『猫を巡る仁義なき戦いと、乙女の嫉妬にゃ』
時間を、数分だけ巻き戻そう。
二階で俺が、クラウスの特訓を見守っていた直後のことだ。
クラウスの頑張りに胸を打たれつつも、少し喉が渇いた俺は、水を飲みに一階のリビングへと降りていた。
だが、それがすべての間違いだった。
リビングのソファには、ポーション販売の帳簿付けを終えたミア・スターリングが待ち構えていたのだ。
俺と目が合った瞬間、彼女は無言で手招きし――そして現在、俺は彼女の膝の上で完全な拘束状態にあった。
「……んんぅ……。本日の売上、目標比120%達成……。素晴らしい成果です、ノワール様……」
ミアは俺の背中に顔をうずめ、深々と息を吸い込んでいる。
彼女の指が、俺の耳の後ろを絶妙な力加減で掻く。悔しいが、気持ちいい。このメイド、計算だけでなくマッサージの腕も一流だ。
「この利益があれば、来月には新しい調合器具が買えます。そうすれば生産効率はさらに上がり、私の吸える時間も増える……。完璧な計画です」
ミアは恍惚とした表情で、俺の肉球をプニプニと押している。
仕事中はあんなにクールな女王様なのに、猫の前ではただの変態だ。
だが、その平和(?)な時間は、唐突に終わりを告げた。
バンッ!!
玄関扉が破壊音と共に開かれた。
「ただいま戻りましたぁぁぁ! ああ疲れた! 死ぬ! 猫成分が足りなくて死んじゃう!」
ドタドタと入ってきたのは、ポーション製造(爆弾作り)のノルマを終えたエレナだ。
彼女は髪を振り乱し、血走った目で部屋を見渡し――そして、ミアの膝の上で寛ぐ俺を見つけた瞬間、その表情を般若のように歪めた。
「――あ」
室温が、一気に氷点下まで下がる。
「……おかえりなさいませ、エレナ様」
ミアは俺を抱く腕に力を込め、優雅に微笑んだ。だが、その目は笑っていない。
牽制。明確なマウントだ。
「……ミア。あんた、私のノワ様に何してるの?」
「何って、先ほど申し上げた通り、労働の対価としての『福利厚生』を受けているだけですが?」
「ふざけんな! あんたこそ、いつまで独占してんのよ! 泥棒猫!」
エレナが吠える。
ちなみに物理的な猫は俺だけだが、この文脈における泥棒猫はミアのことだ。
二人の視線がバチバチと火花を散らす。
「どきなさいよ。ここからは私のターンよ」
「お断りします。私の休憩時間はあと15分残っています」
「15分も待てるかぁぁぁ!!」
エレナが飛びかかった。
速い。常人なら目にも止まらぬ速度だ。
だが、ミアは表情一つ変えず、抱いていた俺をヒョイと頭上に掲げた。
「危ないですね」
エレナのタックルは、ミアが座っていたソファのクッションを弾き飛ばしただけだった。
ドガァァン!!
(……おいおい。こいつら、家の中で何やってんだ)
俺はミアの手の中で揺られながら、冷や汗をかいた。
このままでは俺が引きちぎられるか、圧死するかの二択だ。
「にゃあ!!(待て待て待て! 一旦落ち着け!)」
ドタドタと階段を駆け下りてきたクラウスが叫ぶが、乙女たちの耳には届いていない。
「逃がさないわよ! 音速剣!」
エレナの足元が青白く光る。
スキル【音速剣】の応用だろう。彼女の姿がブレる。
「……力押しですか。野蛮ですね」
だが、ミアは慌てる様子はない。対峙するつもりのようだ。
(やばい。ここは戦場になる)
俺は本能的な危機を感じ、ミアの腕から強引にすり抜けた。
スタッと床に着地する。
「あ! ノワ様!」
「ノワール様!」
二人の視線が俺に集中する。
俺は尻尾をピンと立て、窓の外を指し示し、短く鳴いた。
「ニャー!(俺を捕まえた方に、極上の肉球サービスをしてやる!)」
《スキル【思考誘導】が発動されました》
俺の声ではなく、脳に直接響く「欲望」として、その意味は伝播した。
二人の目の色が、ガッと変わる。
「……望むところよ!」
「……計算通りです」
ドォォン!!
二つの影が、窓枠を蹴り砕いて飛び出してきた。
ここからは、もはや鬼ごっこという次元ではなかった。
庭木を足場に三角飛びするエレナ。
それを追うミア。
……呆然とそれを眺めるクラウス。
「そこっ!」
エレナが神速の踏み込みで俺との距離を詰める。
捕まる――そう思った瞬間、横から割り込んだミアが、エレナの前に立ちはだかった。
「させません」
ミアは短く告げると、流れるような動作で左足を引いた。
踏み込み。腰の回転。
そして、無言のまま繰り出された右の掌底が、エレナの突進を正面から捉えた。
ズォォン!!
乾いた打撃音と共に、魔力の衝撃波が弾け、二人の足元の芝生が円形に吹き飛ぶ。
「なっ……嘘!? 私のスピードを止めた!?」
エレナが驚愕に目を見開く。
それを見ていたクラウスも、信じられないものを見るような目で叫んだ。
「お、おい! ミア! お前、そんな技使えたのかよ!?」
無理もない。
普段は物静かに帳簿をつけているだけのメイドが、剣聖の才能を持つエレナと互角に渡り合っているのだ。
だが、俺だけはその一撃の正体を理解していた。
(……間違いない)
あの独特な魔力の練り方。インパクトの瞬間に炸裂させる魔力放出。
あれは、未来で何度も見たミア女王の"十八番"――【魔力撃】だ。
まさか、Lv.5の段階で既に習得しているとは。
「いつの間にそんな戦闘力を!?」
クラウスの問いに、ミアは眼鏡の位置を指で直しながら、真顔で答えた。
「ふむ……私自身も驚いております。……が、必然」
彼女は、まるでそれが世界の真理であるかのように言い放った。
「これが、猫吸いの効果です!」
「いや、それはないだろ」
クラウスが即座につっこんだ。
猫を吸って魔力操作が向上するなら、世の魔導師たちは全員猫カフェに通っているはずだ。
(……やれやれ。未来の『ミア女王』の片鱗が見えてきやがったな)
まだレベルは低いはずだが、そのメンタルは既に完成されているらしい。
だが、そんな冷静な分析をしている場合ではなかった。
ヒートアップした二人の攻防が、徐々に場所を移していく。
「どきなさいよ! ノワ様は私の幼馴染なの!」
「関係の長さと愛の深さは比例しません!」
エレナが回避し、ミアが追撃の掌底を放つ。
その進行方向にあるのは――屋敷の「離れ」だった。
(……おい、待て。そっちはマズい!)
俺が制止しようとしたが、遅かった。
ミアの放った衝撃波の流れ弾が、エレナにかわされ、そのまま離れの壁を直撃した。
ドゴォッ!
薄い木造の壁が砕け散る。
そこは、エレナが作った「失敗作ポーション(爆弾)」の在庫――数百本もの赤い瓶が保管されている場所だった。
土煙の向こうで、棚が倒れる音がした。
そして、何百ものガラス瓶がぶつかり合う、不吉な音が響いた。
カシャン。
一瞬の静寂。
俺とクラウス、そして動きを止めた二人の乙女の視線が、一点に集中する。
直後。
世界が、真っ白に染まった。




