『宝の山は足元に? 没落貴族の秘策にゃ』
朝。
まどろみの中で、俺は「圧」を感じていた。
物理的な重さではない。もっとこう、粘度の高い、執着のような気配。
目を開ける。
視界いっぱいに、フリルがあった。白と黒の、クラシカルなメイド服の胸元だ。
「……すぅぅぅぅぅ――――……」
頭上から、掃除機のような吸引音が聞こえる。
俺の身体が、誰かの腕の中に固くロックされていた。
見上げると、そこには陶器のように白い肌と、長い睫毛があった。
ミアだ。
あの豚貴族の一件から、数日が過ぎていた。
バウマン家に保護された彼女は、「ただ飯を食うわけにはいきません」と自らメイド服(母さんの若い頃のお古だ)に袖を通し、今やこの屋敷になくてはならない存在となっていた。
掃除、洗濯、料理の補助。その仕事ぶりは、新人とは思えないほど完璧で、無駄がない。
だが、唯一の問題は――俺――黒猫ノワールへの、この「日課」だった。
「……んぷぁ」
彼女が顔を上げ、恍惚とした表情で息を吐く。
その瞳は、昨日の怯えきっていた少女のものとは別人のように、怪しく潤んでいた。
「……ノワール様。おはようございます。……今日も、素晴らしい吸い心地です」
(……キャラが変わっていないか?)
未来では、女王と呼ばれる存在のはずなのだが。
俺は前足でミアの顔をぺしりと押し返した。
だが、彼女はそれを「ご褒美」と受け取ったのか、さらに頬を擦り付けてくる。
「ミア、おはよう。……って、朝からノワールになにしてるんだ?」
あくびをしながらリビングに入ってきたクラウスが、その光景を見て引きつった笑いを浮かべた。
ミアは瞬時に表情を引き締め、淑やかなメイドの立ち姿へと戻る。
「おはようございます、クラウス様。ノワール様の毛並みチェックと、精神統一を行っておりました」
「せいしんとういつ……?」
「はい。この屋敷の家計簿と格闘するための、エネルギー補給です」
ミアはすっと真顔になり、テーブルの上に積まれた書類の山を指差した。
バウマン家の財政状況だ。
昨夜、俺がクラウスに指示し、父の書斎から引っ張り出させたものだが、その内容は惨憺たるものだった。
「借金の利息、屋敷の修繕費、そして昨日の騒動の事後処理……。ハッキリ申し上げまして、火の車です。自転車操業ですらありません。一輪車で崖の上を走っている状態です」
ミアの冷徹な分析が、朝の食卓に響く。
その言葉に反応したのは、上座に座っていた父ヴィルヘルムだった。
「むう……。すまん! ちと最近、出費が嵩んでしまってな! ガハハ!」
豪快に笑って誤魔化そうとしているが、そのこめかみには冷や汗が流れている。
母イザベラも、「あらあら、大変ですわねぇ」と呑気に紅茶を啜っている。
(……出費?)
俺は、父の言葉に違和感を覚えた。
豚貴族からふんだくった慰謝料は、かなりの大金だったはずだ。
いくら借金があるとはいえ、ここまで「火の車」になるほど、何に使ったというのか?
俺が疑念の目を向けていると、その時だった。
バンッ!!
屋敷の玄関扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで開かれた。
「うわあああああん! クラウスぅぅぅぅぅ!」
ドタドタと足音を響かせて飛び込んできたのは、幼馴染のエレナだった。
その背中には、彼女の身体ほどもある大きな木箱が背負われている。
彼女はリビングに入ってくるなり、その木箱を床に「ドン!」と置き、その場に崩れ落ちた。
「クビになっちゃったぁぁぁぁ!」
「はあ!? クビって、薬師ギルドをか!?」
クラウスが目を丸くする。
エレナは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
「うん……! 『お前の調合は繊細さが足りない』とか『混ぜるな危険って言っただろ』とか言われて……! 今日限りで破門だって……!」
「お、お前……何をやらかしたんだ……」
「何もしてないもん! ただ、回復薬の効き目を良くしようと思って、火炎草のエキスをちょっと多めに入れただけで……!」
(火炎草だと……?)
