『夜の街と謎の老猫だにゃ』
夜の街。
石造りの家々が静まり返り、魔力灯の淡い光だけが路地を照らしている。
俺は屋根の上を、音もなく駆けていた。
風が心地よい。
人間だった頃は、夜道など強盗に怯えて歩くしかなかったが、猫の身体なら関係ない。暗闇は俺の友だちだ。
(……さて。まずは情報収集だ)
俺の目的は、冒険者ギルドとヴァイスハイト伯爵の癒着を暴く証拠――奴らが交わした『裏取引の記録』や『賄賂の証拠』を探ることだ。
だが、いきなりギルドの本丸に突っ込むのは危険すぎる。警備が厳重だし、万が一捕まれば「迷い猫」として保健所行きになりかねない。
まずは外堀からだ。
ギルドに出入りしている業者や、関係者の動きを探り、そこから綻びを見つける。
猫の特権を活かして、奴らの生活圏に潜り込んでやる。
(手始めに、あの店から行くか)
俺は眼下にある、一軒のパン屋に目をつけた。
『こむぎ亭』。
街一番の人気店だが、店主は「パン作りに妥協は許さん!」と客にすら怒鳴り散らす頑固親父で有名だ。ギルドの支部長とも繋がりがあり、頻繁にパンを差し入れているという噂を聞いていた。
もしかしたら、支部長の好物や、裏の顔を知っているかもしれない。
俺は通気口の隙間から、厨房へと忍び込んだ。
明かりがついている。親父が一人で明日の仕込みをしているようだ。
(……しめしめ。何か独り言でも漏らさないか?)
俺は小麦粉の袋の影に隠れ、様子を窺った。
筋肉質の親父は、巨大な生地をこねながら、何かをブツブツと呟いている。
「おいしくな~れ……おいしくな~れ……♪」
(……は?)
俺は耳を疑った。
あの強面の親父が、裏声で歌っている。
それだけではない。親父は生地を空中に放り投げると、その場でくるりとターンを決め、着地した生地を優しく抱きしめた。
「萌え萌えキュン♡ これで明日のパンもバッチリだぞっ☆」
(……うわぁ……)
見てはいけないものを見てしまった。
これが「隠し味」の正体か。知りたくなかった。
俺がドン引きして後ずさった拍子に、積んであったボウルがガシャンと崩れた。
「ひぃっ!? だ、誰だ!?」
親父が血相を変えて振り返る。
見つかった。
殺される――と身構えたが、親父は俺の姿、つまり黒猫を見るなり、その表情をデレデレに崩壊させた。
「なんだぁ~、ニャンコちゃんかぁ~♡ ビックリさせないでくれよぉ~」
親父は俺を抱き上げると、その剛毛の頬をスリスリと擦り付けてきた。
「お前も、おじさんのダンス見たかったのかぁ? 内緒だぞぉ~? よーしよしよし」
(……やめろ! 加齢臭が移る!)
俺は必死に逃げ出した。
情報は得られなかった(いや、パン屋の親父が隠れアイドル志望だというどうでもいい情報は得た)が、一つ確信したことがある。
人間は、猫の前ではあまりにも無防備だ。
気を取り直して次に向かったのは、冒険者御用達の『鋼鉄武器店』だ。
ここの店主は、全身傷だらけの元Aランク冒険者。眼光鋭く、客にも愛想を振りまかない硬派な男だ。こいつなら、もっと硬派な情報を握っているはずだ。
俺は窓の隙間から店内を覗いた。
店主はカウンターの奥で、真剣な顔で何かを見つめている。手には針と糸。
(……武器の手入れか? いや……)
よく見ると、彼の手にあるのは剣ではない。
ピンク色の、フリフリがついたクマのぬいぐるみだった。
「……くそっ、ここの縫い目が甘いな。リボンちゃん、今直してやるからな……痛くないぞ……」
強面の巨漢が、極小の針を震える手で操り、ぬいぐるみのほつれを直している。
その顔は、聖母のように慈愛に満ちていた。
「にゃあ(お邪魔しました)」
俺が思わず声を漏らすと、店主がビクッと顔を上げた。
目が合う。
数秒の沈黙。
店主は無言で立ち上がると、棚から最高級の干し肉を取り出し、俺の前にそっと置いた。
「……見たことは、忘れてくれ」
その目は、男同士の奇妙な連帯感を訴えていた。
俺はジャーキーを咥え、静かにその場を去った。
◇
帰り道。
俺は屋根の上を歩きながら、夜空を見上げて溜息をついた。
(……どいつもこいつも、裏の顔が濃すぎるだろ)
だが、収穫はあった。
人間は、「たかが猫」だと思って油断する。秘密の趣味も、隠したい本性も、猫の前ではさらけ出す。
つまり、今の俺は――世界で最も警戒されないスパイになれるということだ。
「へへっ……こりゃあ、使えるな。この街の秘密は、全部俺のもんだ」
俺は興奮のあまり、独り言を漏らした。
もちろん、人間の言葉ではなく、猫の鳴き声として喉から出たつもりだった。
「ニャー、ニャー、フフン(人間なんてチョロいもんだな)」
すると。
不意に、すぐ近くの暗がりから、低い声が返ってきた。
「全くだ。人間ってのは、どうしてああも間抜けなんだろうな?」
「……へ?」
俺はギョッとして足を止めた。
声がした方を見る。
そこには、塀の上に座って毛づくろいをしている、一匹の薄汚れた茶トラの野良猫がいた。
(……え? 今、こいつが喋ったのか?)
