『うたたねと、薬師の受難にゃ』
バウマン家の屋敷の二階、少年クラウスの部屋。
窓を開け放つと、街の方から賑やかな笛や太鼓の音が風に乗って流れてきた。
(……ああ、そうか。今日は『収穫祭』か)
窓際の特等席で丸くなっていた俺――ノワール(中身は三十歳)は、眼下の街並みを眺めて目を細めた。
街は大通りを中心に色とりどりの旗で飾られ、屋台の準備をする香ばしい匂いがここまで漂ってくる。
年に一度、王都が最も浮かれ騒ぐ日。
だが、そんな世間の浮足立った空気などどこ吹く風で、庭からは気合の入った声が聞こえてくる。
「ぐぬぬぬぬ……頭が、割れるぅうう!」
庭から、少年クラウスの悲鳴にも似た気合が聞こえてくる。
彼は今、庭の木陰で座禅を組み、魔力回路の拡張トレーニングに励んでいる。その膝の上には、俺が読ませたあの本『魔力回路の可塑性と二十歳の壁に関する一考察』が開かれていた。
そこにははっきりと書かれている。『限界を超えた魔力圧縮こそが、器を広げる唯一の道である(ただし、脳が割れるほど痛い)』と。
「ううっ……痛い、もう無理だ……祭りに、行きたい……!」
少年クラウスの心が折れかける。
そのタイミングを見計らって、俺は窓辺から身を乗り出し、最高に愛らしい声色を作って鳴いた。
「にゃ~ん(訳:あきらめるな、歯を食いしばれ)」
首をかしげ、つぶらな瞳で見つめる「応援ポーズ」。
その効果は絶大だった。
≪スキル【思考誘導】が発動中……成功しました≫
「はっ……! ノワールが見ている……! あんなに可愛い声で応援してくれているのに、俺が弱音を吐いてどうする!」
少年クラウスの瞳に、狂気じみたやる気の炎が宿る。
彼は再び目を閉じ、うめき声を上げながら魔力圧縮を再開した。
(……ふふっ。チョロいもんだ)
俺は内心でほくそ笑む。
念話などなくても、この【思考誘導】と「猫の可愛さ」があれば、こいつを地獄の特訓に駆り立てることなど造作もない。
俺は、そんな彼の頑張りを窓から高みの見物と決め込み、優雅に毛づくろいに勤しんでいたのだが……。
――ピコン。
不意に、脳内で電子音が鳴った。
《対象【エレナ・ファルク】への癒しを確認》
(……へ?)
眠気でぼんやりしていた意識が、一瞬で覚醒する。
エレナ?
その名前に、俺の心臓がドクンと跳ねた。
エレナ・ファルク。俺の幼馴染であり、バウマン家の近所に住むポーション屋の娘。
真っ赤なポニーテールと、勝ち気な翠の瞳が印象的な少女。
俺は慌てて窓枠に前足をかけ、外を覗き込んだ。
眼下の通りに、一人の少女が立ち止まっていた。
大きな薬草カバンを肩にかけ、こちら――窓辺にいる俺を、うっとりとした表情で見上げている。
(……エレナだ。間違いない、十四歳のエレナだ)
目が合った瞬間、彼女の顔がパッと明るく輝いた。
そして、俺に向かって嬉しそうに小さく手を振る。
その揺れるポニーテールには、鮮やかな「青いリボン」が結ばれていた。
(……なつかしい。またエレナに会えるなんて)
彼女は俺にニコリと微笑むと、何かを決意したような足取りで、軽やかに歩き出した。
向かう先は、祭りで賑わう広場――ではなく、人気のない森の方角。
その背中と、揺れる青いリボンを見た瞬間。
俺の脳裏に、三十年前の記憶が蘇った。
祭りの夜。
賑やかな音楽と、踊る人々の笑い声。
『おい、エレナは来てないか?』
十四歳の俺は、人混みの中で彼女を探していた。
新しいリボンを買ったと聞いていた。「似合うか見てほしい」と言われていた気がする。
だから俺は、祭りの広場でずっと待っていた。
けれど、彼女は現れなかった。
再会できたのは、翌朝のことだ。
変わり果てた姿で。
泣き崩れる彼女の両親の手の中にあったのは、**どす黒い血と泥にまみれ、千切れかけた「青いリボン」だけだった。
背筋に冷たいものが走る。
そうだ、思い出した。
あの日、俺はずっと祭りの会場で待っていた。彼女が森へ行っているとも知らずに。
この楽しい笛の音が、彼女へのレクイエムに変わる。
――今日だ。
この「収穫祭」の日こそが、エレナ・ファルクの命日だ。
(……行かせるかよ……ッ!)
俺は窓から飛び降りようとして、ガラスに顔面を強打した。
「ふぎゃっ!」
くそ、窓が閉まってる! 猫の体じゃ開けられない!
(ガキの俺! どこだ! 早く戻ってこい!)
俺は窓ガラスを爪でカリカリと引っ掻きながら、庭にいる少年に向かって必死に鳴き声を上げた。
「おいノワール! どうしたんだ、そんなに騒いで!」
少年クラウスが、汗だくで部屋に飛び込んできた。
俺の必死の鳴き声を聞きつけ、特訓を中断して戻ってきてくれたようだ。
「にゃあ! にゃ、にゃー!(遅いぞガキ! 緊急事態だ!)」
俺は窓ガラスをバンバンと叩き、外を指し示した。
もちろん、言葉は通じない。だが、俺にはスキルがある。
(伝われ……! 森だ! 危険だ! エレナが危ない!)
俺は【思考誘導】を全開にし、少年クラウスの脳内に「焦燥感」と「森の方角」、そして「エレナの顔」を強引に結びつけるイメージを送った。
「……う、なんだ?」
少年クラウスが、胸を押さえて顔をしかめる。
俺の誘導が効いている証拠だ。
「……急に、胸騒ぎが……。エレナ? 森の方角……?」
彼は窓の外を凝視し、脂汗を流している。
理由のない強烈な不安が、彼をせき立てている。
(……魅了した相手の心を塗り替えている。思った以上に強力なスキルだ。もしかしたら、あまり使いすぎないほうが良いのかもしれない)
だが、今はそんな悠長なことを考えている場合ではない。
「……いや、まさかな。でも、万が一ってこともある」
少年クラウスは、部屋の隅に立てかけてあった木剣――ではなく、父の真剣を掴んだ。
普段なら持ち出し厳禁の品だ。
「確かめに行く。……何もなけりゃ、それでいいんだ」
彼は窓を開け放ち、身軽な動作で屋根へと足をかける。
俺はその瞬間に、彼の肩へと飛び乗った。
「うおっ!? ノワール!?」
クラウスが驚いて振り返る。
俺は彼の服に爪を立て、「離れないぞ」と強くしがみついた。
「ついてくるのか? ……危ないから置いていきたいけど、降ろしている時間は惜しい!」
彼は俺を振り払うことなく、屋根を蹴った。
「飛ばすぞ! しっかり捕まってろ!」
「にゃっ!(合点承知!)」
少年クラウスは風のように屋敷を飛び出し、エレナの後を追って森へと駆け出した。
頼む、間に合ってくれ。
俺は祈るように前を見据えた。




