第31話 月夜に響くスクリーム
夏休みに入ってすぐの、気怠い午後。
俺はPCのモニターを睨みつけ、腕組みをしていた。
画面に映っているのは、動画投稿サイトのマイページ。
チャンネル名は『ぽえ』。
投稿されている動画は数本しかない。サムネイルは真っ黒。映像もなし。ただ黒背景に音声波形だけが揺れている、愛想もクソもない動画群だ。
「……やっぱり、か」
俺はヘッドホンを外し、ふぅと息を吐いた。
きっかけは、あかりに教えられた『Rainy』という曲だった。
気になって過去の投稿動画も漁ってみたのだが――そこに散りばめられたピアノのフレーズに、聞き覚えがありすぎたのだ。
サビの終わりの、独特な装飾音。
感情が高ぶると走りがちになるリズム。
それは、旧校舎の秘密基地で過ごしていた時間に、ウタが響かせていた音と重なっていた。
『ぽえ』の正体は、間違いなく彼女だ。
「……ため込むほうだと思ってたけど、ここまでとは」
俺は天井を仰いだ。
だが、俺はそれを本人に突きつけるつもりはなかった。
誰にだって、墓場まで持っていきたい秘密の一つや二つはある。俺も中身がおっさんであることを隠して美少女Vをやっているのだ。
他人の秘密を暴く権利なんて無い。
俺はそっとブラウザを閉じようとした。
その時、通知欄に『新着動画』の文字が浮かんだ。
タイトルは『Screaming』。
投稿時間は、ついさっきだ。
◇
その数時間後。
インターホンが鳴り、いつもの小学生コンビがやってきた。
夏休みに入ってからというもの、ウタとヒナは週に数回のペースで俺の部屋に遊びに来ていた。
学校が閉鎖されているため、旧校舎の秘密基地は使えない。
まあ、仮に入り込めたとしても、エアコンの無い部屋でだべる気にはならないが。
俺にも配信業のスケジュールがあるため、毎日は勘弁してもらっているが、それでも二、三日に一度はこうして集まっていた。
「ねーねー、ありちー! アイス食べていい?」
「一日一本だぞ。冷蔵庫に入ってる」
「はーい!」
ヒナがパタパタとキッチンへ走る。
ウタはソファに座り、珍しくゲームもせずにぼんやりとスマホを眺めていた。
その表情はどこか暗く、目の下には薄くクマができている。
「……ウタ、疲れてるのか?」
「……別に。コンクールが近いから、練習詰めなだけ」
ウタは素っ気なく答えると、スマホをポケットにねじ込んだ。
その様子に、俺はさっきの新曲を思い出す。
あの曲は、今までの曲以上に荒削りで、鍵盤を叩き壊すようなメロディーだった。
何があったかは知らないが、相当ストレスが溜まっているらしい。
その時。
玄関のドアが、無遠慮にガチャリと開いた。
「……うーっす。お邪魔しますぅ……」
亡霊のような足取りで入ってきたのは、月見里あかりだ。
手には真昼間から、いつものストロング缶。
そして、彼女の顔色は死人のように青白かった。
「……あかり? 大丈夫か、顔色悪いぞ」
「……ダメ。もう無理。限界」
あかりはソファの端――ウタの隣にドサリと崩れ落ちた。
突然の見知らぬ来訪者に、ウタが警戒して身を引く。
「……何、この人」
「ごめんねぇ、お嬢ちゃんたち。お姉さん、今ちょっと死にかけてて……」
あかりは長い睫毛を伏せ、力なく呟いた。
そして、虚ろな目で俺を見ると、堰を切ったように話し始めた。
「……もうダメ。限界。私、V辞めようかな」
「は? おい、ちょっと待て」
俺は慌てて制止しようとした。
ここには部外者――ウタとヒナがいる。
「中の人」の生々しい悩みなんて聞かせるわけにはいかない。
だが、今のあかりには、周囲を気にする余裕すら残っていなかった。
「配信の練習、してたんだけどね……スイッチが入らなくなったの」
「スイッチ?」
「『ごきげんよう、地球の皆様――』って言おうとした瞬間……吐き気がした」
「おい、ストップ! その話はあとで――」
「運営さんは悪くない……問題なのは、私」
あかりは俺の制止など聞こえていないかのように、自分の胸を強く握りしめた。
「無理して清楚に振る舞ってると……だんだん、自分が偽物だって分かってくるの」
あかりは、胸元を押さえたまま言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「ちゃんとやろうとするたびに、違和感が増えてくの……メッキが、少しずつ剥がれていく感じ」
「……あかり」
