第38話 凍り付いた心を溶かすひだまり
クリスマスが過ぎ、年末の足音が聞こえる午後。
俺の部屋は、暖房が効いているはずなのに、凍りつくような緊張感に支配されていた。
「……違う。これじゃない」
こたつに半分埋まった一ノ瀬詩が、五線譜をくしゃくしゃに丸め、床に叩きつける。
周囲にはすでに、無数の紙屑が散乱していた。
冬休みに入ってから、すでに数日が経過している。
ウタは親に「友だちの家で勉強合宿をする」という名目で許可を取り、家に帰らず、俺の部屋に泊まり込みで作業を続けていた。
だが、状況は絶望的だ。
本来の締切は、すでにオーバーしている。
それなのに、まだ一コーラスすら完成していない。
部屋の隅には万年床が敷かれっぱなし。
テーブルの上には、カフェイン摂取のためのマグカップと、脳の燃料であるチョコレートの包み紙が山を築いていた。
俺が食事や着替えの世話をしているおかげで、辛うじて人間らしい生活は保てている。
だが、肝心の進捗は、この惨状が示す通り芳しくない。
いや、はっきり言えば――泥沼だ。
「『愛と感謝』……ルナに頼まれたテーマだけど、書けば書くほど嘘くさくなる。上っ面だけの言葉しか出てこない」
ウタが頭を抱えて呻く。
彼女は天才だ。
だが、その感性はこれまで「孤独」や「反骨心」を燃料に、衝動に任せて曲を作ってきた。
だからこそ、今の満たされた状況で曲を書こうとするのは、どうしても勝手が違うらしい。
「だから言ってるだろ、ウタ。難しく考えすぎなんだよ」
俺はコーヒーを淹れ直しながら、少し棘のある口調で言った。
「愛なんてのは、要するに脳内物質の分泌現象だ。オキシトシンとかドーパミンが作用して、他者への親愛や執着を生む。そのメカニズムを歌詞に落とし込めば――」
「……はぁ?」
ウタが顔を上げ、冷ややかなジト目で俺を睨んだ。
「あんた、バカなの? そんな無味乾燥な説明が、歌詞になるわけないでしょ。私が求めてるのは『情緒』なの。理屈じゃないのよ」
「だから、構造を理解すれば情緒も導き出せるって話だ。ターゲット層であるファンの承認欲求を満たすようなフレーズを、統計的に――」
「だ・か・ら! それが邪魔だって言ってるの!」
バン! とウタがこたつを叩いた。
「あんたの助言は理論的かもしれないけど、的外れなのよ! こっちはフィーリングを掴もうとしてるのに、横から構造だの作用だの言われたら、逆にわけわかんなくなるわ!」
「なっ……人が親切で言ってやってるのに、なんだよ、その言い草!」
俺の中で、何かがプツンと切れた。
後になって思うと、俺も余裕がなかったのだと思う。
普段なら、子供相手に腹を立てたりはしない。
だが、何もできない焦りが、そのまま苛立ちに変わっていた。
「お前が『何も思いつかない』って言うから、助言してるんじゃないか! 感情だけで突っ走るから、途中で迷子になるんだよ!」
「あんたの助言は頭でっかちで、心にこないのよ! そんなので音を作れるわけないじゃない!」
睨み合う視線と視線。
空気は最悪だった。
俺のロジックと、ウタのフィーリング。
普段は補い合えるはずの二つが、今は完全に噛み合わず、火花を散らしている。
――バンッ!!
