『Side:エレナ 不器用な薬師の厄日と、銀色の絶望にゃ』
数分前。
通りを歩くエレナ・ファルク(十四歳)の心は、どんよりと曇っていた。
周囲からは、楽しげな笛の音や、屋台の肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
今日は『収穫祭』。一年で一番、王都が賑わう日だ。
「はぁ……。最悪……」
彼女は、重たい薬草カバンのベルトを握りしめ、深いため息をついた。
彼女の職場であるポーション店『薬瓶の底』での出来事が、脳裏に蘇る。
「馬鹿者ォ!!」
店主の雷が落ちたのは、つい先ほどの事だ。
調合釜からは黒煙が上がり、あたり一面に焦げ臭い匂いが充満していた。
「お前というやつは! 手順は完璧、素材の選別も完璧! なのになぜ、最後の最後で魔力を暴走させるんだ!」
「ご、ごめんなさい親方! ちょっと気合を入れすぎちゃって……」
「気合を入れるなと言っとるんだ! ポーション作りは繊細さが命だぞ! お前の魔力は雑すぎる!」
店主は頭を抱え、外の行列を指さして絶叫した。
「よりによって、今日は一年に一度の『収穫祭』だぞ!? 書き入れ時で、客がわんさか待ってるんだ! それなのに釜を爆発させて、商品を黒焦げにする馬鹿がどこにいる!」
「うう……本当にすみません……」
「謝って済むか! 薬草の在庫も尽きかけとるわ!」
店主は充血した目でエレナを睨みつけた。
「罰として、今すぐ『シズク草』を採ってこい! ダンジョン近くの『迷いの森』にしか生えてない希少種だ。採ってくるまで店には入れんぞ!」
そうして彼女は、店を追い出されたのだった。
(私、才能ないのかなぁ……)
エレナは自分の手を見つめた。
手先は器用な自信があった。レシピも全部覚えている。
なのに、いざ魔力を込めて調合しようとすると、どうしてもドカンといってしまうのだ。
まるで、蛇口をひねったら滝が出てくるみたいに、魔力が溢れ出してしまう。
「薬師になりたいのに……」
ふと、視線を感じて顔を上げた。
そこは、バウマン家の屋敷の前だった。二階の窓辺。
ガラス越しに、何かが動いているのが見えた。
「……あ」
それは、黒い子猫だった。
艶やかな黒毛に、宝石のような金色の瞳。
窓にへばりつくようにして、こちらをじっと見つめている。
ドキン。
エレナの胸が、高鳴った。
「か、かわいい……!」
(あの子、クラウスが拾った猫かな? 目が合っちゃった……! 運命!?)
窓の中の猫は、なぜか必死な形相で(猫なのに表情が豊かだ)、ガラスに顔を押し付け、バタバタと暴れているように見える。
その姿さえも、エレナの目には愛らしく映った。
「ふふっ、私に向かって踊ってくれてるのかな? あんな子になら、一日中ひっかかれてもいいかも……」
さっきまでの落ち込んだ気分が、嘘のように晴れていく。
今日は厄日だと思っていたけれど、あんな天使に会えるなんて、もしかして幸運な日なのかもしれない。
「よし! ちゃちゃっと薬草を採ってきて、あとでクラウスに頼みに行こう!」
エレナは拳を握りしめた。
あの猫を、思う存分モフらせてもらう。そのためなら、店主に土下座でもなんでもしてやる。
新たな(そして邪な)目標を得た彼女の足取りは、軽かった。
「待っててね、猫ちゃん! すぐ戻ってくるから!」
彼女は屋敷の窓に向かって大きく手を振ると、駆け足で森の方角へと向かった。
◇◇◇
王都の城壁を抜けて歩くこと三十分。
『はじまりのダンジョン』と呼ばれる洞窟の中は、不思議な空間だった。天井は高い岩盤に覆われているはずなのに、どこからか太陽のような光が差し込み、明るい森が広がっている。
「……よし、到着」
私は入り口で入洞許可証を衛兵に見せ、中へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
(……あれ? なんだか、静かすぎる?)
いつもなら聞こえるはずの鳥のさえずりや、虫の音が全くしない。
森全体が息を潜めているような、不気味な静寂が漂っている。
「……気のせい、だよね。ちゃちゃっとシズク草を採って、早く帰ろう」
私は不安を振り払うようにカバンのベルトを握りしめ、森の奥へと進んでいく。
作業は順調に進んだ。
カバンが一杯になり、さて戻ろうかと腰を上げた時だった。
茂みの陰に、プルプルとした水色の影が見えた。
「あ、スライムだ」
一匹だけ、ぽつんと佇んでいる。私は安心して、追い払おうと足元の小石を拾って投げた。
ポスッ。
小石が当たると、スライムは驚いたように震え、逃げ――なかった。
代わりに、その後ろの茂みがガサガサと揺れ、さらに三匹のスライムが現れた。
「……え? 群れ?」
その瞬間。
ザワザワザワ……と、森の奥から、波のような音が聞こえてきた。
見ると、木々の隙間から、おびただしい数のスライムが、青い津波のように押し寄せてきていた。
「う、嘘でしょ!?」
私は悲鳴を上げ、慌てて駆け出した。
戦うなんて選択肢はない。あんな数に囲まれたら、消化されて骨も残らない。
無我夢中で走る。普段通らない獣道を抜け、あっちへ、こっちへ。
気づけば私は、見覚えのない場所に出てしまっていた。
目の前には、行き止まりの岩壁。
そして、その岩壁に埋め込まれるようにして、頑丈な鉄柵が設置されていた。
その向こうは、広大な広場になっている。ボスモンスターがいる封鎖エリアだ。
引き返さなきゃ。
そう思った私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
追いかけてきたスライムたちが、私ではなく、その鉄柵に群がっていたのだ。
ジュワアアアア……ッ。
鉄柵が、酸で飴細工のように溶け、崩れ落ちていく。
「あ……」
封印が、破られた。
崩れた柵の向こう、暗闇の中から、巨大なヒュージスライムが現れる。
さらに、周囲の小型スライムたちが一斉に飛び上がり、ヒュージスライムの体へと吸い込まれていった。
数百、数千のスライムを飲み込み、膨れ上がった巨体が、急速に収縮を始める。
ギュウウウウウ……ッ!
空気が軋むような音と共に、青かった体が、見る見るうちに銀色へと変色していく。
そして、現れたのは――私と同じくらいの大きさの、輝く銀色の球体だった。
「うそでしょ……あれは、鋼スライム!?」
Bランクの中でも高位に位置する、希少種にして強敵。
柔らかいはずのスライムが、金属以上の硬度と重量密度を手に入れた姿。
ギンッ!
銀色の閃光が走った。
ドゴォッ!!
「が……っ!?」
腹部に、巨大なハンマーで殴られたような衝撃が走った。
体が宙に浮く。痛みを感じる間もなく、私は吹き飛ばされ、背後の大木に叩きつけられた。
「あ、ぐ……ぅ……」
息ができない。肋骨が何本か折れたかもしれない。
銀色の球体が、地面に着地し、再びこちらを狙うように震えた。
次は、頭だ。
避けられない。動けない。
(死ぬ……。クラウス……最後に会いたかった、な……)
死を覚悟し、目を閉じたその時。
「エレナァアアアッ!!」
横合いから、誰かが飛び込んできた。




