第24話 押し入れの中の過去と、咲夜の現在(いま)
黒いスーツの来訪者が去ってから、数時間が経過した頃。
俺――南雲アリサは、キッチンでやかんに火をかけ、コーヒーミルのハンドルを回していた。
ガリガリ、ゴリゴリ。
硬い豆が砕ける感触と重たい音が、静まり返った部屋に響く。 芳ばしい香りが立ち上ると、少しだけ空気が緩んだ気がした。
「よし……やるよ、師匠!」
背後でパン! と乾いた音がした。咲夜が自分の頬を両手で叩いた音だ。
咲夜の瞳は赤く腫れていたが、もう迷いはなかった。
「落ち込んでる暇なんてないもんね。猶予は一週間……私の全てをぶつけて、父さんを黙らせてみせる」
「その意気だ。で、どうする? 作戦は」
そう尋ねると、咲夜はデスクの上のカレンダーを睨みつけ、人差し指を立てた。
「十六ページ。オリジナルの読み切り漫画を描く」
俺はドリッパーに湯を注ぎながら尋ねた。粉が膨らみ、ポコポコと泡立つ。
「……は?」
俺は思わずポットを持つ手を止めた。
「おい待て、正気か? ネーム切って、下書きして、ペン入れして、トーンまで貼るんだろ? 一週間で十六ページ……?」
確かに週刊連載で十六ページを描き続ける作家はいる。
だがそれは、一部の超人が、万全な体制とチームを組んで成し得る所業だ。
「せめて、八ページくらいにして、クオリティを上げたほうがよくないか?」
「ううん、ダメ」
咲夜は即座に首を横に振った。
「八ページじゃ、キャラの顔見せとオチだけで終わっちゃう。物語に引き込んで、感情移入させて、ちゃんと心を動かすためには……最低でも十六ページは必要なの」
彼女の目は真剣だった。
ただ絵が上手いだけじゃ足りない。
父が「くだらない落書き」と切り捨てた漫画という表現が、人の心を動かす力を持っていることを、証明しなければならないのだ。
「……連載の締め切りもある。しばらく、デスマーチ確定だぞ? 俺もできる限りで手伝うけど」
「漫画家としての命が掛かってるんだもん。それくらいの覚悟はある」
咲夜は不敵に笑った。頼もしい。
「でも……肝心の中身だよね。何を描けば、父さんに届くのか……」
咲夜はペンを指先で回しながら考え込む。
「まあ、座れよ。作戦を立てる前に、少し話そう」
俺は淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、彼女に差し出した。
湯気と共に、深い苦味が香る。
「お前の父親についてだ。読者についてリサーチするのは、作家の基本だろ?」
「……そうだね」
咲夜はカップを両手で包み込むように受け取り、一口飲んでから、遠くを見るような目をした。
「私の父さん……黒瀬厳一郎は、私が生まれる前から教師をしているの。家でもずっと教師みたいで、私にも子供というよりは、出来の悪い生徒に接するような感じだった」
咲夜は自嘲気味に笑う。
「私は勉強ができなかったから、ずっと父さんを失望させてたと思う。優秀な兄が居て、両親に兄はいつも褒められていたけど、私は全然だったから……」
自分もコーヒーカップに口をつける。
苦味が強く感じる。大分慣れてきたとはいえ。
「それでも、絵を描くことだけは好きで……小学生の時、コンクールで金賞を取ったことがあって。その時、父さんすごく喜んでくれたんだ。『咲夜は感性が豊かだ』って、額縁に入れて飾ってくれたりして」
「へえ、意外だな」
「でしょ? だから私、勘違いしちゃったの。『あ、これなら父さんに認めてもらえるんだ』って」
咲夜の声が、次第に沈んでいく。
「そして、高校の時、思い切って言ったの。『私、漫画家になりたい』って。そしたら……父さん、今まで見たことないくらい激怒して」
――ふざけるな。
――大学に行け。社会に出ろ。地に足のついた仕事をしろ。
――絵など趣味でいい。それを仕事にするなど、破滅への道だ。
「怒号と共に、描きためたノートを目の前で捨てられた。ショックだった。あんなに褒めてくれてたのに、プロになりたいって言った途端、全部否定されたから」
咲夜は唇を噛み締めた。