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
冷たい風とともに、小さな台風が飛び込んでくる。
「うーちゃん! ありちー! 大変大変!」
日向陽菜だ。
スキーウェアのようなモコモコの服を着込み、目をキラキラさせている。
「ごめんなさい、ヒナ……今、取り込み中なの」
「……すまん、ヒナ。俺たち、今忙しいんだ」
俺は顔も向けず、そっけなくあしらった。
悪いとは思うが、今は子供の相手をしている余裕がない。
「雪だよ、雪! つもってるんだよ!」
だが、ヒナは俺たちの拒絶など意に介さず、カーテンをシャッと開け放った。
窓の外は、いつの間にか一面の銀世界に変わっていた。
しんしんと降り積もる雪が、殺伐とした部屋の空気を白く塗り替えていく。
「だから、遊びに行こ! 雪合戦しよう!」
「はぁ? 何言ってんのよ。私、今それどころじゃ――」
「いいから行くの! 二人とも、顔が梅干しになってるよ! そんな顔じゃ、いい音なんて出せないよ!」
ヒナは問答無用でウタの腕を掴み、こたつから引きずり出した。
「ちょ、離して! 寒いのは嫌っ!」
「ありちーも! 隊長命令!」
「お、俺もかよ!」
抵抗も虚しく、俺たち二人は思考の沼から、物理的に引きずり出された。
◇
近所の公園は、足跡ひとつない真っ白な雪原と化していた。
「いくよー! 雪玉ボンバー!」
公園に着くや否や、ヒナが手際よく雪を固め、豪速球を投げてくる。
ドスッ!
ウタの背中に直撃し、雪が派手に砕け散った。
「つめっ……! やりやがったわね、この野生児!」
ウタのスイッチが入った。
彼女は上品なコートを脱ぎ捨て、素手で雪を鷲掴みにする。
「倍返しよ! 食らいなさい!」
「わー! うーちゃんノーコン!」
きゃあきゃあと声を上げながら、雪を投げ合う二人。
俺はベンチの陰に身を潜めつつ、冷静に戦況を分析していた。
(……フッ。甘いな)
雪合戦とは、すなわち弾道計算と遮蔽物の奪い合いだ。
俺は雪玉を量産し、足元にピラミッド状に積み上げる。
そして――無防備にはしゃいでいるヒナの背後を取り、偏差射撃。
バシュッ!
見事、ヒナの後頭部に命中した。
「あーっ! ありちー、隠れててズルい!」
「戦術と言え! 勝負の世界に卑怯も何もあるか!」
「むきーっ! うーちゃん、同盟! ありちーを倒すよ!」
「……乗ったわ。あの減らず口、雪で埋めてやる!」
さっきまで言い争っていた二人が、打倒俺を掲げて結託する。
四方八方から飛んでくる雪つぶて。
俺も応戦するが、多勢に無勢だ。
「くそっ、弾幕が厚い!」
「それー! 集中砲火ー!」
「覚悟しなさい、この頭でっかち!」
顔面に冷たい雪が直撃する。
冷たい。痛い。
でも――楽しい。
気付けば俺は、曲の悩みも、ライブのプレッシャーも忘れて、本物の子供みたいに笑いながら雪まみれになっていた。
◇
一時間後――
「……もう、無理……!」
ウタが声を上げ、糸が切れたように後ろへ倒れ込んだ。
ドサッ、という鈍い音と共に、雪の上に大の字になる。
「私もー!」
「……休憩だ、休憩!」
続いてヒナが、そして俺も、雪原へと身を投げ出した。
背中から冷たさが伝わってくるが、火照った体にはそれが心地いい。
視界いっぱいに、鉛色の空が広がっている。
俺たちの口から漏れる白い息が、空へと昇っては消えていく。
「……はぁ、はぁ……」
静寂の中、荒い呼吸音だけが響く。
しばらくして、ウタが空を見上げたまま、ポツリと呟いた。
「……私たち、バカみたい」
その言葉に、俺は思わず吹き出した。
「……違いない。締め切り前の作曲家と、人気VTuberが、泥だらけになって雪合戦だもんな」
