『Side:ジークフリート 穏やかなお茶会と吹き出す黄金湯にゃ!』
一方その頃。地上のバウマン家。
昼下がりの穏やかな日差しが降り注ぐ屋敷のテラスで、この家の当主である私、ジークフリート・バウマンは、愛妻のマリアと共にティーカップを傾けていた。
「……平和だな、マリア」
「ええ、あなた。紅茶が美味しいわ」
私は琥珀色の液体を口に含み、庭の緑を眺めながら目を細めた。
ここ最近、我がバウマン家の空気は劇的に良くなっている。
少し前までは、借金取りの足音が聞こえるたびに胃を痛め、領民たちの活気も失われかけていたというのに。
変化のきっかけは、間違いなくあの「黒猫」――ノワールが来てからだ。
何より、息子のクラウスの成長が著しい。
あいつは若い頃の私に似て、とにかく無鉄砲で正義感だけが空回りする危なっかしい奴だった。
だが今はどうだ。
その直情的な熱意はそのままに、剣筋には迷いがなくなり、どこか達観したような落ち着きすら感じる。
あの猫が来てから、あいつの努力が正しく「力」に結びついているようだ。
親バカと言われるかもしれないが、最近の息子の頼もしさには、元Sランク冒険者である私も舌を巻くほどだ。
それに、屋敷も賑やかになった。
元々ポーション店の店員だった、『剣聖』の職業持ちである天才少女エレナ嬢に、それに引けを取らない才能を持つ文武両道のミア嬢。
将来有望なんてレベルではない傑物たちが、毎日のように我が家の裏庭に潜りに来ている。
「ふふ。今日もあの子たち、張り切って裏庭へ行ったわね」
マリアがクスクスと笑う。
「ああ! 日々の鍛錬、誠に素晴らしい! ……まあ、あそこに出るのは低レベルの小さなゴブリン程度だ。物足りないかもしれんがな」
私が苦笑しながら、カップをソーサーに戻そうとした、その時だった。
ズズズズズ……。
微かな地鳴り。
カップの中の紅茶が、同心円状の波紋を描いた。
「……ん?」
最初は、小さな揺れだった。
だが、それは瞬く間に、屋敷全体を揺らすほどの振動へと変わった。
ガタガタガタガタッ!!
「きゃっ!?」
「マリア!」
私は反射的にマリアの肩を抱き寄せた。
地震か?
いや、違う。この揺れ方、震源が浅い。
まるで、直下の地面そのものが突き上げられているような――。
二人の視線が鋭く交差した。
冒険者としての長年の勘が、警鐘を鳴らしている。
「あなた、裏庭よ!」
「ああ! あそこには子供たちが!」
私たちは同時に立ち上がり、テラスの手すりを飛び越えた。
眼下に広がるのは、ただの庭ではない。
「裏庭」と呼ぶにはあまりに広大すぎる、屋敷の面積の二十倍はある荒野のような敷地だ。
ヒュオオッ!
空中に飛び出した瞬間、マリアが短く詠唱する。
私の体に柔らかな風が纏わりつき、着地の衝撃を完全に相殺した。
そして、地面に足がつくと同時に、今度は背中を押すような追い風が吹く。
「行くわよ!」
「ああ!」
加速魔法。
言葉を交わす必要すらない。
現役時代、数多の修羅場を共に潜り抜けてきた私たちの連携は、錆びつくどころか洗練されていた。
風を切り、裏庭の奥へと疾走する。
だが、近づくにつれて、肌を刺すような熱気と、硫黄の臭いが漂ってくるのが分かった。
「熱い……! なんだ、この地熱は」
「地下で何かが爆発的な熱量を発しているわ。これじゃまるで、火山の噴火口の上にいるような……!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りが最大音量に達する。
裏庭にある、かつて封鎖したはずの「廃棄ダンジョン」の入り口。
その周囲の地面が、脈打つように隆起し、亀裂が走った。
「マリア、下がれ! 何かが来るぞ!」
「ええいっ、とにかく退避だ! 巻き込まれるぞ!!」
私がマリアを抱えて飛び退いた、その直後だった。
ドッパァァァァァァァァァァンッ!!!
ダンジョンの入り口が、内側から弾け飛んだ。
そして、空高く噴き上がったのは、溶岩でも魔物でもない。
白濁した、熱湯の大水柱だった。
「うわぁっ!?」
「きゃあぁっ!」
ザバアアアアアッ!