「ルナは『銀河の果てから来た深窓の令嬢』でしょ? 清廉潔白で、夢を与えてくれる存在……なのに、中身の私が汚れてるせいで、全部が『嘘』に聞こえてしまう」
声は低く、掠れていた。
「演じてるつもりでも、気づいたら逆なの。私の方が、ルナちゃんを削ってる。薄汚い中身が、大好きなルナちゃんを侵食していく感じで……」
あかりは、耐えきれないように頭を抱えた。
「……このまま続けたら、ルナちゃんがただの『綺麗なハリボテ』になっちゃう気がして」
か細い声で、ぽつりと零す。
「だから、ぼろがこれ以上出る前に辞めた方がいいのかなって……」
重い沈黙が落ちる。
ウタは、冷え切った視線であかりを見ていた。
その横で、ヒナが落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
何が起きているのか分からないまま、ただ空気の重さに怯えている顔だった。
あかりは震える手でスマホを取り出した。
「……さっき、通知が来てさ。上がってたこの曲、聴いたんだ」
自嘲気味に笑い、画面をタップする。
流れてきたのは――さっき俺も聴いたばかりの曲だった。
「迷って立ち止まってた背中をさ……後ろから、容赦なく蹴り倒された感じ」
激しい不協和音。
鍵盤を拳で叩きつけたような、暴力的な低音。
そして、泣き叫ぶような高音のメロディ。
「……ッ!?」
隣にいたウタが、弾かれたように顔を上げた。
その顔が、みるみるうちに蒼白になり、そして朱に染まっていく。
「……『ぽえ』の新曲」
あかりは、縋るような目でスマホを見つめた。
「すごいよね……これ、ただの曲じゃない。誰にも言えない本音を、血を吐くように叫んでる」
「……消して」
ウタが小さな声で言った。
だが、あかりの耳には届かない。彼女は熱っぽい目で画面を見つめている。
「聴いてよ、この音……這いつくばって、誰かの足に縋り付いてるみたい。惨めで、浅ましくて、どうしようもなくエロい……」
「……は?」
ウタの声が凍り付く。
「何言ってんの、あんた……頭おかしいんじゃないの?」
「おかしいかもねぇ……でも、感じるでしょ? この粘り気」
「感じない! 気持ち悪いこと言わないで!」
ウタは思わず腕を抱え込み、悲鳴に近い声を上げた。
「消して! 消してって言ってるの!」
「消さない」
あかりは恍惚とした表情で、自分の胸元を掻きむしった。
「ほら、この高音。泣き叫んでるだけじゃない。これは『誘ってる』のよ。綺麗事なんてどうでもいい、私の中身を見てくれって。服を脱いで、裸を晒して……滅茶苦茶にしてくれって懇願してるの」
「……っ、ふざけないでよ!!」
ウタが叫んだ。
バン! とテーブルを叩き立ち上がる。
「何が裸よ! 何がエロよ! 人の慟哭を勝手な妄想で汚さないで!」
普段の冷徹な彼女からは想像もできない、激しい拒絶だった。
ウタの顔は真っ赤で、涙さえ滲んでいるように見える。それは単なる恥じらいではない。自分の聖域を土足で踏み荒らされたことへの、生理的な嫌悪感だ。
「それは……それはゴミなの! 自分の中に溜まったドロドロした憎しみとかイライラを吐き出して捨てただけの、汚物なの!」
ウタは必死にまくし立てる。
「誰かに発情してるわけじゃない、世の中全部を呪ってる音なの! それを……そんな浅ましい『色目』と一緒にして曲を汚さないでよ!!」
「汚す?」
あかりがゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、酔いと狂気でギラギラと光っている。
「汚してなんかない……あんた何も分かっちゃいない。ガキんちょがピーピー喚くんじゃないわよ」
「分かってないのはそっちよ! それはただのノイズ! ストレス発散! あんたみたいなだらしない女が、欲求不満の道具にしていい曲じゃないの!」
「だらしない女には聞こえるんだよ。この『渇き』が」
あかりがスマホをウタの顔の前に突きつける。
「イケメンを傅かせて愛撫されてるときより、よっぽど濡れるわ、この曲」
「――ッ! 下品! 最低! 気持ち悪い!」
「気持ちいいの間違いでしょ? 本当はあんたも、こういうドロドロした感情に溺れたいんでしょ?」
「一緒にするな!」
ウタが怒鳴り返す。
小学生とは思えない剣幕に、ヒナが俺の服の裾をギュッと握りしめた。
「ありちー、とめてぇ……うーちゃん、こわいよぉ……」
ヒナが涙目で俺の背中に隠れる。