「あはは! バカだー! 最高にバカだー!」
ヒナが手足をバタつかせ、雪の上に天使の跡を作る。
その無邪気な声につられて、ウタも、そして俺も、声を上げて笑った。
「「「あはははは!」」」
理屈も、見栄も、プレッシャーも。
全部、白い雪に溶けていくようだった。
「……ふぅ」
ひとしきり笑って、俺たちは体を起こした。
なんだか、憑き物が落ちたように体が軽い。
「へっくしゅ!!」
その時、ヒナが盛大なくしゃみをした。
見ると、服はびしょ濡れで、唇が少し青ざめて震えている。
一番はしゃいで、頭から雪に突っ込んでいたのは彼女だ。
「……いかん、体が冷えたな」
俺はヒナの額に手を当てる。
ひんやりと冷たい。このままでは確実に風邪をひく。
ふと、近くにある施設が脳裏に浮かんだ。
「……もし、二人が構わなければなんだが」
◇
やってきたのは、家の近くにある昔ながらの銭湯『松の湯』だった。
煙突からは白い煙が立ち上り、入口には「ゆ」の暖簾が揺れている。
「ここが……お風呂なの?」
ウタが目を丸くする。
お嬢様育ちの彼女にとって、公衆浴場は未知の世界らしい。
「なんか楽しそー!」
ヒナも、銭湯に来るのは初めてのようだ。
それよりも、だ。
「……で、二人とも。本当にいいのか? その……俺と一緒で」
俺は暖簾の前で足を止めた。
いくら見た目が子供でも、前世がおじさんだと知っている相手と風呂に入るのは、精神的に抵抗があるはずだ。
「くどいわね。私は気にしないって言ってるでしょ?」
ウタが呆れたように言う。
「それとも、あなたは私みたいな子供を、よこしまな目で見るのかしら?」
「バカな。そんなわけないだろ」
俺は即座に否定した。
「美結のやつが、ここの風呂が大好きでな。転生直後から無理やり連れ回されてるうちに、羞恥心なんてものはとっくに無くなっちまった」
「あー……美結さんならやりそうね」
ウタが妙に納得した顔をする。
「それに、俺には転生前、お前たちくらいの娘がいたんだ」
「えっ?」
「休みの日は、よく一緒に風呂に入ってたよ。『パパ、背中流してー』なんて言われてな」
ふと、懐かしい湯気の匂いが蘇る。
キャッキャと騒ぐ娘たちの声。石鹸の香り。
それは、俺の前世における、一番幸せな記憶のひとつだった。
「だから、お前らみたいな子供と入っても、別にどうとも思わん……ただの『保護者』気分だよ」
少し遠い目でそう言うと、ウタとヒナは顔を見合わせた。
「へー……ありちー、パパさんだったんだ」
ヒナが感心したように言う。
ウタも、ふっと表情を緩めた。
「……ふーん。パパ、ね」
彼女は小さく笑い、俺の背中を押す。
「じゃあ連れて行ってよ、パパ。私、こういうところ初めてで、勝手がわからないし」
「わーい! おっきいお風呂だー! 泳げるかな!」
「こらヒナ、プールじゃないから泳げないぞ? ……ったく、仕方ないな」
俺は観念して、二人と一緒に暖簾をくぐった。
◇
「わーい! いっちばーん!」
脱衣所を飛び出した瞬間、すっぽんぽんの野生児が加速した。
湿気で曇ったタイルの上をぺたぺたと駆け抜け、あろうことかそのまま湯船へダイブしようとする。
「待てェッ!」
俺は反射的に手を伸ばし、ヒナの首根っこをガシッと掴んで静止させた。
あと一歩で着水というところでの緊急停止。ヒナが空中で手足をばたつかせる。
「うーーっ! 離してよぉ! 早く入りたいよぅ!」
「バカ者! かけ湯もせずに湯船に入ろうとする奴があるか!」
俺は仁王立ちで説教した。声が浴室の高い天井に反響する。
「いいかヒナ。銭湯には作法がある。まずは身体を洗え。一日の汚れをきれいに落としてから湯に浸かるのが、公共浴場のマナーであり、粋ってもんだ」
