第7話 天使が城に馴染む理由
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
それから、数日が過ぎた。
魔王城の一日は相変わらず淡々と進む。
兵は持ち場につき、将は戦況を眺め、
どこかで誰かが剣を振るい、
どこかで誰かが血の匂いのする報告書に印を押す。
――建物そのものは、何も変わっていない。
変わり始めているのは、そこで動く“空気”のほうだ。
執務室。
広げられた地図の上に、赤と黒の印が点々と並んでいる。
窓の少ない部屋だが、魔石の灯りが机の上だけを明るく照らしていた。
魔王ルシアンは椅子に腰を下ろし、
指先で机を軽く叩きながら、バルザの報告を聞いていた。
「……以上が、ここ数日の戦況です」
バルザは書板を持った姿勢のまま、淡々と締めくくる。
「天界軍との衝突は、北と西の防衛線で継続中。
規模は小競り合いが中心ですが、
向こうも攻勢の強度を少しずつ上げてきています」
「こちらの損耗は」
「前線兵力の一割弱。
補充自体は問題ありませんが、
天界側も本気で押し切る気はなく、
“削り合い”の段階から動く気配が見えません」
ルシアンは短く鼻を鳴らした。
「神らしいやり口だ。
表向きには大規模侵攻を避け、
内側に圧をかけ続ける」
「はい。
派手な決戦は避けつつ、
こちらの消耗をじわじわ狙っていると見ていいでしょう」
バルザは一度区切り、書板を持ち直した。
「以上が“戦場”の話です」
「……“城の中”は?」
ルシアンの問いに、
バルザがわずかに目を伏せる。
戦況より言いづらそうだ。
「……若干、変化が出ております」
「“若干”で済むならいいがな」
魔王は顎に手を乗せたまま、視線だけで続きを促した。
「預かりとなった天使、セラフィナの件です」
「聞こう」
バルザは、別の紙束をめくった。
そこには戦況ではなく、“城内報告”と記されている。
「まず、行動に関して。
約束通り城外への出歩きは無し。
重要区画からも離してあります。
同行の兵も常につけています」
「そこまでは想定通りだ」
「問題は――その、“同行の兵”のほうです」
バルザはほんの少しだけ言葉を選んだ。
「全員、口を揃えて言います。
“肉体的な負担は少ないが、精神的に疲れる”と」
「敵の天使に疲れさせられているのか」
ルシアンは、少しだけ目を細めた。
「具体的に言え」
「はい」
バルザは書板に目を落としつつ読み上げる。
「“とにかくずっと話しかけてくる”
“挨拶とお礼と感想が多い”
“怒鳴るわけにもいかないので、どう反応すればいいか困る”」
「……戦場で聞きたくない悩みだな」
「私もそう思います」
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「失礼します」
今度の声は聞き慣れた魔族のもの。
許可を出すと、柔らかな雰囲気のイオが入ってくる。
「続き、拝聴してもよろしいでしょうか」
「ああ。丁度いい。
今、天使の話をしていたところだ」
「では、少し補足を」
イオはバルザの隣に立ち、
穏やかな調子で口を開いた。
「セラフィナ殿は、
ここ数日で城内のかなりの人数と顔見知りになっています」
「……“かなりの人数”?」
ルシアンの眉が上がる。
「はい。
渡り廊下で会う兵、
掃除担当の使用人、
訓練場の教官、見習い、厨房の料理人――
簡単に言うと、
“目に入った相手ほぼ全員”に挨拶しているようです」
イオは少しだけ肩をすくめた。
「最初の二日は無視されていましたが、
三日目には、半数以上が何かしら返していましたね」
「敵の天使に、挨拶を返しているわけか」
「はい」
バルザが、別の報告を挟む。
「文面としては、
“仕方なく”“無視しづらくて”
“あそこまでまっすぐ目を見られると……”など、
あまり誇れる内容ではありませんでしたが」
「正直でよろしい」
イオが指を一本折って、続ける。
「セラフィナ殿が打ち解けている“理由”は、
大きく分けると三つあります」
「三つ?」
「はい」
一つ目、とイオは穏やかに告げた。
「一つ目は、“覚えること”です」
「覚える?」
「顔と名前、ですね」
イオは少し楽しそうに続ける。
「廊下ですれ違った兵に、