降り注ぐ熱湯の雨。
荒野の木々がなぎ倒され、地面が一瞬で泥沼と化す。
視界が真っ白な湯気に包まれ、私たちは全身ずぶ濡れになった。
「……お、湯?」
「温泉……なのか?」
私は呆然と、前方を見つめた。
そこには、古びたダンジョンの入り口の代わりに、勢いよく湯を吹き上げる巨大な間欠泉が誕生していた。
「ゲホッ、ゲホッ……! し、死ぬかと思った……」
湯煙の向こうから、聞き慣れた声がした。
「クラウス!」
目を凝らすと、噴き出したお湯の流れに乗って吐き出されたのか、ダンジョンの入り口付近に折り重なって倒れている子供たちの姿があった。
クラウス、エレナ嬢、ミア嬢。
そして、クラウスの頭の上には、濡れ鼠になった黒猫ノワール。
「無事か!? いったい何が――」
私が駆け寄ろうとした時だ。
ふらりと立ち上がったミア嬢が、私の存在など目に入っていない様子で、足元に流れるお湯を指ですくった。
そして、ペロリと舐める。
「……硫黄、ナトリウム、そして……この異常なまでの高濃度魔素含有量」
ミア嬢の瞳が、チャリーン、という音と共に「¥」のマークに変わったように見えた。
彼女は濡れた顔を拭うこともせず、クラウスの頭上の猫に向かって真剣な表情で話しかけた。
「ノワール様。……金です」
「にゃ?」
「これはただのお湯ではありません。浸かるだけで魔力を回復させ、傷を癒やす、天然の『ポーション風呂』です。市場価値に換算すれば、一杯で金貨一枚……いえ、継続的な観光資源と考えれば、国家予算規模の収益が見込めます」
ミア嬢の声が、興奮で微かに震えている。
「つまり、裏庭から『液体状の金塊』が噴き出したも同然です。……どうしますか? 早速、商業ギルドに登録して権利を確定させますか? それとも、まずは秘密裏に独占して、高値で売りさばきますか?」
「にゃあ」
ノワールはクラウスの頭から軽やかに飛び降りると、トコトコと源泉のほとりまで歩み寄った。
そして、湯気を上げるお湯をペロリと舐める。
「にゃっ!」
短く、力強い鳴き声。
それを見たミア嬢が、バッ!と背筋を伸ばした。
「……なるほど。GOサインですね! 『品質に問題なし、直ちに計画を進めよ』と! 承知しました。では、成分分析と効能のデータ化を急ぎます」
ミア嬢は恭しく一礼し、手帳を取り出して猛烈な勢いでメモを取り始めた。
「…………」
私は、その光景をポカンと口を開けて見ていた。
いや、待て。
おかしいだろう。
ここはバウマン家の敷地だ。
そして、私はこの家の当主であり、領主だ。
なぜ、バウマン家史上最大の発見の報告と相談が、私ではなく「飼い猫」に行われているんだ?
「……なぁ、マリア。私の目がおかしいのかな。今、あの子たち、猫と経営会議をしていなかったか?」
「あらあら、ふふふ。いいじゃないですか、あなた」
マリアは濡れた髪を直しながら、呑気に微笑んだ。
「あの子に任せておけば、きっと全てうまくいくわよ。だって、私たちの息子をあんなに頼もしく育ててくれたんですもの」
「……う、む。まあ、そうなんだが……」
私は釈然としない思いを飲み込み、目の前で湧き上がる黄金の温泉を見上げた。
まあ、いいか。
細かいことを気にするのはよそう。息子たちは無事だったし、何やら領地の赤字も吹き飛びそうなものが湧いたらしい。
いい方向に進むのであれば、それを主導するのが猫だっていいじゃないか。
――などと、私が現実逃避気味に安堵していた、その時。
「……ん? おい、マリア。あそこを見ろ」
湯気が晴れ始めた噴出孔の奥。
真っ暗な大穴の底から、ゆらりと「何か」が這い上がってくるのが見えた。
「ま、まさか、まだ続きがあるのか……?」
私の呟きに答えるように、その巨大な影は、ぬっと地上へ顔を出した。
それは、温泉の発見よりもさらに衝撃的な、伝説との遭遇だった。




