第10話 天界通信室のふたりと、落ちていった天使のこと
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
時は少しさかのぼる。
セラフィナが魔界へ落ちる、その日の少し前。
天界・上層区画。
雲を削り出したような白い柱が林立し、
透明な光が床をゆっくり流れている。
その一角に、あまり目立たない扉があった。
扉の上には、かろうじて読める程度に
「連絡管理局・第三区」と刻まれている。
中は、静かだった。
壁沿いに並ぶのは、古い魔法陣を埋め込んだ石板と、
天界と各地を結ぶ“連絡結晶”。
そして部屋の中央には、
見た目だけは立派な、巨大な転送装置――
だが、上部には蜘蛛の巣。
足元には薄く積もった埃。
何十年も使われていないことが
一目で分かる有様だった。
その部屋の片隅で、
椅子にだらしなく腰かけている天使がひとり。
切れ長の目に、きつめの口元。
銀の髪をひとまとめに結い、
翼は手入れが行き届いているが、表情はどこか不機嫌そうだ。
第三天唱隊所属、ラケル。
もう一人は、その隣で背筋を固く伸ばしている。
ふわふわした髪を後ろで結んだ、
小柄な天使――フィオ。
同じく第三天唱隊所属だが、
目は常におろおろ泳いでいて、
指先は落ち着きなく膝の上で組まれてはほどけていた。
「……ひまですねぇ」
フィオが、こそこそ声で言う。
「仕事中に“ひま”って言うんじゃないの。
“警戒待機中”って言いなさい。聞こえが違うでしょ」
ラケルが、足を揺らしながら答える。
「は、はい……。
け、警戒待機中ですね……」
「そうそう」
口調はきついが、
注意の仕方には慣れがあった。
ここでの仕事は、主に二つ。
各地の連絡結晶の状態監視。
そして、緊急時の転送陣制御。
……とはいえ、
ここ数十年、緊急なんてものは一度も起きていない。
ラケルは机に肘をつき、
ぼんやりと魔法陣の光を眺めながら息を吐いた。
「天界と魔界が、いつか全面衝突するって
散々上の連中は言ってたけどさ」
「はい……」
「結局、細かい押し合い引き合いばっかりで、
直接ここに“どーん”と何か飛んでくることなんて、
まず無いのよね」
「“どーん”はちょっと物騒ですが……
でも、たしかに静かですよね……」
フィオは、連絡結晶のひとつを覗き込み、
表示されている魔力の波形を確認する。
「今日も異常なしです。
魔界側の妨害結界も、そのままです」
「はいはーい、“いつも通り”。
報告書に書くこともない、平和な一日」
ラケルは、わざとらしくあくびをかみ殺した。
しばらく、
ふたりの間に、どうでもいい沈黙が流れる。
やがて、フィオが思い出したように口を開いた。
「あ、そういえば……」
「何」
「セラフィナさん、今日見てないなって……」
その名前を聞いた瞬間、
ラケルの眉がぴくりと動いた。
「……ああ、あの子」
あまり嬉しくなさそうな声だった。
「いつもなら、この時間には
“お疲れさまです!”って顔出してくれるのに」
「出してくれなくていいの」
即答だった。
セラフィナ。
同じ第三天唱隊所属の天使。
基本的な評価は――
“仕事は早い。魔力の感覚はずば抜けている”。
だが同時に、
“ドジが過ぎる。余計なことをしすぎる”。
結果、尻拭いをさせられるのが
決まってラケルとフィオ、という構図になっていた。
今日も、本来なら
書類の整理と連絡結晶の清掃を三人でやる予定だったが――
「邪魔だから、別の仕事振ったわよ」
ラケルが、まるでどうでもよさそうに言った。
「べ、別の仕事、ですか?」
「そう。
ほら、“旧転送区画の掃除”って、
ずーっと誰もやってなかったじゃない」
部屋の中央に鎮座する、巨大な転送装置。
戦争が激しかった時代には
魔界との拠点をつなぐ重要な設備だったらしいが、
今は、
魔界側の妨害結界が強すぎて
まともに接続できず、
“封鎖中”の札が
いつからかぶら下がったままになっている。
「でも、あそこを掃除しても……」
「良いのよ、あそこで」
ラケルは、にやりともしていないのに
言葉だけは妙に楽しそうだった。
「あそこなら、時間かかるでしょ?
