第20話 天才の憂鬱と、バケツのドラム
第二理科準備室が俺たちの秘密基地になってから、数週間が経った。
俺たちは給食を食べ終わると、昼休み終了のチャイムが鳴るまでのわずかな時間、ここに集まるのが日課になっていた。
窓の外からは、全校生徒が校庭で遊び回る賑やかな声が聞こえてくる。
ドッジボールの歓声、鬼ごっこの叫び声。
「……陽菜。お前、外に行かなくていいのか?」
俺は紅茶を飲みながら、掃除用具入れの青いポリバケツを抱えて座っている野生児に尋ねた。
このエネルギーの塊のような少女が、一番活動的になるはずの時間帯に、こんなカビ臭い部屋に引きこもっているのは不自然だ。
「んー? いいの」
陽菜はバケツをベコベコと押して凹ませながら、つまらなそうに唇を尖らせた。
「だって、男子たち弱いんだもん。ドッジボールでちょっと本気出したら、タケシ君泣いちゃったし。先生に『日向さんは強すぎるからハンデね』って言われて、ボール投げさせてくんないの」
「……なるほど」
俺は納得した。
この娘、身体能力が高すぎて、周りの一年生じゃ遊び相手にならないのだ。
手加減を知らない猛獣を、ハムスターの檻に入れているようなものだ。
周りも怖がるし、本人も不完全燃焼だろう。
「それに、陽菜は隊長だもん! 隊員がここにいるのに、私だけ外に行ったりしないもん!」
陽菜はニカッと笑って、俺と、隣で突っ伏している詩を見た。
どうやら彼女なりの「群れ」の意識があるらしい。
俺たちが動かないなら、自分もここで待機する。それが彼女のルールなのだ。
だが、その待機も限界に近いらしい。
陽菜は貧乏揺すりならぬ、全身揺すりを始めている。
一方、部屋の隅では――
一人の少女が、陽菜とは対照的にどん底のオーラを放っていた。
「……はぁ」
一ノ瀬詩が、机に突っ伏して深いため息をついた。
長い黒髪がカーテンのように彼女の表情を隠している。
「どうした、詩?」
「……弾けないの」
「スランプか?」
「……昨日、お父さんに練習を聞かれたの」
詩がポツリと語りだした。
彼女の父親は有名な音楽家だ。家にはグランドピアノがあり、物心ついた時から音楽が空気のようにそこにあったという。
「弾き終わったら、お父さん、深い溜息をついて……こう言ったの」
詩の声が震える。
『――詩。そんなに辛そうに弾くなら……もう、無理に続けなくていいんだぞ』
「……それは」
俺は言葉を詰まらせた。
言葉通りに受け取れば、娘を心配する親の台詞だ。
だが、今の詩には、そうは響かなかったらしい。
「見放されたのよ」
詩は唇を噛み締め、膝に顔を埋めた。
「『お前には才能がない』ってことよ。『聞いていて苦痛だから辞めてしまえ』ってことでしょ……?」
焦って、もがいて、苦しい顔で鍵盤を叩く娘を見て、父親は「休ませてやりたい」と思ったのかもしれない。
だが、プライドの高い天才少女にとって、それは「死刑宣告」に等しかったのだろう。
「コンクールなんて出ても恥をかくだけ……もう、音楽なんて嫌い……」
どんよりとした空気が部屋を支配する。
俺は大人として、誤解を解くべきか迷った。
だが、今の彼女に正論を言っても届かないだろう。
「なら、辞めちゃえばいいじゃん!」
ヒナが、いつもの能天気さで言った。
「辞められるわけないでしょ……あんたみたいに単純じゃないのよ」
「ふーん。単純なほうが楽しいのになー」
その時だった。
「そうだ!!」
突然、陽菜が大声を上げた。
その目は、ランランと輝いていた。
「な、なによ急に……!」
ビクッとした詩に、陽菜はニカッと笑って指を差した。
「うーちゃんの顔が、干した梅干しみたいだからだよ!」
「はぁ!? う、うーちゃんって私のこと!? それに梅干しって!」
「そうだよ! うーちゃん、ここに来てからずーっとシワシワだもん! そんな顔してたら、楽しい音なんて逃げちゃうよ!」
陽菜は立ち上がり、部屋の隅にあった掃除用のプラスチックバケツをひっくり返した。
そして、俺が持ってきた三十センチ定規を二本構える。
「楽しくないなら、無理やり楽しくすればいいんだよ! そーれ!」
ドンドコドコドコ!! ガシャーン! バンバンバン!!