「えぇー……体洗うのきらいぃ。めんどくさいー」
「めんどくさくない! ほら、あっちの椅子に座れ。俺が洗ってやる!」
俺は抵抗するヒナを引きずって洗い場へ連行すると、プラスチックの椅子に座らせた。
備え付けの黄色い桶にお湯を張り、ナイロンタオルにボディソープをつけて泡立てる。
「ほら、バンザイ」
「ぶー」
不満げに頬を膨らませながらも、ヒナは素直に両手を上げる。
俺は手慣れた手つきで、その小さな背中や脇腹をゴシゴシと洗い始めた。
泡だらけになりながら、「くすぐったい!」と身をよじるヒナ。
その様子を、隣の席におっかなびっくり座ったウタが、鏡越しに見ていた。
「……ふふっ」
「ん? どうしたウタ」
「ううん。……ほんと、お父さんみたいね」
ウタがくすくすと笑う。
「ほらヒナ、次は頭だ」
「やだ! シャンプーきらーい! 目が痛くなるもん!」
「大丈夫だ。俺のテクニックを信じろ」
俺はヒナの頭をわしわしと洗い、シャワーではなく桶のお湯をたっぷりと汲んだ。
「ほら、流すぞ。ちゃんと目つむってろ。……せーのっ」
ザバァーッ! 勢いよく、かつ顔にかからない絶妙な角度でお湯をかける。
「――ぷはーっ!」
お湯の中から顔を出したヒナが、犬のように頭を振って水気を飛ばした。
目は痛くないらしい。さっぱりした顔でニカッと笑うその無邪気さに、俺は思わず苦笑した。
ふと横を見ると、ウタは手桶でお湯をすくって体を流しているだけだった。
「ウタは髪を洗わないのか?」
「傷みやすいから、家のシャンプー以外では洗わないことにしてるの」
ウタは備え付けの緑色の液体が入ったボトルを、少し警戒するように見つめた。
さすがはお嬢様。髪へのこだわりも一流らしい。
「あなたたちこそ、そんなよく分からないメーカーので平気なの?」
「んー? 気にしたことないがなぁ。洗えればなんでもいいだろ」
「信じられない……」
ウタが呆れたように溜息をつく。
「よし、ヒナ一丁上がり! しっかり温まってこい!」
「わーい! お風呂だー!」
ピカピカになったヒナが、今度こそ大手を振って湯船へと走っていった。
……浴室で走るのは危険だから後で注意しておこう。
カポーン。
高い天井に、桶の音が響く。
「はぁぁぁ……生き返るぅ……」
身体を清め、広い湯船に肩まで浸かると、凍えた体に熱がじわじわと染み渡っていく。
隣では、ヒナが泳ぎたくてうずうずしている。やめなさい。
ウタは「ふぅ……」と、心からリラックスした表情を浮かべていた。
湯気越しに見る二人の顔は赤らみ、とても無防備だ。
理屈も、見栄も、全部お湯に溶けていく。
「……ねえ、アリサ」
ウタが湯を掬いながら、ぽつりと呟く。
「私、なんか分かった気がする」
「何が?」
「『愛と感謝』……そんなに難しいことじゃなかったのかも」
彼女は、隣でばちゃばちゃするヒナと、それをたしなめる俺を見て、柔らかく笑った。
「こうして一緒にいて、笑って、『ああ、楽しい』って思う……
たぶん、それでいいのよね」
「……そうだな」
俺も静かに頷いた。
特別な言葉なんて、いらない。
ただ、同じ温度を共有すること。
それが、一番確かな答えなのかもしれない。
◇
風呂上がり。
脱衣所のベンチに腰を下ろし、俺たちは腰に手を当てていた。
手には、冷えた瓶入りのコーヒー牛乳。
「ぷはーっ! これこれ!」
ヒナが一気飲みして、白い髭を作る。
「……意外と美味しいわね、これ」
ウタも上品に、だが止まらない様子で飲んでいる。
「だろ? 風呂上がりのコーヒー牛乳は至高なんだ」
俺も最後の一滴まで飲み干し、瓶を置いた。
外に出ると、雪は止んでいた。
帰り道、ウタが口ずさんでいた新しいメロディは、とても優しくて、温かかった。