埃だらけ、魔力の配線も入り組んでるし。
“気になる場所を全部きれいにしたくなる”あの子なら、
きっと半日は戻ってこないわよ」
「ああ……」
フィオは、セラフィナの姿を想像した。
埃を見ると放っておけず、
隅から隅まで磨き上げるまで止まらない。
“綺麗になると、気持ちいいですよね!”と
満面の笑みで言う姿が、目に浮かぶ。
「でも……」
フィオは、少しためらいながら続けた。
「あそこ、危なくないですか?
魔界につながってる転送装置なんですよね?」
「“つながってた”装置ね」
ラケルは、肩をすくめた。
「今は戦争中よ?
魔界も魔界で、
こっちが簡単に干渉できないように
ガチガチに結界張ってるじゃない。
こっちから起動しようとしても、
向こうの封鎖に弾かれるだけ。
ここ数十年、
ログ見たって“接続失敗”の記録しか残ってないわよ」
「“接続失敗”……」
「つまり、“動かない置物”。
どれだけ拭いたって、
ピカピカになるだけでしょ」
ラケルは、
足を組み替えながら続ける。
「それに、
セラフィナは転送制御の権限持ってないわよ。
あの子が触れるのは、
せいぜい外側のパネルまで。
中枢の制御核には、
私たちと上司しかアクセスできないじゃない」
「あ、たしかに……」
フィオは、ようやく少し安心したようだ。
「そ、そうですね。
じゃあ、ただのお掃除ですね……」
「そう。
“ただのお掃除”。
ひたすら、埃と格闘しててもらえばいいの」
ラケルは、
吐き出すように小さく笑った。
「たまには、
あの子にゆっくりしてもらわないとね。
……私たちが」
最後の一言は、
妙に重かった。
ラケルとフィオは、
日常的にセラフィナの尻拭いをしていた。
書類の山に埋もれた上司のために
セラフィナが勝手に仕分けを始め、
重要文書と雑文を
“魔力の匂いが違います!”と
謎の基準で分類してしまった時。
ラケルとフィオが、
一晩かけて元に戻した。
古い連絡陣の魔力の流れが歪んでいるのを見て
セラフィナが独断で修正し、
結果として、
“音声はクリアだが、妙な楽音が乗る”という
謎の通信仕様になってしまった時。
ラケルとフィオが、
上と魔術師たちに頭を下げて回った。
セラフィナ本人には、
悪意は一切ない。
むしろ、
誰よりも天界のために動こうとしている。
上司もそれを分かっているから、
彼女には妙に甘い。
そのぶん――
尻拭いをさせられるのは、
決まって同じ部署のふたりだった。
「……ラケルさん、セラフィナさんのこと、嫌いですか?」
ふいに、フィオがそんなことを聞いてきた。
「別に嫌いじゃないわよ」
ラケルは即答した。
「ただ、
“あの子を庇って怒られてる自分”が嫌いなだけ」
「……ああ」
フィオは、
どこか分かるような顔をした。
「上は、“セラフィナはよくやっている”って言うけど、
“よくやっている結果出た面”しか見てないのよ。
その裏で、
どれだけ私たちが平謝りしてると思ってるのか」
「……この前も、大変でしたね……」
「そうね。
あの子、私たちのこと、
“すごいです! 助けてくれてありがとうございます!”って
本気で褒めてくれるから、
余計に文句言いづらいのよね」
ラケルは、天井を仰いだ。
「上にも好かれて、
部下にも好かれて、
仕事もできて、ドジも盛大。
……正直、腹立つわね」
最後だけ、ちょっと素直だった。
フィオは、慌てて手を振る。
「で、でも……
セラフィナさん、悪気はないですし……」
