第21話 コンクールと、フリルの受難、そして親父の背中
夏休み前の日曜日。
俺たちは、市民文化ホールのロビーにいた。
「……殺せ。いっそ殺してくれ」
俺は虚無の瞳で天井を見上げた。
理由は単純だ。俺の今の格好が、あまりにも現実離れしているからである。
式典の場において、制服は完璧な選択だ。
年齢にも立場にも合い、余計な注目も浴びない。
――そう、理屈では完璧だった。
だが、俺の選択は、前日の段階で粉砕された。
『ダメよアリサちゃん! 今日は写真撮るんでしょ! レンタルしましょう!』
『舞台の日はね、「無難」より「可愛い」が正解なんです、師匠』
美結と咲夜である。
二人のママ揃って、俺の制服案を即座に却下した。
『ウタちゃんって娘の晴れ舞台なんでしょ? 一緒に来てる子が地味すぎたら、かえって浮くの!』
『それに、客席って意外と見られますから。ここは映えです、映え』
映えのために尊厳を捨てるなんて、俺の人生設計には含まれてない。
必死に抵抗はした。
ドレス代、中の人の年齢、場の空気、本人の意思――
尽くせる理屈はすべて尽くした。
だが――
『似合うんだからいいでしょ!』
『師匠、観念してください』
無駄だった。
こうして俺は、淡いブルーの生地にフリルとリボンを盛り込んだ、超絶ラブリーなドレスを着せられるはめになったのである。
ドレス選びだけで二時間掛かった。
それだけで、もうぐったりした。
「うー……」
「堪えるんだヒナ。会場で暴れたら、ウタに迷惑が掛かる」
俺の隣では、ヒナもピンクのフリフリを着せられ、捕獲された野生動物のような顔で唸っていた。
「あら、アリサちゃんママ。今日はお誘いありがとうございます」
「いえいえ! ヒナちゃんもドレス似合ってますよ~!」
美結の隣で、ヒナの母親――活発そうなショートヘアの女性が、申し訳なさそうに頭を下げていた。
「うちの子、落ち着きがないから……お友達ができるか心配で。でも最近、学校が楽しいって言うんです」
「ふふ、うちの子こそ、ヒナちゃんのおかげで毎日楽しそうなんです」
親同士が和やかに談笑している。
……まあ、美結がママ友を見つけるきっかけになったのなら、この恥ずかしい格好も無駄ではないか。
俺がそう自分を納得させようとした、その時だ。
「くんくん……あ! うーちゃんの匂い!」
ヒナが突然鼻を動かし、ホールの奥を指差した。
「あっちだ!」
「えっ、匂いって……香水か何かか?」
「違うよ! なんかこう、緊張してピリピリした匂い!」
相変わらずの野生の勘だ。
ヒナが指差した先、ホールの隅に、煌びやかなステージドレスを着たウタが立っていた。 だが、その顔色は悪い。ガチガチに緊張している。
「あ、いた。うーちゃーん!」
ヒナが手を振る。
「……二人とも、来てくれたんだ」
ウタが振り向き、俺たちの姿を見た瞬間――
「……ぶっ」
吹き出した。
「な、なによその格好……! あんたたち、まるで妖精じゃない」
「……俺の趣味じゃないぞ。親の悪ふざけだ」
俺がふてくされて言うと、ウタは肩を震わせながら笑った。
そして気づく。彼女の頬に、さっきまでの強張りがない。
どうやら、ピエロ役としての役目は果たせたらしい。
「……で? 調子はどうだ」
俺が聞くと、ウタは再び表情を曇らせ、小さく頷いた。
「……お父さんが来てるの。一番前の席に」
その先には、腕を組んで座る厳格そうな男性の背中があった。
一ノ瀬響。有名な作曲家であり、ウタの父親。
背中から、無言の圧が滲み出ている。
「……もし失敗したら、本当に『辞めろ』って言われるかも」
ウタの手は冷たかった。
小学一年生の少女が背負うには、あまりにも重すぎる期待だ。
そのとき、ヒナがウタの背中をバシッと叩いた。
「いったぁっ!? な、何すんのよ!」
「気合注入! うーちゃんなら大丈夫だよ!」
ヒナは屈託なく笑う。
「だって、あのピアノ、バケツより高いんでしょ?」
「……は? 当たり前でしょ。スタインウェイよ」
「じゃあ、もっといい音が出るよ! あの時みたいに、ドカンとやっちゃえ!」
あまりに乱暴な理屈。
だが、ウタは呆気にとられた後、ふっと笑った。
「……そうね。バケツよりは、マシな音がするはずだわ」
「ウタ。俺からも一つアドバイス、というかお願いだ」
俺はフリルのスカートを揺らして近づき、ウタの耳元で囁いた。
「俺たちのために弾いてくれないか?」
「え?」
「親父さんのためとか、審査員のためとかじゃなくて。俺とヒナを楽しませてくれよ……こんな格好にされてまで、来てよかったと思わせるくらい、イかした演奏を聞かせてくれ」
ウタは俺とヒナの顔を交互に見て、それからフンと鼻を鳴らした。
いつもの、強気な表情が戻っていた。
「……わかったわ。わがままな妖精たちを、満足させてあげる」
◇
ブザーが鳴り、コンクールが始まった。
出場者たちが次々と練習の成果を披露していく。どの子も上手い。ミスタッチもない。
だが、俺の耳にはどれも「正解をなぞっている」ように聞こえた。緊張で萎縮し、楽譜というレールの上を、脱線しないように慎重に走っているだけだ。
そして、八番目の演奏者――一ノ瀬詩がステージに現れた。
深呼吸をして、ピアノの前に座る。一瞬の静寂。
ポロン、と最初の音が鳴った。
課題曲は、ショパンの『子犬のワルツ』。
最初の数小節は、教科書通りの優等生な演奏だった。
だが、途中から――空気が変わった。
(……来たな)
