彼氏を寝盗られた私だけど
翌日。
教室に入った瞬間、私は一番に"隣の席"を見た。
昨日の約束。今日、一緒にお昼。
隣の席の子――名前を呼ぶのが、まだ少しだけ照れくさい。
私は今まで、友達の名前を呼ぶのにこんなに神経を使ったことがない。
「……おはよう」
声をかけると、その子は少し驚いた顔をして、それからすぐに笑った。
「おはよう、柚葉」
名字じゃない。
"柚葉"って呼ばれた。
胸がきゅっとなる。
呼び方って、こんなに心臓を揺らすものだったんだ。
「……昨日、ありがとね。待ってくれて」
「ううん。私も……ちょっと、心配だったし」
心配。
その言葉が、優しい。
でも"哀れみ"じゃない。ちゃんと"隣の人"の言葉だ。
私は机に鞄を置きながら、そっと聞いた。
「……ねえ、呼び方。私は、あなたのこと……どう呼べばいい?」
その子は一瞬固まって、頬がほんのり赤くなる。
「え……えっと……好きに呼んでいいよ。でも……名前で呼ばれるの、ちょっと……嬉しい」
嬉しい。
私も嬉しい。
同じ温度がそこにある。
「……じゃあ、"結衣"って呼んでもいい?」
「……うん。柚葉に呼ばれるなら」
その返事だけで、胸の奥の硬いものが少し崩れた。
※ ※ ※
昼休み。
私は約束通り、教室で弁当箱を開けた。
この机、この椅子、この空気。
まだ完全に平気じゃないけれど、"逃げない"と決めた場所。
結衣も弁当を広げて、ちらりと私を見る。
「……ねえ、柚葉」
「なに?」
「昨日のこと、ちょっとだけ聞いてもいい?無理なら、無理でいい」
――無理なら無理でいい。
その言い方が、私の心に優しい余白を作る。
私は一度箸を置いて、息を整えた。
「……うん。少しなら」
結衣は、嬉しそうに頷くんじゃなくて、ただ真剣に頷いた。
"面白がらない"頷き。
「私、ずっと思ってた。柚葉が急に元気なくなって、でも理由を言わないで……周りが勝手に噂してるの、すごく嫌だった」
私は目を伏せる。
嫌だったのは私も同じ。
でも、嫌だって言う勇気がなかった。
「……何も言えなかった。言ったらもっと壊れる気がして」
「うん……分かる」
分かる、の一言で、喉が熱くなる。
私は少し笑って誤魔化した。
「……私、弱いよね」
すると結衣が、すぐに首を横に振った。
「違う。弱くない。柚葉って、強いよ。強いから黙って耐えちゃう。……でも、それって、ひとりで戦ってるってことじゃん」
胸がきゅっと痛くなる。
当てられた。
私は声を落とした。
「……ひとりで戦うの、もうやだ」
「じゃあ――」
結衣は、お箸を置いた。
そして、机の下で、そっと私の手の甲に触れた。
びく、と私は反射的に身体が揺れた。
触れられること自体が怖いわけじゃない。
でも、触れられることに"意味"があると分かってしまうのが、怖い。
「ごめん、嫌だった?」
すぐに離そうとする。
その"引く速さ"が、また優しい。
私は慌てて首を振った。
「嫌じゃない。……びっくりしただけ」
「……よかった」
結衣は、今度は"触れたままにしていい?"とでも言うように、指先だけで私の手を確かめる。
私は逃げなかった。
逃げなかった自分に驚く。
その時、教室の入り口がまた少しざわついた。
浅葱が顔を出したのだ。
「柚葉ちゃーん……って、おっ?」
浅葱の視線が、机の下――私たちの手に吸い寄せられる。
にやり、と口角が上がった。
「え、なに。教室で百合してる?」
「してません!!」
私は即答した。顔が熱い。
結衣も慌てて手を引っ込める。
浅葱は楽しそうに笑う。
「いいじゃんいいじゃん。健全な推し供給。会長〜!柚葉ちゃん、クラスでイチャついてる〜!」
