『Side:ミア 泥だらけの少女と、小さな神様にゃ』
お腹が、空いた。
私の人生は、その一言に集約される。
私が暮らす孤児院は、王都の掃き溜めのような場所だった。
食事は二日に一度。出てくるのは、石のように硬く、青カビの生えたパンと、泥水のようなスープだけ。
夜になると、弟分や妹分たちが「お腹が痛い」と泣き出す。
私はそのたびに、震える足で院長室へ向かった。
どうか、あの子たちだけでも食べる物を……と、必死に頭を下げた。言葉にするだけで精一杯だった。
だが、返ってくるのは怒号と暴力だけ。
院長は私の髪を掴み、床に叩きつける。「野良犬を生かしてやっているだけでもありがたいと思え」と。
私は知っている。院長の指には、私たちの食費を横領して買った金の指輪が光っていることを。部屋からは、いつも焼いた肉の匂いが漂ってくることを。
けれど、私は無力だった。ただ耐えることしかできなかった。
◇
そして今日。
市場でリンゴ売りの下働きをしていた私は、あの豚のような貴族に絡まれた。
リンゴを踏み潰され、連れて行かれそうになった時――一人の少年が助けてくれた。
彼は貴族を殴り飛ばし、私を逃がしてくれた。
私は震えながら孤児院へ戻った。
怖かった。でも、助かったんだ。今日はもう、布団に潜り込んで震えていれば、朝が来るはずだ。
そう、思っていたのに。
「……ミア、お客様だ。来なさい」
深夜、院長に呼び出された玄関で、私は凍り付いた。
そこに立っていたのは、頬を腫らしたあの豚貴族だった。
「ひっ……!」
「ふん。逃げられると思ったか? ここの院長とは懇意でな」
豚貴族は、ジャラリと音を立てて金貨袋を院長に投げ渡した。
「約束の金だ。そのガキをもらい受けるぞ」
「へへへ、ありがとうございますぅ。返品不可ですので、煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」
院長は卑しい笑顔で金を受け取った。
私とは目も合わせない。
ああ、そうか。
売られたんだ。
私が信じて縋っていた場所は、ただの牧場だったんだ。
私の心の中で、何かが冷たく冷え固まっていくのを感じた。
◇
連れてこられたのは、貴族の屋敷の地下室だった。
そこは、地獄だった。
部屋の隅には、私と同じ孤児院の子供たちが怯えて震えていた。周りを武装した兵士が囲んでいる。
部屋の中央。
豪華な椅子に座った男――ボルク男爵は、私に革の鞭を投げ渡した。
「さあ、選べ」
男はワインを片手に、冷酷に告げた。
「その子供たちの中から一人、お前が鞭打つ相手を選べ。そうすれば、他の子供たちは食事を与えてやろう」
「な……ッ!?」
私は耳を疑った。
何てことを言うんだ。仲間を傷つけろと言うのか。あの子たちの命を人質にとって。
「どうした? やらないなら、全員餓死させるまでだぞ?」
それは、圧倒的強者による「遊び」だった。
権力、護衛、全ての暴力装置を握っているからこその、残酷な選別。
私たちが苦しみ、泣き叫ぶ姿を見て楽しんでいるのだ。
「う、うぅ……っ」
手が震える。
恐怖? いいえ、違う。
私の内側で、灼熱のような感情が渦を巻いていた。
なぜ、言うことを聞かなければならない?
なぜ、私たちがこんな理不尽な選択を強いられなければならない?
大人は汚い。大人は愚かだ。
私たちが弱いから? こいつらが強いから?