いや、違う。俺の耳には、確かに「人間の言葉」として意味が入ってきた。だが、鼓膜が捉えた音は「ニャーン」という鳴き声だ。
《種族特性【猫言語】の習熟度を確認。翻訳機能を常時オンにします》
脳内に、無機質なシステム音が響く。
「……おい、茶トラ。お前、今なんて言った?」
俺がおそるおそる問いかけると、茶トラは面倒くさそうに片目を開けた。
「ああん? だから、『人間は間抜けだ』って言ったんだよ。……なんだ新入り、耳が遠いのか?」
通じた。
俺の言葉が通じて、相手の言葉がわかる。
(……マジかよ。俺、猫と会話できるのか!?)
その事実に気づいた瞬間、俺の脳裏に、とんでもない計画が閃いた。
俺一匹で集められる情報には限界がある。
だが、もし。
この街に住む何百、何千という猫たちと「会話」し、彼らを「手下」にすることができたら?
(……最強の情報ネットワークが、作れるじゃないか!)
俺はニヤリと笑った。口元から鋭い牙が覗く。
そうと決まれば善は急げだ。まずはこの辺りの猫を片っ端からスカウトしてやる。
俺は茶トラに向かって、尊大な態度で告げた。
「おい、そこの茶トラ。俺は今日からこの街を仕切ることにした。お前、俺の部下になれ。カリカリ(餌)くらいは分けてやるぞ」
我ながら完璧なスカウトだ。
だが、茶トラの反応は意外なものだった。
彼は怯えるどころか、憐れむような目で俺を見たのだ。
「……おいおい、新入り。冗談は顔だけにしときな。ここが誰のシマだか知らねえのか?」
「シマ? 知らん。今日から俺のシマだ」
「……プッ。言ったな、お前」
茶トラが口笛を吹くように高く鳴いた。
その瞬間だった。
ザッ、ザッ、ザッ……。
周囲の屋根、塀の影、路地裏のゴミ箱の裏。
ありとあらゆる暗闇から、無数の目が光った。
「「「挨拶もなしにデカい口叩くじゃねえか、新人」」」
現れたのは、耳が欠けた黒猫、傷だらけのブチ猫、異様に筋肉質な三毛猫……。
どう見てもカタギではない、百戦錬磨の野良猫軍団だった。
その数、およそ30匹。
俺は瞬く間に包囲されていた。
(……あ、これヤバいやつだ)
俺の【危機察知】が遅まきながら警鐘を鳴らす。
猫の世界にも、人間社会以上に厳しい「仁義」と「上下関係」があるということを、俺は失念していた。
猫の壁が割れ、その奥から、一際大きな影がゆっくりと歩み出てきた。
長い毛並みを持つ、巨大なメインクーン。
その体躯は普通の猫の倍はあり、全身に刻まれた無数の傷跡が、彼が潜り抜けてきた修羅場の数を物語っている。
そして何より特徴的なのは――左目を縦に走る大きな古傷と、固く閉じられた瞼。
「……騒がしいな。夜風を楽しんでいたんだが」
その猫が低い声で唸ると、周囲の荒くれ猫たちが一斉に道を空け、頭を垂れた。
「へっ、へい! すいやせん親分! イキった新入りが、シマを寄越せとかほざいてやがりまして!」
茶トラが揉み手をするように報告する。
「親分」と呼ばれた隻眼の巨猫は、俺の目の前まで来ると、残った右目でジロリと俺を値踏みした。
「ほう……。挨拶もなしに俺のシマを荒らすとは、いい度胸だ。どこの飼い猫だ、小僧?」
その姿を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
知っている。
俺はこの猫を知っている。
(……嘘だろ。なんで「彼」が、今の時代にいる?)
未来の世界。
俺たちを追い詰めた宿敵・ガーラント。その傍らには、常に一匹の不気味な隻眼の猫が侍っていた。
その姿は、14年後の未来でも、今と全く変わらぬ「老成した巨猫」だったはずだ。




