今の私は、奪われたままじゃない。
昼休みが終わってからの授業は、正直ほとんど頭に入らなかった。
風華の「話したい」が、ずっと胸の真ん中に引っかかっている。
話したい――それは叱責じゃない。
呼び出しでもない。
だけど私の心臓は、妙に落ち着かない。
放課後のチャイムが鳴って、教室の空気がほどける。
荷物をまとめながら、私は隣の結衣をちらりと見た。
「……私、このあと生徒会室寄ってくる」
結衣は一瞬だけ眉を下げた。寂しさが、ほんの少し。
でもすぐに、頷いてくれる。
「うん。行っておいで」
「……ありがとう。終わったら連絡する」
それだけ言って立ち上がると、結衣が私の袖を小さく引いた。
「柚葉」
「なに?」
「……無理しないで。もし、話が重かったら……私、駅で待ってる」
その言葉が、じわっと胸に染みた。
私は思わず微笑んでしまう。
「……結衣って、ほんとに優しい」
「それ、昨日も言った」
「言いたくなるから仕方ない」
結衣の頬が赤くなる。
私はその反応が可愛くて、危うく笑いそうになって――慌てて咳払いで誤魔化した。
「じゃ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
"いってらっしゃい"。
その言葉で背中が押される。
私は廊下に出て、生徒会室へ向かった。
※ ※ ※
生徒会室の扉の前に立つと、急に現実が重くなる。
ここは私の避難場所になった。
でも同時に、私の心を揺らす場所でもある。
ノックをする前に、深呼吸を一つ。
「……失礼します」
扉を開けた瞬間、いつもの顔ぶれが揃っていた。
浅葱が真っ先に振り返る。
「来た来た!柚葉ちゃん!どうだった?結衣ちゃん、教室支部の支部長になれそう?」
「支部長って何ですか!」
真白は机の上の資料を整えながら、淡々と頷く。
「教室支部の運用は合理的です。生徒会室に依存しすぎると導線が偏る。教室にも"安全圏"を作るべき」
「理屈の方向が正しいのが逆に悔しい……」
千景は私を見るなり、静かに視線を落とした。
「……今日は、顔が明るい」
「……自分でもそう思います」
口に出した途端、少しだけ恥ずかしくなった。
昨日までの私じゃない、って自分で認めるみたいで。
風華は、窓際で書類に目を通していた。
私が入ってきたのに気づくと、ペンを置いて立ち上がる。
「柚葉ちゃん、こっち」
"会長"の顔じゃない。
"風華"の目だ。
私は頷いて、風華の近くまで歩いた。
風華は少しだけ声を落とす。
「……話す前に確認。今日の教室、辛くなかった?」
「……少しは。でも、結衣がいてくれたから……大丈夫でした」
言った瞬間、浅葱が背後で「はい尊い」と小声で言うのが聞こえた。
千景が咳払いを一つ。
真白のペンが、カリ、と止まる。
風華は一拍だけ黙って、それから小さく頷いた。
「……そう。よかった」
その"よかった"が、昨日より少しだけ重い。
祝福でもあり、胸の奥の何かを抑え込む響き。
風華は机の横に私を座らせ、自分も向かいに腰を下ろした。
距離が、近い。
でも風華は、急がない。
「柚葉ちゃん。今日呼んだのはね……"結衣さん"のこと」
心臓が跳ねる。
「……結衣が、何か?」
「悪い話じゃない」
風華は静かに首を振り、言葉を選ぶ。
「あなたの回復に、結衣さんの存在が効いてる。それは事実。生徒会としてもありがたい」
「……はい」
「でも、あなたが"選べる状態"に戻ってきた今――周りの人が、無自覚にあなたを取り合うと、柚葉ちゃんが疲れる」
私は息を呑んだ。
それはもう、起き始めている。
浅葱の煽り。真白の合理。千景の静かな独占。風華の優しい囲い込み。
風華は私の目を見て、まっすぐ言う。
「だから、決めたい。"柚葉ちゃんが嫌なこと"を、みんなで共有しておく。あなたの境界線を、守るために」
境界線。
私は昨日、確かにその言葉で救われた。
「……嫌なこと……」
私は考える。
嫌なことはたくさんある。
