第6話 天使、居候になる
魔王城の朝は、相変わらず暗くて静かだった。
窓は少なく、石の壁は冷たく、空気は張りつめている。
その空気を、元気よくぶち壊す声がひとつ。
「おはようございますっ!」
客室の扉が開いた瞬間、天使セラフィナがぱっと顔を上げてそう言った。
羽根はふわふわ、表情はきらきら。
ここが敵国の城だという自覚は、どうにも薄そうだった。
兵士は返事をしない。
無言で顎をくいっと動かし、「ついて来い」の合図だけ送る。
「はいっ!」
セラフィナは素直に、そして無駄に元気よく廊下に出た。
羽根が揺れるたび、細かい光の粒がこぼれるように見えて、
背後の兵士は少しだけ目を細める。
(……これが、本当に“敵”か?)
そんな戸惑いは、しかし顔には出さない。
戦時中である。いまはただの“尋問対象”だ。
広間に入ると、空気が一段階重くなる。
奥の高い段差の上、魔王ルシアンが腰掛けていた。
黒い外套の裾が椅子から流れ落ち、
金色の瞳がじっとセラフィナを見下ろしている。
その右隣には、柔らかい雰囲気の魔族――側近のイオ。
穏やかな目元だが、その視線には鋭さも混じっている。
左には、背筋を伸ばして立つバルザ。
書板を抱え、いかにも真面目そうな顔の男だ。
城の軍務と政務をまとめる、固いことで有名な側近である。
セラフィナはぺこりと頭を下げた。
「おはようございます、魔王さま!」
「……」
広間の空気が一瞬だけ止まる。
普通、そこは「陛下」だろう、と何人かの兵士が心の中で同時にツッコんだ。
ルシアンは軽く顎を引いた。
「座れ」
「はいっ!」
中央に置かれた椅子に、セラフィナは素直に腰を下ろす。
背筋だけは妙に綺麗に伸びていた。
「では、もう一度確認する」
バルザが一歩前に出る。
声は低く落ち着いているが、容赦はなさそうだ。
「お前は昨日、どこから現れた」
「どこから……?」
セラフィナは首をかしげ、少し考える。
「えっと……天界の、知らないお部屋です」
「“知らない”とは具体的にどういう意味だ」
「初めて見ました!」
「……場所は?」
「わかりません!」
バルザの筆が早くも止まる。
「周囲に他の天使はいたか?」
「いませんでした。わたしだけでした」
「警備の気配は?」
「ないと思います。静かでした」
「俺たちから見れば、お前がいちばん静かじゃないがな」
ルシアンが小さく漏らす。
広間の何人かが、こっそり同意した。
イオが口元を緩める。
「部屋の様子は覚えていますか?」
「はいっ!」
セラフィナの顔がぱっと明るくなる。
説明できる話題を見つけて嬉しいらしい。
「四角くて、広くて、壁になんか……
こう、いっぱい、カチャカチャしそうな出っ張りが並んでて……」
「……“カチャカチャしそうな出っ張り”」
イオが繰り返す。
まったくイメージは湧かないが、彼は優しく頷いた。
「床は?」
「ほこりまみれでした!」
バルザの眉がぴくりと動く。
「ほこりまみれ、だと?」
「はい。ひどかったです。かわいそうでした」
「かわいそう……?」
「はい! ほこりって、身体に悪いので」
その理屈は間違っていないが、
戦時中に聞く話ではない。
ルシアンは短く息を吐いた。
「で、お前はどうした」
「掃除をしました!」
セラフィナは胸を張って言う。
誇らしげにすら見える。
「命令でか?」
「いえ、自主的にです!」
「……」
バルザは書板を見つめたまま黙り込んだ。
その沈黙に、イオが静かに口を開く。
「陛下。
この調子ですと、潜入や破壊工作の気配はありませんね」
「見れば分かる」
ルシアンは短く言った。
どう見ても、わざと敵陣に送り込まれた刺客には見えない。
「掃除のあと、何が起きた」
「はい!
壁の“カチャカチャしそうな出っ張り”にもほこりが溜まってたので……
そこを拭いていたら――」
セラフィナは両手を広げて、やや大げさに。
「ぴかーって光って!
