第5話 社会との再接続
一時間後。
家電量販店へ走ってくれた咲夜さんが、大きな紙袋を抱えて戻ってきた。
「買ってきたよー。店員さんに聞いて、一番よさそうなルーターと、屋外用のLANケーブルにしてきた」
「感謝しましゅ。では、早速工事に取り掛かりましょう」
俺は箱を受け取り、中身を取り出した。
「親御さん、怒らないかな? 勝手に工事とかして」
咲夜さんが、少し心配そうに聞いてくるが、俺は首を振った。
「美結……母さんは、細かいことは気にしないタイプでしゅ。『ネットを接続できるようにした』と言えば、『すごーい!』で終わるはずでちゅ」
「そ、そうなんだ……おおらかだね」
「ええ。ある意味、最強の母親でしゅ」
俺は苦笑しつつ、まずはケーブルの引き込み作業を指示する。
咲夜さんが一度自室に戻り、ベランダ伝いにケーブルを這わせ、こちらの部屋のエアコンダクトの隙間から、グレーのケーブルを通してもらう。
「師匠ぉー、届いてるー?」
「はい、バッチリでしゅ!」
壁から顔を出したLANケーブル。これを、買ってきたばかりのルーターの背面ポートにカチリと接続する。
電源を入れ、タブレットを起動。
ここからは、俺の指先一つにかかっている。
俺はブラウザのアドレスバーに『192.168…』と、管理画面のIPアドレスを打ち込む。
パチパチパチパチッ!
小さな手が、目にも止まらぬ速さでフリック入力を繰り返す。
「うわぁ……」
窓の外から戻ってきた咲夜さんが、ドン引きしている声が聞こえた。無理もない。言葉もおぼつかない幼児が、眉間にシワを寄せてネットワーク設定を弄っているのだ。絵面としては、シュールを通り越してホラーだろう。
「DHCP取得確認、ゲートウェイよし。ルーターのスイッチを『BRIDGE』モードに切り替えて……再起動」
ルーターのランプが点滅し、やがて緑色の点灯に変わった。
タブレットのWi―Fiアイコンが、扇形に塗りつぶされる。
「……接続、完了」
俺はブラウザを開き、検索サイトにアクセスした。一瞬の読み込みの後、見慣れた検索窓が表示される。
「つながった……!」
思わず、声が震えた。
二年ぶりだ。情報の遮断された孤島から、ようやく世界へと帰ってきたのだ。
ニュースが見られる。天気がわかる。社会がどう動いているのかを、知ることができる。
「よかったねぇ、師匠」
咲夜さんが、生温かい目で見守ってくれていた。
「はい……本当に、ありがとうございましゅ!」
俺は、命綱であるタブレットを抱きしめた。
「……咲夜さん。早速、調べ物をしてもいいでしゅか?」
「ん? いいよ。あー、じゃあ私はその間……」
咲夜さんは部屋を見渡した。
美結が放置したままのコンビニ弁当の殻、床に散乱したダイレクトメール、乱雑に積まれた洗濯物。
彼女はため息を一つつくと、腕まくりをした。
「ちょっと片付けるね。この部屋、さすがに見てられないから」
「えっ、いえ! そんなことさせられまちぇん!」
俺は慌てて止めた。
労働力を提供するのは俺の方だ。通信費の代わりに働くと大見得を切ったばかりなのに、逆に世話を焼かれるなんて筋が通らない。
「いいからいいから。私が気になって落ち着かないだけだし」
咲夜さんは手際よくゴミ袋を広げ、散乱したゴミを回収し始めた。
俺は唇を噛んだ。
座って見ているわけにはいかない。俺はタブレットを置き、よちよち歩きで床を移動する。
散らばった封筒を拾い集め、乱れた雑誌の山を、短い腕で一生懸命に揃える。
「あー、師匠は座ってていいよ? 危ないし」
「い、いえ、これくらいなら……」
言いかけたところで、俺は転がり落ちていた空き缶を拾おうとして、バランスを崩して尻餅をついた。
痛みはほとんどないが、情けなさがこみ上げる。
シンクには届かない。重いゴミ袋も持てない。俺にできるのは、床の上の小物をちまちまと動かすことだけだ。
「……すみまちぇん。お言葉に甘えましゅ」
「うん、ごゆっくり」
俺は自分の無力さと感謝を噛み締めながら、タブレットに向き直った。
震える指で、検索窓に文字を打ち込む。
前世の名前。事故の日付。場所。
『トラック横転事故 会社員男性死亡』
エンターキーを押す指が、鉛のように重かった。
画面が切り替わり、地方ニュースのアーカイブが表示される。
日付は、俺がこの世界で目覚める十ヶ月ほど前。
「……やっぱり、死んでるな」
文字で見ると、現実が鋭利な刃物となって突き刺さる。
記事は淡々とした事実の羅列だ。
加害者の運転手は過労運転で逮捕。助けた少女は軽傷。
そして被害者――綾瀬恭介は、全身を強く打ち、即死。
――即死。
その二文字が、俺の三十年の人生の結末だった。