音が、跳ねる。
指定されたテンポよりも明らかに速い。
それでも音は崩れない。
指はもつれることなく、跳ねるようなフレーズを正確に掴み続けている。
速さに振り回されているのではない。
速さを、完全に支配していた。
譜面通りの正確さよりも、衝動のような躍動感が前に出てくる。
それは、秘密基地でのバケツドラムのように自由だった。
上品なホールに、泥だらけのスニーカーで駆け回るような音が響く。
審査員席の大人たちが、眉をひそめて何かを書き込んでいるのが見えた。
――減点だ。
リズムが揺れている。強弱記号を無視している。
クラシックのコンクールとしては「暴走」に近い。
だが。
「うーちゃん、すげー……!」
ヒナが目を輝かせて身を乗り出す。
俺も思わず、ドレスの裾を握りしめて笑った。
上手い下手じゃない。
「私はここにいるぞ」という、強烈な自己主張。
それは、機械的な演奏に退屈していた観客の耳を、確実に惹きつけていた。
ジャン! と力強く鍵盤が叩かれ、演奏が終わった。
一瞬の沈黙の後、会場から大きな拍手が湧き上がった。
その拍手の熱量は、間違いなく今日一番だった。
◇
ロビーにて。
戻ってきたウタの表情は、少しだけ悔しそうだったが、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「……落ちちゃった」
ぽつりと溢した言葉に、俺はドレスの裾を強く握りしめた。
「すまない、ウタ。俺のせいだ」
俺は頭を下げる。
「俺が、自分たちのために弾いてくれなんて言ったから……」
「勘違いしないで」
ウタはふいと視線を逸らし、強がるように髪を払った。
「私がそうしたかったから、そうしただけよ……それに、あんなに気持ちよく弾けたのは初めてだったし」
「うん! うーたん、最高だったよっ!」
ヒナがウタの両手をぎゅっと握りしめ、跳ねるように言った。
「手がバーって動いて、音がキラキラしてた! ヒナ、大好き!」
「ちょ、ちょっとヒナ、痛いってば……」
ウタが困ったように、けれど嬉しそうに笑う。
俺も顔を上げ、二人の輪に加わろうとした。
――その時だった。
まるで冷水を浴びせられたように、場の空気が凍りついた。
背後から、カツ、カツ、と規則正しい革靴の音が近づいてくる。
俺たちはビクリと肩を震わせ、強張った顔で振り返る。
そこに、一ノ瀬響が立っていた。
俺とヒナは、とっさにウタを庇うように一歩前へ出る。
だが、父親は俺たちに目もくれず、娘の前で立ち止まり、無表情で見下ろした。
「……詩」
「は、はい……」
ウタが体を強張らせる。
結果が出なかったことを怒られるのか。
響は短く息を吐き、冷徹に告げた。
「……酷い演奏だったな」
「っ……」
「独りよがりな解釈だ。アゴーギクは乱れ、ペダルも濁っていた。作曲者へのリスペクトが欠けた、審査員としては零点の演奏だ」
プロの批評。逃れようのない事実。
ウタの肩が小さく震え、下を向く。
「だが……心の無い演奏よりはマシだ」
父親は、大きな掌を娘の頭に置いた。
「……え?」
ウタが顔を上げる。
父親は、俺とヒナの方をチラリと見た。
フリフリのドレスを着た俺たちを見て、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに視線を戻す。
「譜面を正確になぞればいいわけじゃない……今日は、お前の『音』が聞こえた気がする」
認めたわけではない。
だが、その言葉には確かに、音楽家としての敬意が含まれていた。
「……精進しなさい」
それだけ言い残し、父親は踵を返した。
その背中は、以前見た時よりも少しだけ小さく、そして優しく見えた。
「……父さん……」
ウタの目から、涙が溢れる。
ヒナは言葉をかける代わりに、「うー!」と唸りながらウタに頭を擦り付けた。
俺はドレスの袖で、こっそりと目元を拭った。
言葉足らずな父親と、意地っ張りな娘。
その溝は、ほんの少しだけ埋まったように見えた。
バケツドラムのような零点の、しかし最高の演奏で。
◇
その日の夜。
ドレスを脱ぎ捨て、ジャージ姿になった俺は『AL1-SA』として配信を行った。
テーマは【雑談】今日は精神的に疲れた話。
『……今日はとある事情で、フリフリのドレスを着せられたんだがな。あれは一種の拘束具だ。俺の中の尊厳が、ゴリゴリと削り取られる音がしたよ。だがまあ……それだけの甲斐はあったけどな』
画面には、流れるようなコメントの滝。
『フリフリ着たおっさんwww』
『想像したら地獄絵図で草』
『いや、中の人は普通に美少女だろ。騙されんぞ』
『性別不詳の電子の妖精……アリサちゃん……』
リスナーたちが「中の人の性別論争」で盛り上がる中、俺は一つだけ流れてきたコメントに目を留めた。
『うーちゃん』という名前のリスナーからだ。
『自由な妖精さんたちのおかげで、目が覚めました……直接は言えないから、ここでだけ。ありがとう』
俺の手が止まった。
バレているのか、それともただの偶然か。
画面の向こうの彼女は、どんな顔でこれを打ったのだろう。
俺は少しだけ口元を緩め、あえて素っ気なく答えた。
『……うーちゃん。届いてるといいな、その友達に』
それ以上は、何も言わない。
ただ、画面越しに繋がったかすかな共感が、心地よかった。
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