第26話 十六ページが示した答え
静寂が、痛い。
玄関ホールに響くのは、紙が擦れる乾いた音だけだった。
ペラッ……。
黒瀬厳一郎は無言でページをめくっている。表情は能面のように微動だにしない。
ただ、その目だけが、インクの染み込んだ紙面を穴が開くほど凝視していた。
咲夜は祈るように両手を胸の前で組んでいる。顔色は悪い。徹夜明けの疲労と極限の緊張で、今にも倒れそうだ。
(……長いな)
俺こと南雲アリサは、少し離れた場所で壁に寄りかかりながら、あくびを噛み殺した。小学一年生の肉体は睡眠不足に正直だ。だが、ここが正念場。寝ている場合じゃない。
ペラッ。
厳一郎が最後の一枚をめくった。十六ページ。読み終えるのにかかった時間は数分。だが、体感では数時間にも感じられた。
厳一郎は、ゆっくりと冊子を閉じた。そして深く、重い吐息を漏らす。
「……絵は、上手くなったな」
それが第一声だった。咲夜の肩が、びくりと跳ねる。
「デッサンも狂いがない。背景の処理も丁寧だ。昔のお前のような未熟さは消えている」
「……っ」
咲夜の顔に、わずかに希望の光が差す。だが厳一郎は、その光を遮断するように冷たく言い放った。
「だが――それがどうした?」
厳一郎は原稿を突き返す。
「ただの漫画だ。こんなものが何の役に立つ? 誰の腹を満たす? お前が『魂』だと言って差し出したこれは、社会的に見れば一銭の価値もない紙切れだ」
「そ、そんなこと……!」
「あるだろう! 現実を見ろ、咲夜!」
厳一郎の怒鳴り声が、狭い玄関に反響する。
「お前はもう大人だ。いつまでも夢を見ている場合じゃない。安定した職につき、家庭を持ち、真っ当に生きる。それが人の幸せだ。そんな、いつ終わるかも分からん『虚業』に縋って、人生を棒に振るつもりか!」
「虚業なんかじゃない!」
咲夜が叫んだ。
恐怖で震えていたはずの膝を叱咤し、彼女は一歩、父の前へと踏み出す。
「不安定かもしれない。でも、今、私の絵を好きだと言って……お金を出してくれている人たちがいるの! 必要としてくれている人がいる仕事を、『無価値』だなんて言わせない!」
それは、長年父に怯え続けてきた彼女が、初めて見せた魂の咆哮だった。
だが、厳一郎の表情は変わらない。冷徹なまでの眼差しが、娘の熱情を遮断する。
「その金は、お前自身への評価ではない。ただの『卑猥な絵』への対価だ」
厳一郎の言葉は、鋭い刃物のように咲夜の急所を突く。
「性欲を刺激された人間が小銭を投げているに過ぎん。それがお前の言う『誇り』か? そんなものは真っ当な評価とは呼ばん――ただの恥さらしだ」
厳格な父からの、ぐうの音も出ない指摘。
咲夜が唇を噛み締め、俯く。悔しいけれど、言い返せない。彼女自身、心のどこかで「自分はエロでしか評価されないのではないか」「エロを抜いたら無価値なのではないか」という不安と戦い続けてきたのだから。
「でも……この話は、そうじゃない……」
「それは認めよう。確かに、いい漫画だ――だが、それが評価されると、お前は証明できるのか?」
「それ、は……」
咲夜が言葉に詰まる。
実績がない。全年齢向け作品で評価された経験がない彼女には、反論の材料がなかった。
「……もういいだろう。帰り支度をしろ。実家に帰ろう。漫画も趣味で続ければいい。このマンションも解約する。管理会社には私から――」
「――ちょっと、待てよ」
俺は壁から背を離し、二人の間に割って入った。手には自分のスマートフォンを持っている。
「相変わらず小生意気な子供だ。親子の話をしている、部外者が口を挟むな」
「部外者じゃない。咲夜は俺の第二のママだからな!」
俺は不敵に笑って言い返した。
厳一郎がわずかにたじろぐ。
「価値が無いって言ったな。じゃあ、これならどうだ?」
俺はスマホの画面をタップし、厳一郎の目の前に突きつけた。
画面に表示されているのは、SNSのタイムライン。
昨夜、SA9-YAのアカウントで投稿した『コイネガウ』のポストだ。
そこにある数字を、厳一郎は眉をひそめて凝視する。
「……なんだ、これは」
「投稿してから約六時間。五万いいね、一万二千リポスト。表示回数は……もうすぐ百万を超える」
厳一郎が、わずかに目を見開いた。
「コメントも見てみるか?」
俺は画面をスクロールする。
『朝から泣いた』
『表情の描写がエグい。鳥肌立った』
『これ無料で読んでいいの? 単行本出たら買う』
『最後のページ、息するの忘れた』
『誰か出版社の人、この人を捕まえてくれ』
滝のように流れる称賛のコメント。