「そういうところも腹立つのよ」
「ラケルさん……」
ふたりは、
結局セラフィナのことで
いつも同じような愚痴を言っている。
それでも、
完全に嫌い切れないあたり、
やはり同じ隊の仲間なのだろう。
そんな、
どうでもいい愚痴混じりの会話をしていた時だった。
「……あれ?」
フィオが、
連絡結晶と転送装置の間に設置された
小さな魔力計を覗き込み、目を瞬いた。
「ラケルさん、これ……」
「ん?」
「転送装置の魔力計、
さっきまで“沈黙”だったのに……
“起動準備”の光、点いてます」
「……はい?」
ラケルも立ち上がり、
魔力計を覗き込む。
たしかに、
これまでずっと青く暗かった表示が、
淡く白く点灯している。
“待機状態”ではない。
“起動プロセス進行中”――
つまり、転送陣の制御核が
何かしらの命令を受けた、という印だった。
「ちょっと待って。
転送核に命令送ったの、誰」
「ラケルさん、ですよね?
わ、わたし、今日は触ってないです……!」
「私も触ってないわよ!」
ラケルは、急いで制御コンソールに駆け寄り、
操作盤を叩くように開いた。
古びた光文字が空中に浮かび上がる。
――内部起動信号検知
――転送座標、魔界・上層防衛圏
――外部妨害結界との干渉確認中
「ちょっ……なにそれ」
ラケルの声が裏返る。
「誰よ、魔界座標に直接つないだの!」
「ラ、ラケルさん、
セラフィナさん、さっき――“転送装置のお掃除してきますね!”って……」
「……は?」
嫌な予感が、
背骨を駆け上がる。
「フィオ、旧転送区画に繋がってる結晶見て」
「は、はい!」
フィオは、別の魔法陣に駆け寄り、
状態表示を確認する。
「えっと……
“外部干渉のため、転送路封鎖中”……だったはずなのに……」
「なのに?」
「“外部干渉に、一時的な断絶箇所を確認。
補正経路を再構築します”って……」
「補正するなぁぁぁあ!!」
ラケルは、思わず素で叫んだ。
制御盤の光文字が、
次々と書き換わる。
――妨害結界の一部断裂を検知
――代替経路を自動構築
――転送路、一時開通
「自動で……
“穴”を見つけて、繋ぎ直してる……」
ラケルは口を押さえた。
「ちょっと待って、
そんな機能、付いてた覚えないんだけど?」
「セラフィナさん、
この前、“配線がぐちゃぐちゃだったので整理しておきました!”って……」
「要らんことしてたぁ!!」
ラケルが頭を抱える間にも、
転送装置の中央部が
ゆっくりと眩く光り始める。
床に刻まれた巨大な魔法陣が、
久しく使われていなかったとは思えない滑らかさで
次々と起動していく。
フィオが、顔面蒼白になって叫んだ。
「ラケルさん!
転送陣、フル起動に入ってます!
誰かが……中に……!」
「止めなさい!」
「止めようとしてます!
でも、“安全確認中――対象者検知――第三天唱隊所属、セラフィナ――転送を継続します”って!」
「セラフィナぁぁあ!!」
轟、と空気が震えた。
部屋の中央に立っていたであろう小柄な影が、
眩い光の柱に包まれ――
次の瞬間、
跡形もなく消えた。
魔力計の表示が、淡く変わる。
――転送完了
――座標・魔界上層域
――接続路、一時閉鎖
静寂。
ラケルとフィオは、
しばしの間、
頭の中が真っ白になって何も言えなかった。
先に声を出したのは、フィオの方だった。
「ど、どどどどどうしよう……!」
半泣きだ。
「今の、絶対、セラフィナさんですよね!?