ふざけるな。
(……裁かれるべきは)
私は顔を上げた。
震えていた手が、強く鞭を握りしめる。
子供たちじゃない。
(裁かれるべきは、お前だ)
私の中で、何かのスイッチが入った。
この世の全ての愚かな大人たちを、跪かせ、躾け直してやらなければならない。
私が、支配する側になるんだ。
その思考に至った瞬間、脳内で無機質な声が響いた。
《条件達成:理不尽への反逆を確認》
《ユニーククラス【女王】への転職が可能になりました》
《スキル【魔力撃】を習得しました》
《スキル【女王の鞭】が発現します……》
力が溢れてくる。
ドクン、ドクンと魔力が脈打ち、ただの革鞭が処刑の道具へと変わっていく感覚。
「何を固まっている。さっさとやれ!」
さあ、始めよう。大人どものしつけの時間だ。
私がボルグの方へ向き直ろうとしたその時――
ドォォォォォンッ!!
轟音と共に、鋼鉄の扉が吹き飛んだ。
「覚悟しろ悪党ぉぉ……ッ!?」
現れたのは、昼間の少年と――黒猫だった。
男が、不快そうに叫ぶ。
「侵入者だ! やれ!」
武装した4人の兵士が一斉に構える。
ダメだ、少年一人じゃ勝てない。殺される!
そう思った瞬間。
少年の肩に乗っていた黒猫が、音もなく兵士たちの前に飛び降りた。
そして、小首をかしげて、鳴いた。
「……みゃ~ん♪」
時が止まった。
張り詰めた殺気が、一瞬にして甘い空気に変わる。
「かわいっ……」
「ねこ……」
屈強な兵士たちが、武器を下ろし、頬を染めて崩れ落ちた。
何が起きたの? 魔法?
その隙を、少年は見逃さなかった。
彼は兵士たちの間を駆け抜け、一直線に悪徳貴族へと突っ込んだ。
「うおおおおおっ!!」
ドゴォッ!!
拳がめり込む。
「ひぎぃぃっ!?」という情けない悲鳴と共に、男は椅子ごとひっくり返った。
少年はすぐさま剣を奪い、男に突きつける。
「武器を捨てろ!!」
カラン、カラン。
兵士たちが武器を捨てる。完全な制圧だった。
私が呆然と立ち尽くしていると、黒い影が飛んできた。
フワッ。
視界が、漆黒の闇に覆われた。
温かくて、柔らかくて、お日様のような匂いがする……「もふもふ」。
黒猫が、私に飛びつき、その体で私の目を塞いだのだ。
『みるな。めがくさる』
そんな意志を感じた。
彼は、私にあんな汚いもの(大人の醜態)を見せないように、守ってくれたのだ。
ドクン。
私の心臓が、大きく跳ねた。
さっきまで私の心を支配していた「ドス黒い支配欲」が、この圧倒的な「柔らかさ」に触れた瞬間、霧散していく。
女王としての覚醒も、大人への復讐心も、どうでもよくなる。
《ユニーククラス【女王】への転職が非活性化されました。》
(……すごい)
私は見た。
この猫が、兵士たちを一瞬で無力化し、少年に指示を出してここへ導き、悪徳貴族を裁いた姿を。
人間なんて、愚かで汚い生き物だ。
でも、このお方は違う。
こんなに小さくて愛らしい姿なのに、誰よりも賢く、人間たちを支配している。
(ああ……神様だ)
私は確信した。
私がなるべきは「女王」じゃない。
この高潔で、暖かくて、いい匂いのする「真の王(ノワール様)」にお仕えする、最強の侍女だ。
「……すぅ」
私は無意識に、鼻から大きく息を吸い込んだ。
猫の背中の匂いが、脳髄を直撃する。
――キマった。
渇ききった心に、多幸感が満ちていく。
私は、この方の下僕になろう。
この方の手足となり、敵を排除し、そして毎日この匂いを吸う権利を得よう。
それが、私の生きる道だ。
「……あの子たちに、パンを買ってあげられる」
少年が差し出してくれた手。
でも私の目は、その肩に乗って「やれやれ」とあくびをしている、小さな神様に釘付けだった。
(お仕えします。一生、死んでも)
泥だらけの少女の心が、闇堕ちの縁で踏みとどまり、狂気にも似た信仰へとシフトした瞬間だった。