通知欄は今も止まることなく、数字を更新し続けていた。
「たった数時間で、数万人がこの漫画を読んで心を動かされた。ここにはエロなんて一ミリもない。あるのは咲夜の実力だけだ」
俺はスマホを下げ、厳一郎を真っ直ぐに見上げる。
「おじさん。おじさんの言う『価値』って何? 多くの人に求められて、評価されて、対価を払いたいと思わせる。それが『価値』なんじゃないの?」
「……ぐ、ぬ……」
厳一郎が言葉に詰まる。
彼は教師だ。数字や実績といった「客観的な事実」を無下にはできない。
「……それに、この絵柄だ」
厳一郎は、忌々しそうに表紙のヒロインを指差す。
「目が大きく、キラキラとして……現実味のない、媚びた絵だ。お前はなぜこんな絵を描く? 昔、家の押し入れにあった……あのふざけた漫画の影響か?」
咲夜がハッとして顔を上げた。
「……やっぱり、父さんも知ってたんだ。そう、あの段ボールに入ってた少女漫画……母さんが隠してた、あの漫画たちが私の原点なの。あそこにあったキラキラした世界が、私を救ってくれたんだ!」
「……くだらん!」
厳一郎が一喝する。
「あんな軟弱な世界に浸っているから、お前は現実を見ようとしないんだ。あんな漫画は、子供を惑わすだけの、余計な娯楽だ。人生の無駄だ」
「無駄じゃない! 私は夢も希望もあの漫画からもらったの!」
「そんなもの、惑わされているにすぎない!」
平行線の問答。
だが俺は、ずっと違和感を感じていた。なぜこの父親は、ここまで少女漫画を敵視するのか。
そして、なぜそんなに「詳細を知っている」のか。
「ねえ、おじさん」
俺は静かに口を開いた。
「あの段ボールに入ってた少女漫画……本当は、おじさんのだろ?」
時が止まった。咲夜が「えっ?」と声を上げ、厳一郎の動きがピタリと止まる。
「な、何を……馬鹿なことを……」
「隠しても無駄だよ。だって、あの段ボールにはおじさんの学生時代の参考書が一緒に入ってた」
俺は厳一郎の目を真っ直ぐに見据える。
「本当はおじさんは、あの漫画のことを好きだったんじゃないか? 数十年前の本なのに、日焼けも折れもほとんどなかった。嫌いなものを、あんなふうに保管するわけがない」
「……っ」
「おじさん、さっき原稿を読んでる時、手が止まってたよね。特に、主人公が想いを叫ぶシーン。 ……あれは、見入ってたんだろ? ストーリーに感動して、心を揺さぶられたんだろ?」
厳一郎の視線が泳いだ。その反応が、何よりの答えだった。
「……父さんが……漫画?」
咲夜が信じられないものを見る目で父を見る。
観念したように、厳一郎は深く息を吐き出した。
その肩から力が抜けていく。
「……気の迷いだった」
重い口調で、彼は語り始めた。
「まだ私が学生の頃……教師を目指していた時だ。当時の私は、異性の心理などまるで理解できなかった。だから、女生徒の気持ちを知るために、流行りの漫画を買ってみたのだ」
一瞬の沈黙が落ちた。
「それが……思いの外面白くてな。夢中になって読んだ。だが、それは私にとっては不要なものだった。『男らしくあれ』『立派であれ』という重圧の中で、そんな軟弱なものに現を抜かしている場合ではないと……だから、押し入れの奥に封印したのだ」
自ら切り捨てた「楽しみ」。
だからこそ、それを捨てずに描き続ける娘の姿が、自身の封印した過去を刺激し、苛立たせていたのだ。
「余計な娯楽。無駄……それは違うよ、おじさん」
俺は首を横に振った。
「娯楽は、人の心を豊かにしてくれる。たとえフィクションの物語であっても、人はそれを心の糧とすることができる。その糧のために、人はお金を払うんだ」
俺は、かつてサラリーマンとして働いていた頃を思い出す。
辛い仕事の合間、漫画やゲームにどれだけ救われたか。
「今の世の中、娯楽は『心の食事』だ。腹が膨れるだけじゃだめなんだよ。心が満たされないと、人は生きていけない。だから……咲夜が描く漫画は、無駄なんかじゃない。誰かの明日を作る、立派な仕事だ」
厳一郎は、俺の言葉を反芻するように目を閉じた。
そして、再び目を開けた時、そこにはもう、娘を頭ごなしに否定する色はなかった。
「……好きにしろ」
「え……?」
「評価など水物だ。ネットでもてはやされ続けるなんて過信しないほうがいい。だが……」
厳一郎は背を向けた。
「少なくとも、自分自身が食べていけるくらいは稼げているのだろう……ならば、もう少しあがいてみればいい」
「あがく……?」
「勘違いするな。私はまだ、お前の仕事を認めたわけではない」
厳一郎は振り返ることなく、冷徹に告げた。