転送されたってことですよね!?
魔界に!? えっ、えっ、やばい、やばいです!」
「……落ち着きなさい、フィオ」
「む、無理ですよこんなの!!」
ラケル自身も心臓が跳ねていたが、
無理やり顔をしかめて押し殺した。
だが手は、
制御盤の縁を握りしめて震えている。
「と、とにかく……!
上に報告を――!」
「ダメ」
ラケルの声が鋭くなる。
「“ダメ”って……!?」
「ここで“セラフィナを旧転送区画に行かせたのは私です”なんて言ったら、
どうなると思う?」
フィオは、言葉を詰まらせた。
「わ、わたしたち……怒られる、どころじゃ……」
「そう。
“責任を問われる”レベルの話じゃ済まないわよ。
魔界に、生身の天使を一人送り込んだ。
しかも、
戦争中に、“こちらから”」
ラケルは奥歯を噛みしめた。
「上から見れば、
完全に“重大な職務怠慢”か、
“魔界への内通”よ」
「そ、そんな……!」
「分かってる。
やらせるつもりなんてなかった。
ただ、
静かなところで埃と戦っててもらうつもりだった。
……それでも、結果は結果」
ラケルは、
自分を刺すように言葉を吐く。
「ここで正直に言ったら、
あの子も私達もどう扱われるかなんて――
想像したくもない」
「でも……
黙ってても……」
「黙ってた方が、まだましよ」
ラケルは、
フィオをきつくにらんだ。
「フィオ。
今から言うこと、よく聞きなさい」
「……はい」
「さっきの転送不具合――
“何も起きてない”。
いいわね?」
「“何も”……」
「記録も今すぐ消す。
ログからも、痕跡を全部消す。
“今日もいつも通り異常なし”。
それだけ報告して、
あとはいつも通り座ってなさい」
フィオは唇を噛んだ。
「で、でも……
セラフィナさんがいないの、すぐ気づかれますよ……」
「とっくに一日くらい
行方知れずになることなんてあるでしょ、あの子。
上だって、
“どうせまた、どこかで掃除してるんだろう”って
最初は思うわ」
「……そう、かもしれませんけど……」
「大丈夫。
“いつものこと”にしてしまえば、
私達は怒られない」
最後の一言で、
ラケルは初めて、
はっきりと自分の醜さを自覚した。
それが、胸の奥でずきりと痛む。
だが、その痛みを
無理やり押し込めるように、
ラケルは手を動かした。
制御盤に指を滑らせ、
魔力記録を一つずつ消していく。
――転送起動記録、削除。
――経路補正ログ、削除。
――対象者情報、削除。
残るのは、
“今日も異常なし”という
白々しい一文だけ。
「……ラケルさん」
フィオが、か細い声で呼ぶ。
「わたし……
本当に、黙っていていいんでしょうか」
「よくないわよ」
即答だった。
フィオは、きょとんとした。
「よくないに決まってる。
でも、“言ったところで、誰かが助かるの?”って話よ」
ラケルは、
自分でも嫌になるくらい冷静な声で続ける。
「魔界に送られたセラフィナが、
生きて帰ってこられる可能性なんて、
ほぼゼロ。
魔族の巣窟よ?