陽菜が定規でバケツを叩き始めた。
リズムもへったくれもない。ただの騒音だ。
「ちょ、ちょっと! うるさい! やめてよ!」
詩が耳を塞いで叫ぶ。
だが、陽菜は止まらない。
「うーちゃんもやるんだよ! ほら、そこのビーカー叩いて!」
「やるわけないでしょ! これ高いやつだよ!?」
「いいから! イライラするなら叩く! これ自然の摂理!」
陽菜は無理やり詩にペンを持たせた。
詩は戸惑っていたが、陽菜のあまりの剣幕と、降り注ぐバケツの爆音に、半ばヤケクソになったようだ。
「も、もう! 知らないっ!」
チーン、カカカッ、チーン!
詩がビーカーをペンで叩いた。
澄んだ高い音が響く。
「そうそう! いい音! アリサもなんかやって!」
陽菜が俺に話を振ってくる。
俺は苦笑し、手近にあった空き缶に小銭を入れた即席シェイカーを振った。
ジャラッ、ジャラッ。
バケツの重低音、ビーカーの高音、小銭のノイズ。
カオスなセッションが始まった。
最初は嫌々だった詩だが、ビーカーを叩くうちに、その体に染み付いたリズム感が覚醒したらしい。
陽菜のデタラメなドラムに合わせて、絶妙な裏打ちを入れ始めた。
ドンドコ、チーン! ジャラッ! ドコドコ、チチーン! ジャララッ!
音楽とは呼べないかもしれない。
ただの騒音だ。だが、間違いなく生きている音だった。
「上手くやらなきゃ」とか「期待に応えなきゃ」なんていう雑念を吹き飛ばす、暴力的なまでの音の波。
「あはは! うーちゃん上手い! ノッてきたー!」
「ちょ、テンポ速すぎ! 合わせなさいよバカ!」
詩が叫ぶ。その顔からは、いつの間にか梅干しのようなシワが消えていた。
必死な、でも生き生きとした表情になっている。
10分後。
俺たちは息を切らして床に倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……バカみたい……」
詩が、天井を見上げて呟く。
「手が痛い……こんなの、音楽じゃないわよ」
「でも、楽しかったでしょ?」
陽菜がへへっと笑って覗き込む。
詩は一瞬むっとした表情を浮かべたが、すぐに堪えきれず、ふっと吹き出した。
「……うん。うるさくて、頭の中が真っ白になったわ」
「でしょー! お父さんが何て言ったか知らないけどさ、うーちゃんが楽しいなら、それでいいと思うよ!」
陽菜の単純明快な理屈。
だが、それはどんな気の利いた慰めよりも、今の詩の胸にまっすぐ刺さったようだった。
蛇足だと思いつつ、俺も口を開く。
「詩。お前の親父さんの言葉だけどな」
あくまで推測だけど、と前置きして続けた。
「『辞めろ』って意味じゃなくて、ただ『苦しんでまでやることはない』って言いたかっただけかもしれないぞ」
「え……?」
「大人はな、言葉足らずな奴が多いんだよ。それに親ってのは、子供に辛い思いをさせたくないって願う生き物だからな」
俺も、そういう失敗をしてきた。
子供たちの声を聞いて、後になってから勘違いさせていたことに気づいて反省する。
――そんなことも、珍しくなかった。
「音楽ってのは『音を楽しむ』って書くだろ。まずは、その『バカみたいな楽しさ』を思い出してみたらどうだ?」
「……生意気。ガキのくせに」
「まあ、ガキなのはお前もだけどな」
詩は少し照れくさそうに笑う。
その笑顔は、今まで見た中で一番、年相応で可愛らしいものだった。
「ありがと……アリサ、ヒナ」
彼女が初めて、俺たちを名前で呼んだ。
それだけで、さっきまで部屋に残っていた重たい空気が、少しだけ軽くなった気がした。
◇
その日の夜。
俺は『AL1-SA』として配信を行った。
テーマは【雑談】言葉足らずな大人たちへ。
「期待と心配は、紙一重だ。『無理しなくていい』という言葉が、『期待していない』と受け取られることもある……コミュニケーションってのは、本当に難しいな」
前世の娘たちのことをふと思い出す。
天真爛漫だった彼女たちは、今、何か悩んでいたりするのだろうか。
相談できる相手は、そばにいるだろうか。
「もし今、誰にもぶつけられない気持ちがあるならさ。一度全部放り出して、バケツでも叩いてみろ。意外と、それだけで少し楽になることもある」
コメント欄には『深い』『バケツww』『わかりみが深い』といった反応が流れる。
その中に一つ。『うーちゃん』という名前のリスナーから、コメントが届いていた。
『……やってみる。ありがとう』
俺はニヤリとして、マイクに向かって言う。
「うーちゃん……初見さんかな? がんばれ。すれ違うくらいならぶつかればいい」
少しだけ間を置いて、続けた。
「ちゃんと向き合えば、応えてくれる人のほうが、きっと多いから」
マイク越しにそう告げながら、画面の向こうの彼女が、音を心から楽しめていることを願った。
※よろしければブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
ここまで読んでくださってありがとうございました!




