌じゃないと思ってしまう自分に気づいて、慌てて視線を前に戻した。
話は短く終わった。風華が「帰りは気をつけて」と言って、私は頷く。
そして私は駅へ向かって走り出した。結衣が待っている。そう思うと、足が勝手に速くなる。
これがラブコメなら、ここで転ぶ。
私は転びかけて、ギリギリ踏ん張った。
――危ない。
結衣に会う前に怪我したら、笑われる以前に心配される。
駅前に着くと、結衣がいつもの場所にいた。私を見つけて、ふっと安心した顔をする。
「……遅くない?」
「遅くない。結衣が待ってくれた」
「待った。柚葉が来るまで待つって決めたから」
私は息を整えながら、言った。
「……ありがとう。帰ろ」
結衣が頷いて、私の手を取ろうとして――一瞬止まる。周りの目を気にしたのかもしれない。
私はその迷いを見て、先に手を差し出した。
「今日も、繋ぐ?」
結衣が、ほんの少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……繋ぐ」
指が絡む。温かい。
私は思う。卵焼きより、手の温度の方が効く。
それを認めるのは悔しいけれど、今は嬉しさが勝つ。
帰り道、私の胸の奥で、小さな確信が育っていく。
私はもう、奪われる側じゃない。
私は自分で選ぶ。
そして、選んだ人たちと、堂々と笑う。
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