翌日“昨日も会いましたよね”と声をかける。
名前を聞けば、その場で復唱し、
次に会ったときには、もう“◯◯さん”と呼ぶ」
バルザが口を挟む。
「報告の中に、
“敵に名前を覚えられるというのは、
妙な気分だ”という一文がありました」
「妙なところに線を引く連中だな」
「我々らしいと言えば、らしいですが」
「二つ目は、“褒めること”です」
イオは指を二本目まで折る。
「掃除をしている者には“ぴかぴかですね”、
訓練している者には“すごいです、強そうです”、
書類を抱えて歩いている者には
“あれ全部読めるんですか?かっこいいです”」
「……最後のは誇張だろう」
「いえ、実際に言っていました」
イオは少し笑う。
「兵士たちは“かっこいい”と言われ慣れていませんし、
書類係も“かっこいい”と言われたことはほぼありません。
戸惑いながらも、
悪い気はしていないようです」
「敵に機嫌を取られてどうする」
ルシアンの言葉は辛辣だが、
口調にはほんのわずかな呆れが混じっていた。
「三つ目は、“手伝うこと”です」
「手伝う?」
「はい。
彼女は、見つけた仕事に首を突っ込む癖があります」
イオが指で数える。
「棚を運んでいれば“持ちます!”、
書類が積んであれば“運びます!”、
洗濯物があれば“干します!”と。
もちろん、全部を許可しているわけではありませんが、
“断っても後ろをついて来るので、
簡単な作業だけやってもらった”という報告も多いですね」
バルザが、別の紙をちらりと見せる。
「“最初は邪魔だと思ったが、
実際手伝わせてみると、
仕事が半分くらい早く終わった”という感想もあります」
「……」
「“だからといって味方とは思わないが、
いないよりはいたほうが楽だ”とも」
それはそれで、妙な評価だ。
「あと、細かいところですが」
イオが最後に付け足す。
「小さな傷や痛みを、
さりげなく治癒魔法で直しています」
「戦場で負った傷ではなく?」
「はい。
訓練でこけた膝、
荷物を持って痛めた肩、
刃物で少し切ってしまった指……
放っておけば勝手に治るレベルのものだけです」
イオは少しだけ首を傾げた。
「“戦いでついた傷は、そのままにしておくべきだと思うので”
と本人は言っていました」
「妙なところで律儀だな」
ルシアンは低く呟く。
「それも報告に上げてくる城の連中も、どうかと思うが」
「“情にほだされないようにしたいが、
ありがたいものはありがたい”という葛藤が、
報告書の端々からにじんでおります」
バルザは真顔のまま言った。
ルシアンは椅子の背にもたれ、
机の上の地図から視線を外す。
「要するに――」
「はい」
「天使は毎日、
城の連中の顔を見て、名前を聞いて、
挨拶して、褒めて、手伝って、
ちょっとした怪我を治している。
その結果、数日で“打ち解けた”と」
「端的に言えば、そうなります」
バルザが頷く。
「敵と分かっていても、
礼を言われ、名前を呼ばれ、
面倒を見られてしまうと、
完全には突き放しづらい――
というのが、城の者たちの正直な本音のようです」
「単純だな、魔族も」
ルシアンは、わずかに口元を歪めた。
「天界も似たようなものですよ」
イオが小さく笑う。
「“誰かの役に立ちたい”という欲求は、
種族を選ばないのかもしれません」
そのとき、執務室の扉が軽く叩かれた。
「失礼しまーす!」
聞き慣れてしまった高めの声。
イオとバルザが同時に振り向き、
ルシアンだけが、露骨にため息をついた。
「……入れ」
「はーいっ!」
扉が勢いよく開き、
白い羽根と金色の髪がぴょん、と顔を出す。
セラフィナだった。
両腕には、小さな籠を抱えている。
目はいつも通り、場の空気と無関係に明るい。
「ルシアンさま、いま大丈夫ですか!」
「大丈夫かどうかを聞く前に入ってきたな」
「入りながら聞いたほうが早いかなって……」
考え方が前向きすぎる。
「用件を三十秒で言え」
「はいっ!」
セラフィナは籠を机の端に置くと、
ぱっと蓋を開けた。
「みなさんからお菓子をもらったので、
おすそわけを持ってきました!」
中には、焼いた穀物菓子や干した果物、
甘く煮た木の実などがぎっしり詰まっていた。
包装は不揃いだが、それぞれに工夫のあとが見える。
「廊下の兵士さんとか、