俺は耳を疑った。それは通常、着火剤に使われる素材だ。回復薬に入れるものではない。
俺はエレナが持ち込んだ木箱に近づき、中を覗き込んだ。
そこには、小瓶に詰められた赤黒い液体が、百本近く詰め込まれていた。
液体は不気味に明滅し、ポコポコと小さな気泡を上げている。
その瞬間。
俺の背中の毛が、バチバチと逆立った。
《スキル【危機察知】が反応しました》《対象物から『極めて不安定な爆発の予兆』を検知。危険度:中》
(……ッ!? なんだこれ、ただの失敗作じゃねえ!)
俺の本能が警鐘を鳴らしている。
回復薬だと思って飲んだら、胃の中で爆発して木っ端微塵だぞ。ギルドの親方がクビにするのも当然だ。これは医療ミスとかいうレベルではない。テロだ。
「これ、全部『廃棄処分してこい』って言われて……。材料費は私の給料から天引きだって……。私、もう路頭に迷うしかないの……?」
エレナが床に突っ伏して号泣する。
クラウスはどう声をかけていいかわからず、オロオロしている。
だが。
「……ほう?」
一人だけ、興味深そうに木箱を覗き込む人物がいた。
ミアだ。
彼女は涙に暮れるエレナを無視し、小瓶の一本を手に取って、太陽の光にかざした。
「エレナ様。これ、どのくらいの威力があるのですか?」
「え……? うーん……失敗した時に実験したら、実験用の机が木っ端微塵になったけど……」
「ふむ。机が、木っ端微塵」
ミアの瞳が、チャリン、と硬貨のような音を立てて光った気がした。
彼女の口元が、三日月のように歪む。
「クラウス様。そしてエレナ様」
「な、なんだよミア。そんな怖い顔して」
「これ、売れます」
ミアは断言した。
その手にあるのは、どう見ても産業廃棄物だ。だが、今の彼女にはそれが黄金に見えているらしい。
「売れるって……誰にだよ? こんな飲めない薬」
「『薬』として売るからいけないのです。発想の転換ですよ」
ミアは小瓶を軽く放り投げ、また手で受け止めた。俺とクラウスは「ヒッ」と息を呑んだ。
「冒険者にとって、ポーションは必需品。ですが、それと同じくらい『手軽な投擲武器』の需要は高いのです。特に、低ランクの冒険者は魔法が使えません。彼らにとって、投げて爆発する液体なんて、喉から手が出るほど欲しい『魔法の代用品』ですよ」
(……なるほど。そういうことか)
俺は感心して尻尾を振った。
この世界には火薬がない。魔道具は高価だ。
だが、この「失敗作」なら、薬草代だけで大量生産できる。
コストは安く、威力は高い。
「商品名はそうですね……『投擲用爆炎瓶』とでもしましょうか。キャッチコピーは『魔力がなくても、魔法は撃てる』。……これ、間違いなく跳ねますよ」
ミアがニヤリと笑う。
その顔は、清楚なメイドのものではなく、戦場を支配する女王――いや、獲物を狙う悪徳商人のそれだった。
「え、ええ!? 私の失敗作が、売れるの!?」
「はい。むしろ、もっと作ってください。バウマン家の借金、これで一気に返済します」
エレナの表情が、希望へと変わっていく。
クラウスは、頼もしくも恐ろしい少女を見つめ、ポツリと呟いた。
「……俺、この家の中で一番立場弱くないか?」
安心しろ、クラウス。
俺もそう思っている。
こうして、クビになったポンコツ薬師と、計算高い元売り子による、バウマン家起死回生の「爆弾ビジネス」が幕を開けたのだった。




