『規格外の遭遇と、起死回生の肉球だにゃ』
死。
あまりにも濃密なその気配に、空間そのものが凍り付いていた。
目の前に鎮座するのは、巨大な龍。
全長は優に三十メートルを超えるだろうか。
紅蓮の鱗はマグマのような熱を放ち、吐き出される呼気だけで、周囲の岩がドロドロに融解していく。
「あ……あ、あ……」
クラウスの口から、酸素不足の魚のような音が漏れる。
無理もない。俺の目から見ても、今の彼は立っているのがやっとだ。膝がガクガクと震え、剣を持つ手から力が抜け落ちそうになっている。
あの勇敢なクラウスが、完全に萎縮している。
それは、天才二人も同様だった。
「う、そ……こんな、生き物が……」
エレナの顔からは血の気が完全に失われている。
腰の剣に手を伸ばそうとしているが、指が凍りついたように動いていない。生物としての格の違いを、鋭敏な感覚が理解してしまったのだろう。
そして、ミア。
彼女はブツブツと何かを呟いていた。
その表情は、いつもの冷静な無表情ではない。瞳孔が揺れ、冷や汗が頬を伝っている。
おそらく、生存確率を計算し、その結果が「万に一つもない」という絶望的な答えに行き着いた顔だ。
(……くそっ、なんでだ!)
俺はリュックの中で歯を食いしばる。
歴史が変わった。14年後に目覚めるはずの古龍が、なぜ今ここにいる?
俺が過去に戻ったことで、何かの歯車が狂ってしまったのか?
だが、原因を考察している時間はない。
全員、死ぬ。
このままでは確実に消し炭だ。
『……ほう?』
脳内に直接、重厚な響きが流れ込んできた。念話だ。
念話を自在に操る存在。俺の知る限り、そんな存在は1つしかない。
神話の時代から生きる伝説の怪物、古龍だ。
翠玉の瞳が、ギョロリと俺たちを――いや、俺を捉える。
『ここ数日、我が寝床に漂ってきた芳醇な魔力の香り……その正体は、貴様か』
巨大な鼻先が、リュックのすぐ目の前まで迫る。
スゥーッ……と、俺の匂いを深く吸い込む音。
『貴様、ただの獣ではないな? この溢れ出る魔力……下等な人間どもとは質が違う。実に美味そうだ』
龍が舌なめずりをした。
その巨大な舌だけで、俺など一飲みにできるサイズだ。
『我は腹が減っているのだ。目覚めの食事には丁度いい』
俺を食う気か!
俺は必死にリュックから飛び出し、クラウスの前に立った。
せめて、クラウスから離れて注意を引かなければ。
「にゃあぁぁぁっ!(逃げるにゃクラウス!)」
俺は叫んだ。
だが、クラウスは動かなかった。
「……だす、な……」
震える手で、クラウスは再び剣を握り直していた。
ガチガチと歯を鳴らし、涙目になりながら、それでも彼は、俺と龍の間に剣を突き出したのだ。
「僕の……ノワールに……手を、出すな……ッ!」
蚊の鳴くような声。へっぴり腰。
それでも、この臆病で優しい少年は、最強の捕食者を前にして、俺を守ろうとした。
(……馬鹿野郎)
勝てるわけがない。瞬殺されるに決まっている。
『……邪魔だ、羽虫』
龍にとっては、クラウスの決死の行動など、視界の端のゴミ程度にしか映らなかったらしい。
龍が鬱陶しそうに鼻息を吐く。それだけで暴風が巻き起こり、クラウスの体が吹き飛ばされそうになる。
龍が、巨大な顔を近づけ、パックリと顎を開いた。
クラウスごと俺たちを丸呑みにする気だ。
どうする? どうすれば助かる?
ひとつだけ分かったことがある。こいつは肉を食べて腹を満たしたいわけではない。
こいつの目的は魔力だ。俺の魔力で腹を満たしたいようだ。
なら、くれてやる!
俺の持てる全てを、こいつの鼻先に突っ込んでやる!
俺はクラウスの肩に飛び乗り、さらに跳躍した。
迫りくる巨大な顔面へ向かって。
「ノワール!?」
クラウスの悲鳴を背に、俺は空中でくるりと体をひねった。
目の前には、巨大な龍の鼻先。
俺は右前足を振り上げ、渾身の魔力を込めて――!
《スキル【魔力譲渡】を発動します》
「にゃあああああああっ!!(食らええええええっ!!)」
――ぺし。
静寂な広場に、間の抜けた音が響いた。
俺の肉球が、硬い龍の鼻先に吸い付くようにヒットしている。
『……?』
龍の動きが止まった、その瞬間。
ズォォオオオオ!
俺の肉球から、黄金の奔流が噴き出した。
超高密度の魔力の塊。
俺の体内に蓄積されていた膨大な魔力が、ダムが決壊したように龍の鼻先へと流れ込む。
『――ッ!?!?』
龍の目が、限界まで見開かれた。
拒絶ではない。歓喜だ。
干上がっていた大地に水が染み込むように、龍の体は俺の魔力を貪欲に飲み干していく。
『ぬおおおぉぉぉぉぉッ!? なんだ、これは!?』
龍の咆哮が洞窟を揺らす。
『濃い! 甘い! 深い! かつて味わったことのない、極上の魔力だ! 力が……力が溢れてくるぅぅぅぅッ!』
龍の全身が紅蓮に発光し始めた。
俺の魔力が強すぎたのだ。枯渇していた龍の魔力回路が一気に満たされ、オーバーヒートを起こしかけている。
龍は快感に打ち震え、制御できない力の昂ぶりを持て余していた。
『う、美味いぃぃッ! う、美味いが……!? ああん! た、耐えられぬ!! 魔力が! 溢れるぅぅぅッ!!!!』
まずい。
龍が大きく息を吸い込んだ。
口の奥で、圧縮された炎が白く輝き始める。
ブレスだ。力の奔流を吐き出そうとしている!
この距離で撃たれれば、俺たちは骨も残らない。
だが、龍の視線が俺と合った瞬間、その理性がギリギリでブレーキをかけた。
『いや、待て! こやつを殺せば、この極上の“餌”は二度と食えぬ!』
龍の首が、ギギギッと無理やり横へ逸らされる。
俺たちを避けた矛先。
そこは――地面だった。
『ぬおおおぉぉぉぉぉッ!!』
ズドォォォォォォォォォォンッ!!
龍の口から放たれた極太の熱線が、広場の床を貫いた。
岩盤が飴細工のように溶解し、凄まじい熱量が地底深くまで突き刺さった。
(なんて威力だ。地面の底が見えないぞ。……ん? なんだ、この音は?)
……ゴゴゴゴゴ! ゴゴゴゴゴゴゴボッ! ゴボッ!!!
足元の揺れが次第に大きくなり、不穏な何かが地面から近づいて来ていた。




