堂々と笑える自分を増やしていく
放課後の生徒会室を出た瞬間、廊下の空気がひやりと肌を撫でた。窓の外は夕暮れに沈み、部活帰りの声が遠くで跳ねている。私は鞄の肩紐を握り直して、胸の奥に残るざわつきを"今の私"の位置に戻そうとした。今日は勝った、というより、折れずに済んだ日だ。言い返さなかった。逃げなかった。「怖かった」と言えた。たったそれだけで、世界の手触りが少し変わる。
校門へ向かう途中、スマホが震えた。結衣からだ。短い文面なのに、指先が勝手に熱を帯びる。
『帰り、駅まで一緒に行ける?』
私は迷わず返信を打つ。
『行ける。今から行く』
送信してすぐ、胸の奥がふっと軽くなる。結衣が待っていると思うと、足の運びが速くなる。廊下の角を曲がる時、無意識に周囲を確認してしまうのはまだ癖だ。けれど、その癖が"慎重さ"に変わっていくのを感じる。怖がり続けるためじゃない。自分を守るための習慣だ。
下駄箱で靴を履き替えると、校門の近くに結衣がいた。人波に紛れないよう少し端に立っているのに、私の目はすぐにその姿を拾う。視線が合うと、結衣は小さく笑って、こっちへ駆けてきた。
「大丈夫だった?」
その一言が、体温みたいに胸へ落ちる。私は息を整えてから頷いた。
「うん。今日は大丈夫。結衣が止めてくれたのも、千景が来てくれたのも、ちゃんと報告した」
結衣はほっとした顔をした後、少しだけ眉を寄せる。
「また、来るのかな。ああいうの」
私は答える前に、心の中で"もう来ないでほしい"と祈った。けれど、祈りだけで現実は止まらない。だから私は、願いじゃなくて手順を選ぶ。
「来る可能性はあるって。真白も言ってた。だから、私も対策する」
対策、という言葉は冷たく聞こえるかもしれない。でも私にはそれが救いだった。感情で振り回されるんじゃなく、やることを決めておく。それだけで、"恐怖"は"予定"に変わる。
結衣は私の鞄の紐をちらりと見て、視線を戻す。
「……じゃあ、今日も一緒に帰ろ」
私たちは校門を出て、駅までの道を並んで歩いた。街路樹の影が伸びて、制服の袖を夕風が揺らす。周りの人の視線は相変わらずどこかでこちらに触れる気がする。けれど、結衣と並ぶと、視線の痛みが薄くなる。私が"独り"じゃなくなるからだ。
途中、コンビニの前で立ち止まった結衣が、少しだけ言いにくそうに口を開く。
「ねえ、柚葉。……生徒会長と、話した?」
ほんの僅かに混ざる緊張。結衣はたぶん、聞きたいのに怖いのだ。私が遠くへ行ってしまうのが。
「話したよ。私の境界線の確認と、今後の動きの整理。あと……結衣のことも」
結衣の目が少し丸くなる。
「私のこと?」
私は頷く。隠さない。隠すと、変な誤解が育つ。誤解は噂よりやっかいだ。
「結衣が私を支えてくれてるって。風華も、それはありがたいって言ってた」
結衣は安心したように息を吐き、次に少しだけ不服そうな表情になった。感情が分かりやすくて、私は思わず笑いそうになる。
「……ありがたいって、上からじゃない?」
「結衣、そこ気にするの」
「気にする。だって、柚葉の隣は私だし」
"隣は私"という言葉が、胸の奥をきゅっと掴んだ。独占みたいで、でも独占ではなくて。結衣は私を縛るためじゃなく、私を落とさないために言ってくれる。その違いが分かるから、私は嬉しい。
駅前が見えてくる。人の流れが少し増えて、現実の音量が上がる。私は歩きながら、今日の廊下の場面を思い返していた。あの取り巻きの目。言葉。冷えた感覚。でも、結衣の声がそれを切り裂いた。私が言い返すよりもずっと強く、ずっと正しかった。
改札前で立ち止まり、私は結衣を見上げた。言わないといけないことがある。今日は"報告"じゃなく、"伝達"が必要だ。
「結衣。今日、ありがとう。止めてくれて」
結衣は目を逸らして、少し照れくさそうに言う。
「当たり前だよ。ああいうの、許したくないし」