「結局、父さんは優秀な兄さんと比べて、勉強のできない私のことが嫌いだったんだよ。出来損ないが、わけのわからない夢を見てるのが許せなかったんだ」
「……それは違うと思う」
俺は静かに、しかしきっぱりと否定した。
「え?」
「やり方は最悪だ。子供の話を聞かず、力で押さえつけて、自分の価値観を押し付ける。親としては、最低だと思ってる」
それは本音だ。
共感なんて、できるはずもない。
「それでも――あいつが何を考えてるかは、分かる」
同じ娘を持つ父親だから。
「……どういうこと?」
「嫌いなら、わざわざ東京まで来て、連れ戻そうとなんてしない」
「放っておくと家の恥になると思ったんじゃない? あの人、そういうの気にしそうだし」
「それもあるだろうな……でも、それだけじゃないと思う」
俺は言葉を選びながら続けた。
「教師ってのは、職業がら、夢を追って転んだ若いのを何人も見てきてるはずだ。夢のせいで生活が壊れて、行き場をなくして、最後に心まで折れるところまで」
「……」
咲夜は、たまたま成功して生活基盤を掴めた。
だが、それは誰にでもできることじゃない。
「だから怖いんだよ。不安定な道を選んで、お前が同じふうに壊れる未来を見るのが」
やり方は間違っている。
押し付けで、身勝手で、許されるものじゃない。
けれど――根っこにあるのは、悪意じゃない。
そう思ってしまう自分がいる。
「お前のことが嫌いなんじゃない。大事すぎて、心配で……不器用で、自分勝手で、それを力でしか表せないだけだ」
「……私を、心配……してるの?」
「ああ。怒鳴るのは、自分の言葉が届かないもどかしさの裏返しだ。まあ、だからって――咲夜を傷つけたことは許せないし、同情もしないけどな」
俺が肩をすくめると、咲夜は少し呆然とし――それから小さく笑った。
「そっか……師匠が言うなら、そうなのかも」
彼女の瞳から、怯えの色が、ほんの少しだけ薄れていた。
「なら、尚更だね」
咲夜は顔を上げる。
「私が選んだこの道が、『破滅への道』じゃないって……この仕事で、ちゃんと幸せになれるって、証明しなきゃ」
「おう。そのための十六ページだ」
俺たちは頷き合った。
「それで、咲夜はどんな話を描きたいんだ?」
「かわいい女の子が出てくる話……かな?」
咲夜は立ち上がり、押し入れを開けた。
ガサゴソと奥を漁り、引っ張り出してきたのは――古びた段ボール箱だった。
「これ……私が家を出るとき、服よりも何よりも先に持ち出した『宝物』なの」
ガムテープを剥がすと、中にはぎっしりと漫画本が詰まっていた。
どれも古い。数十年前に流行った、往年の王道少女漫画たちだ。
「私の子供時代は、無味乾燥だった。勉強や習い事……遊んでいる時間があれば、英単語を覚える時間に使えみたいな。そんなときに出会ったのが、これだった」
咲夜は一冊を手に取り、愛おしそうに表紙を撫でる。
そこには、キラキラした瞳のお姫様と、背の高い王子様が描かれている。
「ある日、実家の押し入れの奥で見つけたの。隠すように置いてあって……こっそり読んだ時、雷に打たれたみたいだった」
「衝撃だった。世界には、こんなに『カワイイ』があって、こんなに『ときめき』があるんだって……何度も真似して描いた、これが私の絵の原点」
ドレスのひだ、潤んだ瞳、運命の恋。
今の咲夜が描くエロ漫画と、ジャンルこそ違えど、根底にある「異性への憧れ」や「ときめき」は同じだ。
「……ん?」
俺は、段ボールの底の方に、違和感のある背表紙を見つけた。
少女漫画の海の中に、一冊だけ無骨な本が紛れ込んでいる。
「なんだこれ……『参考書』?」
引っ張り出すと、それは数十年以上前の、古びた英語の参考書だった。
パラパラとめくると、裏表紙に万年筆で名前が書かれている。
『黒瀬厳一郎』
「えっ……父さんの?」
咲夜が目を丸くする。
「あー、きっと昔、母さんがこの箱に漫画を隠したときに、一緒に紛れ込んだんだと思う」
咲夜は興味なさそうに言い、漫画の方へ視線を戻した。
だが――俺は顎に手を当てた。
発行年代を見ると、ちょうど咲夜の父親の青春時代と重なる。
本当にただの偶然か? 少女漫画と、自分の参考書を、同じ箱に入れて?
