第27話 (ウタ視点)虚空に響かせるポエム
蝉時雨がうるさい。
分厚い防音ガラスの向こうで、世界は夏に茹だっている。
けれど、この部屋だけは冷え切っていた。
空調の冷気ではない。父――一ノ瀬響が放つ、絶対的な重圧のせいだ。
私は黒塗りのグランドピアノから指を離した。
完璧に弾いたつもりだった。ミスタッチは一つもない。
「……違う」
父の低い声が落ちる。
私はびくりと肩を震わせ、膝の上でぎゅっとスカートを握りしめた。
「ウタ。今のアゴーギク(速度変化)は何だ? 作曲者は、そこで加速することを望んでいない」
「……あの、私は……こっちの方が、綺麗だと……」
「お前の主観など聞いていない」
父は冷徹に切り捨てた。
「あのコンクールの時、私は言ったな。『心の無い演奏よりはマシだ』と……だが、勘違いするな」
父の瞳が、射抜くように私を見る。
「それは『好き勝手に弾いていい』という意味ではない。譜面を無視して、自分の感情だけを優先させる……それは解釈ではなく、ただの破壊だ。聴き手に媚びた、安っぽいポエムだ」
自己陶酔。
父が私の演奏を否定する時に使う、決まり文句。
言い返したかった。
「その方が楽しいから」
「昔の譜面をなぞるだけなんて、退屈だ」と。
喉元まで出かかった言葉を、私は無理やり飲み込む。
父は正しい。
世界的なピアニストである彼が言うのだから、絶対なのだ。
私なんかが口答えしていい相手じゃない。
「……ごめんなさい、父さん」
私は小さく頭を下げることしかできなかった。
胸の奥で、どろりとした黒い感情が渦巻いているのを隠して。
◇
学校もまた、退屈な場所だった。
教科書通りの授業。先生の言う通りの答え。
世界はいつだって「誰かが決めた正解」で回っている。
私は頬杖をつき、隣の席を見た。
南雲アリサ。
彼女は、分厚い専門書――『日商簿記』の本を読んでいた。
授業中に、堂々と授業外の自習をしている。
(……相変わらず、変な子)
彼女を見ていると、自分と同じ匂いを感じる。
周りの子供たちが幼すぎて話が合わない、規格外の異物感。
彼女の纏う空気は、教壇に立っている先生よりも、ずっと大人びていて冷めている。
がしがし、とアリサが頭を掻いた。
大あくびをして、だらしなく足を組む。
(……でも、所作がみっともないのよね)
中身はおじさんなんじゃないかと思うほど、品がない。
せっかく顔は可愛いのに、台無しだ。見ていられない。
私はふいと視線を逸らし、自分の手元のノートに目を落とした。
真っ白なページに引いた五線譜。
そこに、音符を並べていく。
父の前では弾けない音。
譜面通りの「再現」ではなく、私が私のために用意した「譜面」。
不協和音。転調。リズムの崩し。
言えなかった「つまらない」という言葉を、音に変えて叩きつける。
「――うーちゃん、なにしてるのー?」
不意に、頭上から影が落ちた。
日向陽菜だ。
「……ただの落書きよ」
「ふーん? おたまじゃくしがいっぱい」
ヒナは私のノートを覗き込み、首を傾げた。
案の定、意味なんて分かっていない。
けれど、彼女はにかっと笑って言った。
「なんか、楽しそうだね!」
「……は?」
「だって、今のうーちゃん、ピアノ弾いてる時よりいい顔してるもん! なんかこう、ここからバーンって音が出そう!」
ヒナがノートを指差す。
私は虚を突かれた。
楽しそう?
私が?
ただ鬱屈を吐き出していただけなのに。
「……変なこと言わないで」
「えー? 本当だよー。うーちゃんは、そっちの方が似合ってるよ」
根拠のない、直感だけの言葉。
でも、それは不思議と私の中に残り続けた。
◇
その日の夜。
私は自室でPCを開いていた。
広い屋敷の端に与えられた、私だけの部屋。
静かすぎる廊下の向こうには父の寝室があるけれど、父は仕事で外国に出ている。
お手伝いさんも、夜は不在だ。
つまり、私がいつ寝ようが、何をしようが、口出しする人はいない。
だから、鍵もかけずに、堂々とPCを開く。
画面には、最近話題のVtuber『AL1-SA』のアーカイブ動画。
『あーもう! 好きにやらせろよなー! 文句あるか!』
下手くそなゲームプレイを笑い飛ばし、リスナーに悪態をつくその声は、私にとってすごく馴染みのあるものだった。
だからかもしれない。
不意に、自分もやってみたいと思った。
もやもやとした何かを形にして、世の中に投げる。
どうせ、無駄なことだ。
父に知られれば「時間の浪費」と吐き捨てられるだろうし、稚拙な音が、誰かの心に響くとも思えない。
ただの自己満足。生産性のない遊び。
けれど、この胸に渦巻く黒い澱を、このまま抱え続けている方が、よほど不健全だ。
これはガス抜き。
あるいは、明日また「正しい演奏」をするために必要な、ほんの一時の逃避。
そうやって、もっともらしい理屈を並べて、私は自分を納得させた。
私は、DTMソフトを立ち上げた。
昼間、学校で書いた譜面を、マウスで一つひとつ打ち込んでいく。
カチ、カチ、と無機質な音が部屋に響く。
最初はピアノの旋律だけ。でも、これじゃ足りない。
父さんの部屋にはない音が必要だ。
ドラムのサンプルを放り込む。規則的な4ビートじゃなく、つんのめるようなリズム。
ベースは思い切り歪ませて、低音で唸らせる。
父さんが聴いたら「騒音だ」と耳を塞ぐだろう。
でも、重なり合った音たちは、私の胸のつかえを物理的に震わせてくれる。
ここでは私がルールだ。
誰の指図も受けない、私だけの城を構築していく。
一時間後。短い曲が完成した。
動画投稿サイトにアップロードする。
アカウント名は、もう決めてある。
『Poe』。
Poemから一文字削った、未完成な名前。
父が蔑みの意味で使った『ポエム(詩)』という言葉。
でも、私は嫌いじゃなかった。
言葉にならない感情を、音で綴る。
それはとても、私らしいことだと思ったから。
『ぽえ』。
変換すると、気の抜けた平仮名になった。
「……ふふっ。私らしくなくていいわね」
投稿ボタンを押す。
一ノ瀬詩ではない、何者でもない私が、世界に放たれた瞬間だった。
回線の海に、ボトルメールを一本流しただけだ。
拾われるかどうかは、運次第。
返事なんて、来ないのが普通。
私はPCを閉じて、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
◇
翌朝。
登校前のわずかな時間、私は日課のニュースチェックのついでに、なんとなく昨日のページを開いた。
再生数『21』。
ほら、やっぱり。
そう思ってブラウザを閉じようとした、その時。
たった一件だけコメントがついていることに気づいた。
『なんか、夕立の後の匂いがする曲だね。好きだよ』
誰かは知らない。
顔も名前も分からない、すれ違うことすらない他人。
でも、その言葉はモニターの光を通じて、私の奥底にじんわりと染み込んだ。
届いたのだ。
一ノ瀬響の娘としてではなく、ただの私の音が。
広い広い世界のどこかにいる、たった一人の誰かに。
「……好き、か」
誰かに認められたくて、父のために弾いてきたピアノ。
でも、初めて「私のための詩」を、誰かが好きだと言ってくれた。
悪くない。
名もなき『ぽえ』としての活動は、こうしてひっそりと幕を開けた。
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