「浅葱」
廊下の向こうから、風華の低い声が飛んだ。
浅葱が肩をすくめる。
「はいはい。冗談だよ。でもさ、柚葉ちゃん。教室で居場所作れてるの、めっちゃ良い。隣の子、いい子じゃん」
浅葱は結衣に向かってウインクした。
「柚葉ちゃんのこと、よろしくね〜」
「え、は、はい……」
結衣が小さく頭を下げる。
浅葱は満足そうに去っていった。
私たちは、少し気まずく沈黙した。
でも、その沈黙は嫌じゃない。
むしろ――同じ秘密を共有したみたいな、甘い沈黙。
結衣が、小さく笑った。
「……浅葱先輩、すごいね」
「……うん。すごい」
「でも、さっきの……」
結衣が言いかけて、止まる。
私は心臓が跳ねる。
「……さっきの、私、嫌じゃなかったよ」
私が言うと、結衣の目が少しだけ潤んだように見えた。
「……私も。嫌じゃない」
その一言で、机の上の世界が少し明るくなる。
私は気づいてしまう。
私、教室が怖かったんじゃない。
"独り"が怖かったんだ。
結衣は、私の弁当の中を見て言った。
「……卵焼き、綺麗。柚葉、料理得意?」
「得意じゃないよ。母が作った」
「そっか……じゃあ、今度、私が作ってくる。柚葉に食べてほしい」
その言い方が、まっすぐで、逃げ道がない。
でも嫌じゃない。むしろ、嬉しい。
「……楽しみにしてる」
私はそう言って、笑った。
結衣も笑った。
その瞬間、私の中で確信が生まれた。
私は、もう一人じゃない。
風華たちだけじゃない。
教室にも、私の味方がいる。
そして――その味方は、私を"特別"に扱ってくれる。
胸が、甘い。
※ ※ ※
放課後。
帰り支度をしていると、結衣が小さく声をかけてきた。
「柚葉、今日……一緒に帰れる?」
私は頷きかけて、ふと脳裏に"生徒会室"が浮かぶ。
風華たちが待っている場所。
でも、今は――教室の結衣も、私の大事な場所になり始めている。
私は一瞬迷って、それから正直に言った。
「……ごめん。今日は生徒会に寄る約束があって。でも、駅までなら一緒に行ける」
結衣は少しだけ寂しそうに笑った。
「うん。駅まででいい」
その"いい"が、健気で、胸が締めつけられる。
私たちは並んで教室を出た。
廊下で待っていた浅葱が目を輝かせる。
「おっ、隣の子と帰るの?尊い〜!」
その奥で、風華が私を見ていた。
目が、少しだけ鋭い。
……嫉妬?
そんなはずない。会長だし。
でも、風華は確かに私を見て、何か言いたげに口を開いた。
「柚葉ちゃん。……今日は、生徒会は短めでいい。無理に来なくていい」
無理に来なくていい。
なのに、声が少しだけ低い。
心の奥が、ざわつく。
私は結衣の手を見て、風華を見て――小さく息を吸った。
……これが、ハーレムの始まりなのかもしれない。
でも、私は決めた。
奪われるのはもう嫌だ。
だから私は、奪われない形で、選ぶ。
「……駅まで一緒に行って、帰りに生徒会室寄ります。風華、待ってて」
呼んでしまった。
"風華"。
風華の耳が赤くなって、浅葱が「うわ〜!」と騒ぐ。
結衣が驚いた顔で私を見る。
私はその視線に、逃げずに言った。
「……ごめん。私、大切な人が増えてきてて」
結衣が、少しだけ笑った。
「うん。……柚葉が幸せなら、いい」
その言葉が、胸に刺さった。
優しすぎる。
だからこそ、私はこの子も大切にしたい。
駅へ向かう道。
私は結衣と歩きながら、心の中でそっと呟いた。
――彼氏を寝取られた私だけど。
周りの女の子たちが、私を好きすぎて。
私の世界を、勝手に明るくしてくる。
……そして私は、その明るさを拒まない。