(……まさか、な)
俺の中で、一つの仮説が浮かび上がったが、今は黙っておくことにした。
「咲夜。お前、家を出てからすぐにエロ漫画家になったわけじゃないんだよな?」
「うん。最初は、こういう少女漫画が描きたかったの」
咲夜が苦笑する。
「何度も出版社に持ち込みしたんだよ。担当さんもついてくれたんだけど……全然、ネームが通らなくて」
「なんて言われたんだ?」
「『絵は綺麗だけど、中身がない』って。『お人形遊びみたいで、恋愛にリアリティがない』って言われ続けた」
箱入り娘で、恋愛経験ゼロ。
当時の彼女には、生身の人間の感情が描けなかったのだ。
「それでお金がなくなって……生きるために、エロの仕事を受けたの」
最初は泣きながら描いていたという。
抵抗はあった。けれど、背に腹は代えられない。
俺と出会うまで咲夜は、必死に売れてる作品を分析して、見様見真似で作品を創ってきた。
俺と出会ってからは、急速に理解が進んで、今では立派な「性癖の伝道者」になった。
「なあ、咲夜。お前がエロ漫画で学んだことって、なんだ?」
「え……?」
「ただ『エロい絵』を描けばエロくなるのか?」
「ううん……違う」
咲夜は自分の手を見た。
インクで汚れたその手で、何千枚もの肌を描いてきた。
「体温とか……息遣いとか。その子が今、何を感じて、何を求めてるか……そういう『熱』を込めること」
「それだけか?」
俺はさらに踏み込んで尋ねた。
「エロっていう欲求はさ、本来はすごく独りよがりなもんだろ? 『お前をめちゃくちゃにしたい』とか『自分のものにしたい』とか。そこには相手への配慮なんてない。剥き出しのエゴだ。はっきり言って汚いし、醜い」
「……うん、そうだね」
「でもな。その『汚さ』が相手に受け入れられた時……それは『救い』となる。とてつもないカタルシスが生まれるんだ」
俺は、かつて自分が読んで熱くなった物語や、咲夜の作品に見る「救い」を思い浮かべる。
「自分の中にある、誰にも見せられないようなドロドロした欲求。それをぶつけた時に、相手が拒絶するどころか、『いいよ』って全てを受け入れてくれる。その瞬間、ただの『性欲』は『赦し』に変わるんだ」
咲夜がハッとして顔を上げる。
「汚い自分でも愛されたい、乱暴に求められることで必要とされたい……そういう歪さも含めて人間だろ。お前はエロを通して、人間の綺麗な部分だけじゃなく、汚くて愛おしい部分を描けるようになったはずだ」
「……そっか」
咲夜が、自分の掌をじっと見つめる。
「少女漫画のキラキラだけじゃ足りなかった。 綺麗事だけじゃ、人の心には届かない。 私がエロで培ったのは……その『泥臭い生身の人間』を描く力なんだ」
「その通りだ」
俺は強く頷いた。
「今の私の技術で……あの頃描きたかった『少女漫画』を描けば……」
咲夜の瞳に、光が宿る。
「いけそうか?」
「うん」
咲夜は笑った。
「テーマは『直球のラブストーリー』。私の原点の少女漫画のような、ベタで、王道で……そして、魅力的な女の子が出てくる漫画を描く!」
咲夜がペンを握る。
もう、迷いはなかった。
「……描くよ。私なりの、十六ページの回答を」
彼女は真っ白な原稿に向かった。
描き始めたのは、かつて憧れたお姫様のようなヒロイン。
だが、その表情は記号ではない。
髪の匂いがしそうなほどの質感。鼓動が聞こえそうな潤んだ瞳。
エロ漫画家を経由した咲夜だからこそ描ける、圧倒的な「生命力」を持った少女漫画。
「これならいける。あの石頭の親父に、『漫画はただの落書きじゃない』って分からせてやろうぜ」
俺たちは不敵に笑い合い、徹夜の作業へと突入した。
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