でも、全部言ったら臆病に見える気がする。
それが怖い。
風華は、私の迷いを見抜いたように言った。
「怖いなら、一つずつでいい。柚葉ちゃんは、強いから黙って耐えちゃう。でもそれを、もう"美徳"にしない」
胸が熱くなる。
私は小さく頷いた。
「……じゃあ、一つ。勝手に"決められる"のが嫌です。私の気持ちを、私より先に決めないでほしい」
言った瞬間、生徒会室の空気が変わった。
真白が淡々と顔を上げる。
「……反省します」
即答。
反省が速すぎて逆に面白いのに、笑えない温度がある。
浅葱が手を挙げる。
「はい!私も反省!煽りすぎない!」
千景は静かに頷く。
「……柚葉さんが決める。分かった」
風華は、少しだけ目を細めた。
「ありがとう。――じゃあ次。柚葉ちゃんが"してもいいこと"も決めていい。例えば……結衣さんと、手を繋ぐのは?」
私は一瞬固まった。
ここでそれを聞くの、ずるい。
耳が熱くなる。
でも逃げたくない。
「……嫌じゃないです。
むしろ……安心します」
浅葱が机に突っ伏す。
「供給過多……!」
千景が小さく視線を逸らす。
「……安心、するんだ」
真白が淡々と書き込む。
「結衣:手繋ぎ=安心。記録」
「記録しないで!」
私は慌てて突っ込んだ。
でも、突っ込めるくらいには、今の私は余裕がある。
風華は一息ついて、少しだけ真面目な目に戻る。
「……最後に一つだけ。柚葉ちゃん。あなたが"誰かと仲良くする"のはいい。でも、あなたがまた"我慢で成り立つ関係"に戻るのは、私は嫌」
その言い方が、胸を締めつける。
風華の"嫌"は、私のための嫌だ。
私は小さく答えた。
「……うん。もう、我慢だけで生きない」
風華はその言葉を聞いて、ようやく安心したように微笑んだ。
「よかった。……じゃあ、次の相談。結衣さんを、ここに呼んでもいい?」
「え?」
私は目を丸くした。
浅葱が即座に立ち上がる。
「外部メンバー正式加入!?!?来る!?結衣ちゃん来る!?」
千景が小さく言う。
「……会って話すのは、いい」
真白も淡々と頷く。
「生徒会室が安全圏なら、結衣を招くのは合理的」
私は慌てて手を振った。
「ま、待ってください!結衣、びっくりします!」
風華は落ち着いた声で言った。
「びっくりさせない。"柚葉ちゃんの味方が増えている"ことを共有したいだけ」
味方。
それは、私が一番欲しかったもの。
私は少しだけ考えて――スマホを取り出した。
『今、生徒会室にいるんだけど、もし時間あったら少し来れる?無理なら全然大丈夫』
送信。既読。
すぐ返信が来た。
『行く。すぐ行く』
速い。
迷ってない。
私は胸が熱くなった。
「……来ます」
浅葱が両手を合わせて祈る。
「神回の予感」
「浅葱、静かに」
風華が釘を刺す。
でも、浅葱の口元はずっとニヤニヤしている。
※ ※ ※
数分後。ノックの音。
「……失礼します」
扉を開いて入ってきたのは、結衣だった。
教室にいる時より少しだけ緊張した顔。
でも私を見つけると、すぐにほっとしたように目を細める。
「柚葉……」
「来てくれてありがとう」
結衣は頷いて、室内のメンバーに視線を向ける。
浅葱が一番に駆け寄って、両手を握りそうな勢いで言った。
「ようこそ!結衣ちゃん!私は浅葱結!柚葉ちゃんの推し活担当!」
「推し活担当……?」
結衣が困惑する。
私は慌てて割って入る。
「ごめん、結衣。浅葱は……こういう人」
「こういう人って何!」
真白が淡々と自己紹介する。
「真白。生徒会書記。柚葉の精神安定に寄与する人物を歓迎します」
「言い方が硬い……!」
千景も小さく頭を下げた。
「千景。風紀。柚葉さんの安全のために動いてる。……よろしく」
最後に風華が立ち上がり、静かに一礼した。
「春波風華。生徒会長。……結衣さん、柚葉ちゃんのそばにいてくれて、ありがとう」
"ありがとう"を会長が言うと、重みが違う。
結衣は一瞬戸惑ってから、真面目に頭を下げた。