当たり前、という言い方が強い。結衣は優しいのに、優しさを盾にしない。私はそこが好きだと思う。
電光掲示板に電車の到着が表示され、結衣が小さく焦った顔になる。いつもより一本早い電車に乗るつもりらしい。だけど私は、その前に一つだけ、欲しいものがあった。
私はそっと手を差し出した。改札前の、人の多い場所で。隠れない。机の下じゃない。ここでも堂々と。
「……今日も、手」
言い切る前に、結衣が私の手を掴んだ。迷いがない。指が絡む。温度が伝わる。人の往来の音が、少し遠くなる。
「繋ぐ。いい?」
「うん。安心する」
結衣は私の指をきゅっと握り返して、小さく笑った。
「……私も」
そのまま数秒だけ立ち止まって、私たちは呼吸を合わせた。過去を消す魔法みたいなことは起きない。けれど、"今"を上書きする力なら、確かにここにある。
結衣の電車の時間が迫り、手を離す。名残惜しさが残るのが、少しだけ怖い。でも、怖いからこそ言える。私はもう、心の動きを否定しない。
「また明日。教室で」
「うん。明日も。……柚葉、無理しそうになったら、ちゃんと言って」
「言う。結衣にも、風華にも」
結衣の表情がほんの少しだけ揺れた。"風華にも"が刺さったのかもしれない。だけど結衣は、逃げずに頷いた。
「……うん。言って」
結衣が改札を抜けていく。私はその背中を見送った。胸の奥が温かい。寂しい。だけど、その寂しさは"奪われた空白"じゃない。"繋いだ余韻"だ。
私はホームへ向かう途中でスマホを取り出し、風華に短く送る。今日の報告と、明日の段取り。自分の生活を、自分で回すための連絡だ。
『今日の件、結衣が止めてくれた。千景が対応。明日は教室で昼。放課後は状況見て生徒会室寄る』
既読はすぐについた。
『了解。柚葉、よくやった。明日も守る。無理なら言って』
風華の文面はいつも簡潔で、でも芯がある。私はその芯に寄りかかりすぎないようにしながら、必要な時はきちんと頼る。頼ることは負けじゃない。今の私はそう分かっている。
帰りの電車の中、窓に映る自分の顔を見た。泣き腫らしていた頃より、ずっと"人の顔"になっている。まだ不安はある。まだ怖い。でも、"怖いから一人で抱える"をやめられるようになってきた。
家に着くと、母がリビングから顔を出した。私の表情を一目見て、何も聞かずに頷く。
「今日は、ちゃんと立てた顔」
「うん。……結衣がね、隣にいてくれた」
母は小さく笑った。
「いい子だね。柚葉が人を信じるの、怖くなってもおかしくないのに」
私は頷いた。怖い。でも、怖いからこそ、慎重に信じていく。軽く信じない。相手の行動を見て、言葉を受け取って、少しずつ距離を詰める。私はもう、雑に扱われる距離には戻らない。
夜、ベッドに入ってから結衣に一言だけ送った。
『今日はありがとう。手、温かかった』
すぐに返信が来る。
『私も。柚葉の手、守りたくなる。明日も隣ね』
守りたくなる、という言葉に胸がきゅっとなる。守られるだけじゃなく、守り返したい。私はスマホを握りしめたまま、小さく決意した。
明日、もしまた何か言われたら、私は結衣の前に出る。結衣に守られるだけじゃなく、結衣を嫌な気分にさせないために、私が動く。私の問題は、私が引き受ける。誰かを巻き込むんじゃなく、一緒に立つ。
そして、これは復讐の続きでもある。謙也と紗羅が奪ったつもりの私の人生を、私は私の手で取り返している。泣いて縋る私はもういない。私の隣には結衣がいる。私の背中には風華たちがいる。そういう現実が、あいつらの想像を一番裏切る。
目を閉じる直前、胸の奥で小さく芽吹く感情を、私は否定しなかった。結衣と繋いだ手の温度が、心の深いところに残っている。
明日も、私は教室に行く。隣に結衣がいる場所へ。そして、堂々と笑える自分を増やしていく。
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