厨房の方とか、洗濯してる方とか……
“いつも手伝ってもらってるから”って!」
イオが目を丸くする。
「つまり、城の者たちから?」
「はいっ!」
セラフィナはうれしそうに頷いた。
「ひとりでは食べきれないので、
ルシアンさまと、イオさんと、バルザさんにも是非!」
バルザはわずかに動揺を隠しきれない顔になった。
「……業務報告の場に菓子が出る日が来るとは」
「悪くない日だと思いますよ」
イオは苦笑しながら籠の中を覗いた。
ルシアンは、しばし籠と天使を見比べたのち、
面倒そうに口を開く。
「聞くが――」
「はいっ?」
「お前は、なぜそこまでして
この城の連中と仲良くしたい」
「え?」
セラフィナは目を瞬かせた。
少し考えてから、きょとんと首をかしげる。
「“したい”っていうか……
同じところで暮らしてるから、ですかね?」
「……説明になっているようで、なっていないな」
「えへへ……」
誤魔化し笑いをしたあと、
セラフィナは、言葉を選びながら続けた。
「えっとですね。
天界でも魔界でも、
最前線で戦ってる人たちを支えてるのって、
こういう城の中の人たちなんですよね」
掃除係。
料理人。
書類係。
訓練場の教官。
見張りの兵。
「だから、戦場では“敵”なんですけど……
ここでは、みんな“誰かを支えてる人”なので」
セラフィナは少しだけ表情を和らげた。
「“おつかれさまです”って言うくらいなら、
敵でも味方でも、言っていいかなって思ってます」
イオが、ふっと息を漏らした。
「……そういうところですね」
「え?」
「セラフィナ殿が、城の者と打ち解けている理由です」
イオは穏やかに笑う。
「特別なことはしていない。
ただ、当たり前のように礼を言い、
当たり前のように感謝しているだけ。
それを“敵にまでされている”という状況に、
城の者たちはまだ慣れていないのでしょう」
バルザも渋々頷いた。
「報告書の文字だけでは伝わらない部分ですな」
ルシアンは椅子に背を預け、
長く息を吐いた。
「……一つだけ言っておく」
「はいっ?」
「ここは戦場ではないが、戦争の最中だ。
お前が誰と仲良くしようと、
いずれ剣を向け合うかもしれん相手ばかりだ」
「……はい。
それは、分かってます」
セラフィナはいつになく静かな声で答えた。
「でも、その時までは――
“仲良くしてくれてありがとう”って思ってたいです」
少しだけ、言葉を詰まらせながら。
「そのほうが、きっと、
どっちの世界にとっても、ましかなって」
ふわふわした天使の口から出た言葉にしては、
妙にまっすぐで、妙に重い。
イオとバルザは黙ってそれを聞き、
ルシアンは目を細めたまま表情を変えなかった。
やがて魔王は、ふいと視線をそらす。
「……その菓子は、そこに置いていけ」
「はいっ!」
「あと、ノックをしたら、返事を待て」
「はいっ! 気をつけます!」
セラフィナは元気よく返事をし、
またぺこりと頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
羽根の音が遠ざかる。
静けさが戻った執務室で、
しばらく誰も口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、イオだった。
「……敵として考えるなら、
かなり厄介な存在ですね」
「同感だ」
バルザが珍しく即答する。
「こちらの“線引き”を、
あちらはまったく気にしていない」
「だからこそ、戦場で会ったときに困る」
イオは、やや苦い笑みを浮かべた。
ルシアンは、机の上の籠に視線を落としたまま、
ぽつりと呟いた。
「……退屈はしない」
それは、戦況報告には絶対に書かれない言葉だ。
だが、今この魔王城で起きている変化を
一番正確に表しているのは、
その一言なのかもしれなかった。
天使セラフィナが預けられてから、ほんの数日。
戦争そのものは何も終わっていない。
血が流れなくなったわけでもない。
それでも――
魔王城の空気は、少しずつ、確かに変わり始めていた。
その変化が、後にどんな結果を呼ぶのか。
まだ、誰も知らない。
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