「……いえ。私、ただ……柚葉の隣にいただけで」
その言い方が、結衣らしい。
自分を大きく見せない。
でも、その"隣"がどれだけ私を救っているか、私は知っている。
風華が穏やかに言った。
「その"隣"が、一番強いこともあるの」
結衣が私を見る。
私も結衣を見る。
浅葱が堪えきれず口を挟む。
「はいはい、空気が甘い〜!でもさ、結衣ちゃん。ひとつだけ確認!柚葉ちゃんのこと、好き?」
「浅葱先輩!!」
私は叫んだ。
結衣は顔を真っ赤にする。
「そ、そういうの……!」
真白が淡々と補足する。
「質問の角度が雑です。"柚葉が安心できる関係か"の確認が必要」
「角度を整えたら聞いていいみたいに言わないで!」
千景が静かに言った。
「……結衣さん。柚葉さんが嫌がること、しない。約束できる?」
結衣はすぐに頷いた。
「……できます。私、柚葉が嫌がる顔、見たくない」
その答えが、まっすぐで。
私は胸の奥がじんとした。
風華が私を見る。
「柚葉ちゃん。これで安心?」
私は頷く。
でも、まだ言いたいことがある。
私は結衣の方へ半歩近づいて、正直に言った。
「……結衣。私は結衣といると、安心する。それは本当」
結衣の目が揺れる。
嬉しさと照れと、少しの怖さ。
「……私も。柚葉が笑うと、安心する」
浅葱が、両手で机を叩いて小声で叫ぶ。
「尊い尊い尊い……!」
真白が淡々と結論を出す。
「良好。生徒会室は"安全圏"。結衣の加入はプラス」
「加入って言い方やめて……!」
でも、私は思った。
加入でもいい。支部でもいい。推し本部でもいい。
大事なのは、私がここにいて苦しくないこと。
風華が、少しだけ柔らかい声で言った。
「結衣さん。これからも柚葉ちゃんの隣で、支えてほしい。そして……もし柚葉ちゃんが迷ったら、一緒に迷ってあげて」
結衣は一拍置いて、力強く頷いた。
「……はい。柚葉の味方でいます」
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
私は一人じゃない。
教室でも、生徒会室でも。
私は、味方を持っている。
そして私は――それを受け取れる。
※ ※ ※
生徒会室を出る時、結衣が小さく私の袖を引いた。
「柚葉」
「なに?」
「……さっき、みんなの前で言ったこと。安心するって……」
結衣は言いにくそうに視線を落とす。
「……嬉しかった。私、柚葉の"特別"になれた気がした」
特別。
その言葉で、私は息を呑む。
私は少しだけ勇気を出して、結衣の指先に触れた。
「……なれてるよ。もう」
結衣の頬が一気に赤くなる。
「……ばか」
「ばかって言う方がばか」
「……柚葉が言うから、ばかって言いたくなる」
その言い方が、ずるい。
私は笑ってしまって、結衣もつられて笑った。
背後から浅葱の声が飛ぶ。
「はいはい!教室支部の活動報告、完璧!次は"帰り道支部"も作ろ!」
「作らないでください!!」
風華の声が、落ち着いたトーンで重なる。
「……柚葉ちゃん。今日は、ちゃんと休んで。明日もあるから」
私は振り返って頷いた。
「うん。ありがとう、風華」
呼び捨てが、もう自然に出る。
風華の耳が少し赤くなるのも、もう見慣れてきた。
結衣がその横で、小さく言った。
「……呼び方、すごいね」
私は笑って、正直に言う。
「……大切な人が増えると、呼び方も増えるみたい」
結衣は少しだけ唇を噛んで、それから、控えめに言った。
「……じゃあ、私も。柚葉にとって、大切な人でいたい」
私は答える代わりに、結衣の手をそっと握った。
今度はホームじゃない。
帰り道の途中。
でも、堂々と。
結衣がぎゅっと握り返してくる。
私は思う。
彼氏を寝取られた私だけど。
今の私は、奪われたままじゃない。
"好き"と"安心"を、ちゃんと自分の手で増やしている。
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