「卑猥な絵で小銭を稼ぐだけなら、いずれ破綻する。本当にその道を『仕事』だと胸を張るのなら……私を、家族を納得させられるだけの『まともな実績』を残してみせろ」
「……!」
「それができるまでは――連れ戻すのは待ってやる。精々、今のうちに足場を固めることだな」
それは彼なりの最大限の譲歩であり、猶予の宣告だった。
単に稼げているから許す、という話じゃない。
「エロ以外の価値」を証明してみせろ――そういうことだ。
厳一郎は靴を履き、ドアノブに手をかける。
「連れ戻す理由は、一時保留だ。それだけだ」
ガチャリ、とドアが開く。
去り際に、厳一郎は俺を一瞥した。
「……ふん、子供の癖に弁が立つ。どんな育て方をしたらこんな風になるのか」
「うちの親は最高のママなんでな」
俺がニヤリと笑うと、厳一郎は鼻を鳴らし、バタンとドアを閉めて出て行った。
嵐が去った。
静かになった玄関で、咲夜はその場にへたり込む。
「……か、勝った……?」
「完全勝利……とはいかないが、首の皮一枚繋がったな」
俺は咲夜に手を差し伸べた。
「猶予は勝ち取った。あとは、お前が『まともな実績』とやらを作るだけだ」
「……うん!」
「師匠ぉぉ……ありがとうぅぅ……!」
咲夜が俺に抱きつき、泣きじゃくる。今度の涙は、安堵と、新たな決意の涙だ。 俺はその背中をポンポンと叩いた。
これで、一つ壁を越えた。 だが、俺たちの戦いはこれで終わりじゃない。むしろ、ここからが「プロ」としての本当の始まりだ。
◇
週明けの月曜日。
教室に入った俺を見て、ウタとヒナが寄ってきた。
「あれ、ありちー。なんか今日、スッキリした顔してるね」
ヒナが不思議そうに俺の顔を覗き込む。
「クマが消えてるわね。ちゃんと寝たの?」
「ああ。この週末、死ぬほど寝たからな」
俺はランドセルを置いて、大きく伸びをした。
週末は泥のように眠った。おかげで頭も体も軽い。
「完成、したの?」
「ああ。満足のいく作品ができたよ。おかげでラスボスも倒せた」
俺がニカッと笑うと、二人は顔を見合わせて「?」と首を傾げたが、深くは聞いてこなかった。
◇
放課後。
咲夜の部屋を訪れると、彼女はパソコンの前で頭を抱えていた。ただし、以前のような悲壮感はない。嬉しい悲鳴だ。
「どうした、咲夜」
「師匠! メールボックスが大変なことに! 出版社からのオファーが止まらないの!」
『コイネガウ』の反響は凄まじく、週末の間に表示回数は数百万に達していた。
当然、業界が放っておくはずがない。
「いいことじゃないか。選び放題だぞ」
「それが……見てよ、これ」
咲夜が一通のメールを開く。誰もが知る大手出版社の少年誌編集部からだ。
だが、その文面の最後には、こう書かれていた。
『専属契約を結ぶにあたり、過去の別名義での成人向け活動につきましては、整理をお願いしたく存じます』
「……なるほどな。『売れさせてやるから、汚い過去は消せ』ってか」
俺は鼻を鳴らした。よくある話だ。
「どうするんだ?」
俺が聞くと、咲夜は首を振った。
「お断りだよ」
「お、いいのか? 天下の少年誌だぞ?」
「いいの」
咲夜は晴れやかな顔で笑った。
「だって、私の絵の『熱』は、エロで培ったものだから。それを『無かったこと』にするなんて、自分自身を否定するのと一緒だもん」
彼女の瞳に、もう迷いはなかった。
父との対決を経て、彼女は自分の「武器」に誇りを持ったのだ。
「私はエロ漫画家の咲夜。そこから逃げずに、全年齢でも戦ってみせる……それに、今の私には『最強の理解者』がいるしね」
咲夜は次のメールを開いた。
保留にしていた企業VTuber『星空ルナ』の担当者への返信画面だ。
「これ、送るね」
送信ボタンがクリックされる。
『お引き受けします。ただし、私は成人向け漫画家です。それでよろしければ』という内容で。
「よし! 今日は祝杯だ! 美結さんも呼んで、高い肉を食べに行こう!」
「おう、いいな。ゴチになるぜ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
父との決着、新しい仕事、そして変わらない日常。咲夜は吹っ切れた笑顔で、これからもエロも全年齢も、どっちも全力で描くと宣言した。
俺はそれを見ながら、やれやれ、また忙しくなるなと肩をすくめる。
だが、その忙しさは決して悪いものじゃない。
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ここまで読んでくださってありがとうございました!




