第10話 お昼寝明けの人生論
「……んぅ……ふぁ……」
午後3時半。
配信開始のボタンを押した直後、マイクに乗ったのは、気の抜けたあくびだった。
画面の中の『AL1-SA』も、とろんとした半目の表情になっている。
今日の枠は、お昼寝明けの突発雑談だ。
三歳児の肉体は燃費が悪い。朝七時に起き、昼食を食べたら二時間のお昼寝が必須。そして夜八時にはもう舟を漕ぎ始める。
だから、今のこの時間が、俺にとって一番リラックスしているゴールデンタイムなのだ。
『おつアリー』
『起きたか師匠』
『師匠の寝起き声かわいい』
『声がふわふわしてるw』
『今日はおっさん成分少なめ?』
同接は300人ほど。切り抜き動画がニッチに受けたようで、雑談枠でも結構な人数が集まっている。
「……悪いな、まだ脳みそが起動中だ。お前らも、仕事の手を止めて茶でも飲め……俺も飲む」
俺はコップの麦茶を持ち上げてゆっくりと傾けた。
冷たい液体が喉を通り、少しずつ意識が覚醒していく。
くぅーっ、美味い。
本当はもっと刺激的な黄金色の炭酸飲料が恋しいところだ。
だが、ここで「酒を飲んでる」と誤解されるような発言は控えておこう。万が一、将来的に俺の「実年齢」がバレた時、本当に飲酒していたと叩かれたら大炎上不可避だ。
コンプライアンスは守らねばならない。
「あくまで麦茶だぞ。色は似てるが、断じてビールではない。俺は遵法精神に溢れた健全な幼女だからな。そこんとこ、よろしく頼む」
『設定に厳しいw』
『わかってるってw』
『コンプラ大事』
「さて、今日はマシュマロ(質問箱)を消化していくぞ。頭が回ってないから、変なこと言ったら忘れてくれ」
俺は適当にマウスを操作し、届いているメッセージを開いた。
その中に、切実な響きを持つものがあった。
『AL1-SA師匠、こんにちは。
僕は大学受験を控えた高校生です。
今、将来が不安で仕方ありません。
模試の判定も微妙で、もし落ちたら人生終わりなんじゃないかと怖くなります。
周りの期待に応えなきゃいけないのに、失敗するのが怖くて勉強も手につきません。
先輩ならどう考えますか?』
……なるほど。受験生か。
人生の岐路に立たされた若者特有の、視野が狭くなってしまうあの感覚。
痛いほどわかる。俺にもそんな時期があった。
俺はコップを置き、小さく息を吐いた。
「……受験か。辛い時期だな。俺が高校生の頃なんて、どうやって女子にモテるかしか考えてなかったぞ」
『幼女師匠の高校時代w』
『余裕あるなー』
「不安になるのはわかる。失敗したらどうしようってな。だがな、少年。一つだけ、残酷な真実を教えてやる」
俺はマイクに近づき、静かに、しかしはっきりと告げた。
「どんなに完璧な計画を立てて、いい大学に入って、いい会社に入っても……死ぬときは死ぬんだよ」
コメント欄が一瞬止まる。
俺は、遠い目をして続けた。
「俺の……知り合いの話だ。そいつは真面目な男だった。そこそこの大学を出て、そこそこの企業で中間管理職をやっててな。家族のために必死に働いたよ。35年ローンで家を買って、老後の資金もコツコツ貯めてた。『今は辛くても、家族のために』って、毎日車を走らせて、頭を下げて……」
前世の俺のことだ。
それが「正解」だと信じて疑わなかった。
いや、今でも間違ってるなんて微塵も思っていないが。
「で、どうなったと思う? ある日突然、交通事故で死んだよ。即死だ」
『えっ……』
『重い……』
『救いがない』
「あっけないもんだぞ。合格判定も、学歴も、役職も。トラックに突っ込まれたら紙切れ一枚分の役にも立たない」
俺は、あの瞬間のことを思い出す。
走馬灯のように駆け巡った思考。
「そいつは死の間際、何を思っただろうな。仕事? お金? ……たぶん、そうじゃない。 残してしまう家族のことだったと思う」
妻の笑顔。娘たちの寝顔。
もっと一緒にいたかった。もっと話したかった。
もっと、笑い合いたかった。
「そして――どうしようもないくらい些細なことだ。『あのゲームの続き、やりたかったな』とか、『先週食ったラーメン、美味かったな』とか。そんなことばかり浮かんだんじゃないかな」