だが、俺はヒナの頭を撫でながら、首を横に振った。
「……大丈夫だ、ヒナ」
「え……?」
「これはケンカじゃない……膿を出してるんだ」
正しさに疲れた子供と、正しさを失った大人。
互いの地雷を踏み抜き、傷口をえぐり合う。
この激痛がなければ、二人は繋がれない。
「私はね、歌いたいの。この曲を」
あかりが立ち上がり、ウタを見下ろした。
その瞳には、酔いも迷いも消え、縋るような、けれど確信に満ちた熱が宿っていた。
「……なんでよ」
ウタが睨みつける。
「分からない……でも、きっとこの曲に答えがある気がするの」
「答え?」
「私の推しが、推しであり続けるための……嘘偽りのない『本物』になるための答えが、ここにある気がするの」
「やめて! 人が捨てたゴミを拾って勝手に使わないでよ!」
「捨てるなんてとんでもない……私が『本物』にしてあげる」
あかりはスマホの音量を最大にした。
大音量の不協和音がリビングを揺らす。
そして、あかりは口を開いた。
「――Ahhhhh……nnn……」
あかりの解釈が、声に乗る。
それは、粘着質で、湿度が高く、まとわりつくような歌声だった。
悲鳴ではない。
まるで情事の最中のような、甘く、苦しく、淫らな吐息混じりの歌唱。
「……っ」
俺は息を呑んだ。
ウタの作った暴力的なピアノが、あかりの声によって、一気に「退廃的な夜のバラード」へと色を変えていく。
不快なほどの生々しさ。
けれど、抗いがたい魅力がある。
あかりは目を閉じ、自分の体を抱くようにして歌い上げる。
その表情は、苦悩と快楽が入り混じった、極めて扇情的なものだった。
恍惚としたその顔は、まるで長年の「渇き」を癒やす泉を、ようやく見つけ出したかのようだ。
この泥臭い音の中でなら、自分は誰よりも美しくなれる――
言葉にせずとも、その自信に満ちた立ち振る舞いが、雄弁にそう語っていた。
歌い終わった時。
リビングには、濃厚な余韻だけが残っていた。
「……はぁ、はぁ」
あかりは紅潮した顔で息を整え、呆然としているウタを見てニヤリと笑った。
「どう? あなたにも理解できたかしら……素敵な音だったでしょ?」
ウタは小刻みに震えていた。
膝の上で握りしめた拳が、白くなるほど強く握りしめられている。
その横顔は、恥じらいなどではない。全身から湯気が立ちそうなほどの、烈火のごとき怒気を孕んでいた。
あかりの施した「欲情」という解釈が、ウタにとっては許しがたい冒涜だったことは、俺の目から見ても明らかだった。
「……違う」
ウタが、地の底から響くような低い声で呻いた。
「……あ?」
「違う!! ふざけんな!!」
弾かれたように、ウタが絶叫した。
あかりの胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「何が『色っぽい』よ! 何が『濡れる』よ! 気持ち悪い解釈押し付けないで!」
ウタは涙目で叫んだ。
「そこはもっと鋭く! 乾いた音で! ナイフで刺すみたいな『殺意』で歌うの!!」
「…………は?」
ウタの指摘に、あかりがポカンと口を開けた。
「あんたの歌い方は粘っこいの! 媚びてんの! この曲は誰かに縋ってるんじゃない、誰かを拒絶してんのよ! スタッカートで叩きつけるように歌いなさいよ!!」
一気にまくし立て、ウタは肩で息をした。
そして。
静まり返ったリビングの空気に、ハッと我に返った。
あかりが、ウタを見下ろしている。
俺が、やれやれと肩をすくめている。
「……言っちゃったな、『ぽえ』先生」
「あ……」
ウタの顔が一気に青ざめていく。
自分の口から出た言葉。
――それは、作曲者本人にしか分からない「正解」。
「いや、違っ……今の、は……」
後ずさり、逃げようと腰を浮かせたウタの腕を。
あかりの細い指が、万力のようにガシッと掴んだ。
「……へぇ」
あかりの瞳に、獲物を見つけた肉食獣のような、妖しい光が宿る。
「あんた……あんただったの」
あかりはウタの腕を引き寄せ、その至近距離で、獰猛に笑った。
「こんなかわいいお嬢ちゃんが、あんな淫らな曲書いてたんだ?」
「ち、違う……!」
「違わない。あんたが一番よく分かってんじゃん、この曲の『芯』を」
「ひっ……!」
「ねえ、お嬢ちゃん」
あかりは、震える天才少女の耳元で囁いた。
逃げ場なんて、最初からなかったのだ。
「この曲……私にツカワセテよ」




