『ボス猫の懐柔と癒しの空間計画にゃ』
翌日の夜。
俺は再び、路地裏の奥深くにある「猫の集会所」を訪れていた。
ただし、今日は一人(一匹)ではない。
俺の隣には、大きな鞄を抱え、伊達眼鏡を光らせる少女――ミア・スターリングが立っている。
「……ここが、例の場所ですか」
ミアは周囲の淀んだ空気を吸い込んでも、眉一つ動かさない。
さすがはスラム育ち。肝が据わっている。
俺たちが足を踏み入れると、すぐさま周囲の闇から無数の目が光った。
「「「……おい、昨日の新入りだ」」」
「「「人間連れだぞ。どういうつもりだ?」」」
チャドを筆頭に、昨日俺を取り囲んだ野良猫軍団が現れる。
彼らの視線は鋭く、警戒心に満ちている。
そして、その奥からゆらりと巨体が現れる。
隻眼のボス、ロビンだ。
「……また来たか。懲りない奴め」
ロビンは俺を一瞥し、そして隣に立つ人間の少女――ミアへと視線を移した。
「人間まで引き連れて、何の真似だ。……我輩たちを売り渡す気なら、容赦はせんぞ」
力強い唸り声。
ミアには言葉の意味は分からないはずだが、その殺気だけで意図は伝わっただろう。
だが、ミアは動じなかった。
彼女はロビンの前に進み出ると、優雅にスカートの端を摘んで一礼した。
「お初にお目にかかります。バウマン家にて家政婦兼経理を担当しております、ミアと申します」
「……人間の小娘が、猫に挨拶か」
ロビンが鼻を鳴らす。
ミアは眼鏡の位置を直し、俺の方を見た。
俺は尻尾を立てて、「始めてくれ」と合図を送る。
「本日は、貴方様および、ここにいる全ての猫様たちに――"商談"を持ってまいりました」
ミアは鞄から分厚い書類(と、最高級の干し肉の香り)を取り出し、地面に広げた。
「現在、貴方様たちはヴァイスハイト伯爵と『契約』を結んでいると推測されます。ですが、その労働条件は劣悪です」
ミアは淡々と、まるで企業のプレゼンテーションのように語る。
ロビンはじっとその書類を見つめている。賢い彼なら、数字や図の意味くらいは理解できるかもしれない。
「報酬は残飯と、駆除されないという消極的な安全のみ。しかも、相手は貴方様たちを『道具』としか見ておらず、用済みになれば切り捨てるつもりでいる。……典型的な搾取構造です」
難しい言葉だが、ミアの真剣な声音と、提示された図(ヴァイスハイトが猫を蹴る絵と、バウマン家が猫を撫でる絵の比較図)を見て、猫たちもざわめき始めた。
チャドたちが悔しげに耳を伏せる。
「そこで、バウマン家からの提案です。……我々は、貴方様たちを"正規雇用"としてお迎えしたい」
ミアが次のページをめくる。
そこには、夢のような条件が記されていた。
一、一日三食の食事(カリカリ・猫缶・おやつ付き)。
二、雨風をしのげる温かい寝床と、清潔なトイレの完備。
三、専属スタッフ(私とクラウス様)による、極上のブラッシングとマッサージ。
ゴクリ……。
チャドの喉が鳴る音が聞こえた。
野良猫にとって、それは夢のような条件だ。
だが、ロビンだけは鋭い眼光を崩さなかった。
「……美味すぎる話だ。対価はなんだ? 我輩たちに、何をさせたい?」
ロビンが俺の方を向いて低く問う。
俺は通訳として、ミアの前に立って答えた。
「にゃあ(情報だ。お前たちが持っている、ヴァイスハイトの『裏取引の証拠』を回収してほしい)」
俺の言葉に、ロビンが息を呑む。
それは、飼い主への完全なる裏切り行為だ。
だが。
「……我輩たちは、道具ではない」
ロビンは独り言のように呟いた。
そして、後ろにいる部下たち――痩せこけたチャドや、傷ついた仲間たちを見渡した。
彼らは皆、ミアが提示した「温かい寝床」の絵を見て、憧れるような目をしている。
ロビンは知っているはずだ。
ヴァイスハイトについても、いずれ自分たちが捨てられる運命にあることを。
守るべきは、冷酷な主人か、それとも家族の未来か。
答えは、最初から決まっていた。
「……いいだろう」
ロビンは、ミアの前に歩み出た。
そして、契約書の上に、ドンと自身の肉球を乗せた。
「乗った。……ただし、我輩の家族たちに、二度とひもじい思いをさせないことが条件だ」
その言葉(鳴き声)の意味を、ミアは正確に汲み取ったようだ。
彼女はふわりと微笑んだ。
それは計算高い商人の顔ではなく、猫を愛する一人の少女の顔だった。
「お約束します。……ようこそ、バウマン商会へ」
――契約成立。
この瞬間、バウマン家は街最強の情報網を手に入れた。
「よし、野郎ども! 仕事だ!」
ロビンが振り返り、隻眼を光らせて号令をかけた。
「街中の仲間を総動員しろ! ギルド、屋敷、取引現場……ありとあらゆる場所から、ヴァイスハイトの"汚い腸"を引きずり出してこい!」
「「「オオォォォォォッ!!」」」
猫たちの雄叫びが響き渡る。
これで勝った。俺がそう確信した時だった。
ふと、ロビンが契約書の一文を前足でトントンと叩いた。
「……おい、ノワール。一つ聞きたい」
「ん? なんだ?」
「情報の対価として、我輩たちが協力する事業……『人間に癒しを与える事業』とあるが、これは具体的に何をするんだ?」
ロビンが指差したのは、"新規事業計画"の項目だ。
そこには、詳しい説明はなく、ただ『お客様に癒しを提供する簡単なお仕事です』とだけ書かれている。
俺はニヤリと笑い、ミアに視線を送った。
ミアは、ロビンの疑問を察したかのように、眼鏡をキラリと光らせた。
「ああ、その項目が気になりますか? ご安心ください」
ミアはパンパンと手を叩き、背後の闇に向かって声をかけた。
「エレナ様、準備をお願いします」
「はーい!」
元気な返事と共に、茂みからエレナが飛び出してきた。
その手には、湯気の立つたらいと、大量のタオル、そして――フリフリの衣装が握られていた。
ロビンの動きが止まる。
「まずは身だしなみからです」
ミアが真顔で宣言した。
湯気の立つたらいを前に、ロビンの隻眼が見開かれる。
「……まて。嫌な予感がする」
ロビンが後ずさりする。
歴戦の勘が、最大級の警鐘を鳴らしているようだ。
だが、もう遅い。
「お客様、契約書にサインされましたよね?」
俺はニヤリと笑った。
そして、逃げ場を塞ぐようにエレナが満面の笑みで迫る。
「さあ、こちらですよー猫ちゃん。可愛くなりましょうねえ」
「……は? かわいくだと……? きさまら、なにを……うわぁぁぁッ!?」
抵抗も虚しく、裏社会のボス猫・ロビンは、二人の少女によって捕獲され、湯気の立つたらいへと連行されていった。
路地裏に、情けない悲鳴がこだまする。
仁義なき戦いの幕開けは、まさかのお風呂タイムから始まったのだった。