俺は、画面の向こうの少年に語りかけるように続けた。
「結果を出すのは大事だ。勉強も大事だ。それは否定しない。だが、失敗したら人生終わりなんてことはない。いい大学に入れなくても、生きてりゃ美味いラーメンは食えるし、面白いゲームはできる。逆に、志望校に受かっても、死ぬ瞬間に『辛いことばかりだった』としか思えないなら、それはクソゲーだろ?」
『……深い』
『なんか泣けてきた』
『師匠、いいこと言うなぁ』
「だから少年。あまり根を詰めすぎるな。たまには息抜きも必要だぞ。……どうだ、いっそ気晴らしに女の子とデートするとかさ」
俺が茶化すように言うと、すぐにコメントがついた。
相談者本人が見ていたらしい。
『女の子と話すなんて、もっと無理です! そんなきっかけありません……』
俺は苦笑する。
「ははっ、無理かー。まあ、そうだよな。キャバ……いや、『お姉さんが話を聞いてくれる店』に行くには、まだ年齢的に早いしなー。難しい年頃だ」
『店w』
『発想がおっさんなんよw』
『先輩、連れてってくれw』
「まあ、そういう店には行けなくても、ここには俺がいる。俺でよければ、愚痴くらい聞いてやるからさ。一応俺は美少女だから?」
『疑問形w』
『本人くらい信じろよw』
「まあ、あれだ。勉強の合間に配信を見て、馬鹿だなーって笑ってくれればいいさ」
俺はニッと笑った。
「家族を大事にな。それと、自分自身のことも。結果が出なかったら、その時また考えればいい。どうせ人間、いつかは死ぬんだ。死ぬ時に『あー、楽しかった』って言えるように、今を楽しめ若者」
少しの間、沈黙が落ちた。
やがて、コメント欄が滝のような勢いで流れ始めた。
『ありがとうございました。少し楽になりました』
『今を楽しむ、か。忘れてたな』
『幼女師匠、一生ついていきます』
『この配信、無料でいいの……?』
『これスパチャ投げられないの!?』
『スパチャ投げさせろ!』
『口座番号教えろ!』
画面が「金を受け取れ」というコメントで埋め尽くされる。
俺は苦笑した。
「おいおい、落ち着け。まだ収益化してないって。お前らのその熱い気持ちは、心の銀行口座にでも振り込んでおいてくれ」
俺は照れ隠しにぶっきらぼうに言い、話題を切り替えた。
「さて、真面目な話をしてたら目が覚めてきた。残りの時間は、こないだのレトロゲーの続きでもやるか……あ、でもその前にトイレ行ってきていいか? 麦茶飲みすぎた」
『自由すぎるw』
『さっきの感動を返せw』
『トイレRTAはよ』
『いってらー』
その後は、いつものように適当な雑談とゲーム実況で盛り上がり、一時間の配信を終えた。
◇
「……ふぅ」
配信終了ボタンを押し、俺はヘッドフォンを外した。
同時に、通話アプリから咲夜の興奮した声が飛び込んでくる。
『師匠……! 今の、すっごく良かったよ……!』
声が少し潤んでいる気がする。
「……そうか? 寝起きで適当に喋っただけだぞ」
『ううん、その適当さが逆にリアルで……聞いてて胸が熱くなった。これ、絶対バズるよ! 切り抜き作って拡散したら、登録者1000人なんてあっという間だよ!』
「お手柔らかに頼むよ」
俺は椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
あの少年への言葉は、かつての自分への鎮魂歌でもあったのかもしれない。
自分は後悔を残して死んでしまった。
そして、未練がましくこの世に残っている。
でも、こうして二度目の人生で、誰かの背中を少しでも押せたのなら――あの死にも、意味はあったのかもしれない。
「……さて」
俺はPCの電源を落とした。
もうすぐ夕方だ。
美結が起きてくる頃だろう。
今日の夕飯はどこのお店の宅配になるのだろうか。
そろそろ、自炊も覚えようかな。
台所に立つにはまだ厳しいが、インスタント食品と出前だけでは成長に差し障る。
隣の不健康な漫画家の分も合わせて作るのがいいかもしれない。
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