目を開けたら、ここでした!」
「……拭いたら、光った」
「はいっ!」
「押したのではなく?」
「拭きました!」
バルザはゆっくりと書板に“拭いたら光る”と書き込んだ。
軍事情報として価値があるのかは、彼自身も分からない。
「その部屋に入るよう、誰かに命じられていたか?」
「いえ、特に」
「“特に”?」
「気づいたら扉が開いてて、中が汚くて……
なんか……入りたくなったので……」
セラフィナは申し訳なさそうに笑う。
「掃除しようかなーって」
「……」
ルシアンは一瞬だけ目を閉じた。
戦争中に敵が勝手に転移して来た理由が「掃除」である――
認めたくない現実だった。
バルザが質問を変える。
「お前の所属は」
「第三天唱隊です!」
「戦闘部隊か?」
「いえ、あまり戦いません。
書類を運んだり、伝令したり、たまにお手伝いしたりです」
「つまり、下級の事務方ということか」
「たぶん、そうです!」
バルザは頷き、魔王へ向き直る。
「陛下。
軍事的な価値は高くなさそうです。
ただ――」
「ただ?」
「この程度の役職の天使が、
天界の“どこか分からない部屋”に勝手に入り、
その結果、我が城に飛ばされてきた……というのは、
さすがに偶然にしては出来すぎています」
「だろうな」
ルシアンもそこは同意だった。
天界が何も考えずに放置している、とは考えにくい。
イオが静かに口を挟む。
「とはいえ、今のところ敵意も嘘も見えません。
戦場に送り込まれた工作員には、見えないですね」
「見れば分かる」
改めて同じことを言ってから、
ルシアンはバルザへ視線を向ける。
「天界へ連絡を取れ。
“お前たちの天使が転がり込んで来た。どうするつもりだ”と」
「かしこまりました」
魔力を通した連絡文は、すぐに天へ送られた。
待つ間、広間には妙な沈黙が落ちる。
セラフィナは椅子の上でそわそわと足を揺らした。
ただそれだけの動きなのに、羽根が揺れてやけに目立つ。
ルシアンはそれを面倒くさそうに横目で見て、
ギリギリ何も言わないでおいた。
ほどなくして、光が再び広間に差し込む。
戻ってきた文を受け取ったバルザの表情が、わずかに険しくなった。
「陛下。返答が」
「読め」
「“今は受け取れない。
そちらでしばらく預かってほしい”」
ルシアンは眉をひそめた。
「理由は」
「“後日説明する”とだけ。
あと一文、“害はないはずなので”」
広間にいた魔族全員が、同時に顔をしかめた。
“はず”などという言葉を、戦時中の連絡で使うな――
全員の心の声がひとつになった瞬間だった。
セラフィナは、きょとんとした顔で手を上げる。
「あの……害はないです。自信はあります」
「お前が言うと説得力がない」
「えっ……」
ショックを受けたように肩を落とし、
しかし数秒もすると、また表情が戻る。
切り替えが早い。
イオが、文を覗き込みながら言った。
「……陛下。
天界が“理由を言わずに預けてくる”のは、気になりますね」
「ああ。
だが、返せと言っても拒まれた以上――」
「こちらで扱うしかない、ということですね」
「そういうことだ」
ルシアンは、少しだけ疲れたような声で天使を見た。
「よかろう。
お前の身柄は当面、我が城が預かる」
「はいっ!」
返事は相変わらず元気だ。
「ただし」
魔王の声が低く響く。
「城の外に出ることは禁止。
内部でも、兵士の同行なしに勝手に歩くな。
重要な区画には近づくな。
妙なものに触るな。
飛ぶな。叫ぶな。
以上だ」
「……けっこうありますね?」
「少ない方だ」
セラフィナはこくこくと頷いた。
「わかりました!
勝手に歩き回らない、触らない、飛ばない、叫ばない!」
「復唱がやけに元気だな」
ルシアンはこめかみを押さえた。
イオが一歩前に出る。
「セラフィナ殿。
今後、行動するときは誰かしら魔族がつきます。
何かしたいことがあれば、まずその者に相談してください」
「はいっ! あ、じゃあ……」
ぱっと顔が輝く。
「掃除してもいい場所がどこか、教えてほしいです!」
イオは一瞬だけ固まり、それから苦笑した。
「……まずは自分の部屋の中だけにしておきましょうか」
「はいっ!」
バルザはそのやり取りを黙って見ていたが、
書板にさりげなくひとこと書き加えた。
──“清掃癖あり。軍事的意図は薄いと思われる”。
ルシアンは椅子の背にもたれ、
最後に短く言い渡した。
「いいか、天使。
これは“客人として迎えた”のではない。
あくまで戦時中の預かりだ。
そのことだけは忘れるな」
「はい。
……でも、預かってもらえるのは、ありがたいです」
セラフィナはそう言って微笑んだ。
その笑顔は、敵味方という概念から、少し外れたところにある。
魔族たちは誰も何も言わなかった。
ただ、その場の空気がほんの少しだけ揺れる。
こうして天使セラフィナは、
正式に“魔王城預かり”となった。
戦争中の真っ只中、
魔王の城に、元気いっぱいの天使が居候する――
という異常事態が、当たり前のように始まる。
後に多くの魔族が口を揃えて言うことになる。
――あの日、あの朝から、
魔王城の日常はおかしくなり始めた、と。
その自覚だけは、まだ誰にもなかった。