痛みを感じる暇もなかったのだろうか。家族に「行ってきます」と言ったのが、最後の言葉になってしまったのか。
あの子が助かったなら、俺が飛び出した意味もあった。そう自分に言い聞かせるが、胸の奥が冷たく軋む。
次に、家族のことを調べようとした。妻の華、長女の柚希、次女の麻友。
SNSやブログを検索してみるが、めぼしい情報は出てこない。華はネットに疎く、プライバシーには厳格だった。娘たちもまだ幼い。
当然だ。一般人の、それも事故遺族の情報がネットに転がっているはずがない。
それは彼女たちが、静かに、平穏に暮らしている証拠でもあるはずだ。
「……すまない」
最後に、地図アプリを開いた。
ストリートビューで、かつての我が家を表示させる。
画面の中には、見慣れた一戸建てがあった。
俺が日曜大工で塗ったフェンス。庭には、華と一緒に植えたハナミズキの木が映っている。以前より少し背が伸びた気がした。
駐車場には、俺の愛車はなく、代わりに子供用の自転車が二台並んでいる。
ああ、生活しているんだな。
俺がいなくても、時間は進んでいる。
画面を撫でる。指先から伝わるのは、冷硬なガラスの感触だけだ。
今すぐにここへ行って、ドアを開けたい。「パパだよ」と抱きしめたい。
だが――
「……終わった?」
不意に声をかけられ、俺はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、片付けを終えた咲夜さんが立っていた。部屋は見違えるほど綺麗になっている。
彼女は二つのマグカップを持っていた。一つからは湯気が立ち上り、もう一つはストローが挿さった幼児用のマグだ。
「……顔、すごいことになってるよ」
咲夜さんはマグを俺の前に置き、ソファではなく床に直接、俺と同じ目線になるように座り込んだ。
「自分の『死亡記事』……見た?」
「……ご名答でしゅ」
隠しても仕方ない。俺は小さく頷いた。
「そっか」
咲夜さんは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、少しだけ視線を伏せ、静かに言った。
「……ご愁傷様です」
生きている本人に向かって言う言葉ではない。
不謹慎極まりない。
だが、その少しズレた、ドライな慰めが、今の俺には何よりも救いだった。
腫れ物に触るような優しさよりも、事実を事実として受け止めてくれる距離感が心地いい。
「痛み入りましゅ」
俺はマグの麦茶を一口飲んだ。冷たい液体が、乾いた喉を潤していく。
「……会いに行かないの?」
咲夜さんが、ポツリとこぼした。
「住所、わかってるんでしょ?」
「……行けまちぇんよ」
俺は自嘲気味に笑い、自分の小さな掌を広げて見せた。
「今の私は、ただの一歳の幼児でしゅ。こんな私が突然現れて、『パパの生まれ変わりだ』なんて言っても、混乱させるだけでちゅ」
「まあ、確かに……」
「それに……」
俺はタブレットの画面――ハナミズキの映る庭――に視線を落とす。
「解決になりまちぇん。今の私が行っても、彼女たちの重荷になるだけです。父親として守ることも、稼ぐこともできないのに、平穏をかき乱すようなことはしたくないんでしゅ」
俺はもう一度、画面の中の我が家を目に焼き付け、そっとブラウザのタブを閉じた。 諦めたわけじゃない。
ただ、今の自分があまりにも無力すぎて、合わせる顔がないだけだ。
「だから……今は、まだ行きまちぇん」
いつか、胸を張れるようになったら。
自分自身の力で立ち、誰かを守れる力を手に入れたら。
その時こそ、会いに行こう。
「……そっか。強いね、師匠は」
咲夜さんは、ガシガシと乱暴に俺の頭を撫でた。
子供扱いではない。同志を労うような手つきだった。
「ま、成仏できなかったってことは、まだ現世でやることがあるってことでしょ。まずは力をつけなきゃね。腹も減るし、金もかかるし」
「……そうでしゅね」
俺は顔を上げる。
感傷に浸っている場合じゃない。
俺には、南雲アリサとしての人生がある。そして、いつかその日が来た時のために、この「体」で生き抜き、力をつけなければならない。
「感傷は捨てましゅ。今の私は南雲アリサ、ただの幼児なんでしゅから」
俺は、もう一度タブレットの画面を見た。
そこには、太く安定した通信を示すアイコンが表示されている。
最強の命綱と、頼れる協力者(咲夜)を得た。
俺のサバイバル生活は、ここからが本番だ。
「咲夜さん、とりあえずこの部屋の掃除のお礼に、次のネーム(下書き)を見せてくだちゃい。徹底的にしごいてあげましゅ」
「お手柔らかにお願いします、師匠」
咲夜さんがニッと笑い、俺もつられて口端を上げた。
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