落ちた天使を捕まえたら、
拷問するか、
玩具にするか、
それとも――」
「やめてください……!」
フィオが、耳をふさぐようにして叫んだ。
「想像したく、ないです……」
「私だってしたくない」
ラケルは、
鼻で短く息を吐いた。
「だからこそ、“黙る”のよ。
私たちは、ただの下っ端。
ここで正直に報告したところで、
上は“犯人を探す”ことに必死になるだけ。
セラフィナを助けるために
魔界まで飛んでいくような馬鹿、
天界には残ってないわ」
痛みを誤魔化すために、
わざときつい言い方をした。
フィオは、肩を震わせながらも
やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
「いい子ね」
ラケルは、
自分が言うべき台詞ではないと思いつつも、
そう告げた。
「これは――
“私たちのため”でもあるし、
“セラフィナのため”でもある。
……少なくとも、
私はそう思うことにするわ」
その日。
連絡管理局・第三区では、
特に異常は報告されなかった。
記録上も、
紙の上でも、
“いつも通り”の一日。
ただ一人の天使が、
記録からこっそり抜け落ちただけだった。
数日後。
第三天唱隊の詰所。
書類を抱えた上司――
厳つい顔の中隊長が、
不意にラケルたちの机の前で足を止めた。
「おい、お前たち」
「はい!」
ラケルとフィオが同時に立ち上がる。
「セラフィナを、最近見かけんが――
何か知らんか」
その一言に、
ふたりの心臓が一斉に跳ねた。
だが、表情には出さない。
……出さないように、必死に抑える。
先に口を開いたのは、ラケルだった。
「セラフィナですか?
いえ、特には。
いつもみたいに、
どこかで掃除してるんじゃないですか?」
「“どこかで掃除”ね……」
中隊長は、
うっすらとため息をついた。
「あいつも、
よく姿を消しては
変なところ磨いてるからな。
見かけたら、俺のところに来るよう伝えろ」
「了解しました」
「は、はい……!」
中隊長は、
それ以上怪しむ様子もなく立ち去っていった。
ふたりは、
その背中が見えなくなるまで
息を詰めていた。
扉が閉まった瞬間。
フィオが、机に手をついて崩れ落ちる。
「ラケルさん……
今の、絶対顔引きつってましたよね、わたし……」
「大丈夫。
上も忙しいから、
細かいところまで見てないわよ」
ラケルは、
笑っているのか引きつっているのか分からない笑みを浮かべた。
「……でも、
早めに“どこかで掃除してる”ことにしておかないと。
長く行方不明になると、
上もさすがに疑い始める」
「そ、それもそうですね……」
ふたりが、
言い訳の言葉を必死に探していた、その時だった。
詰所の壁に埋め込まれた連絡結晶が、
突然、強く光った。
ふたりは、同時に顔を上げる。
「……魔界線だ」
ラケルが低く呟く。
天界と魔界の間には、
いくつかの“公式連絡路”が存在する。
直接の通話や交渉のための、
最低限の窓口。
今、光っているのは――
そのうちのひとつだった。
「ラ、ラケルさん……?」
「出るしかないでしょ。
ここ、第三区の管轄よ」
ラケルは、
心臓の鼓動を押し殺しながら
連絡陣の前に立つ。
結晶に手をかざし、
接続を許可する。
淡い光が、
空中に文字を描き始めた。
――“天界第三連絡局宛。
魔界上層・魔王城より通達”
「……魔王城?」
フィオが青ざめる。
ラケルは、喉を鳴らしながら読み続けた。
――“貴殿らの所属と思われる天使一名、
当城内に転送されてきた。
所属は第三天唱隊、名はセラフィナと名乗っている。
当方に敵対行動の意思は見られず、
現時点で害もない。
ついては、
速やかに引き取りの使者を送ることを求める”
「…………」
沈黙。
部屋の空気が、
音を立てて固まったかのようだった。
先に弾けたのは、フィオの声だ。
「い、生きてる……!」
瞳が、涙で滲む。
「セラフィナさん、生きてるんですね……!
よかった……!」
ラケルも、胸の奥で
同じ安堵を感じていた。
だが、それは一瞬。
すぐに、別の感情が
喉元までせり上がってくる。
「……よくない」
「え?」
「“生きて魔界にいる”ってことは――
“魔界で何をされてるか分からない”ってことよ」
ラケルは、
自分自身に言い聞かせるように続けた。
「魔王城?
魔族の巣窟よ。
あの子、絶対――
今頃、拷問されてるわ」
「そんなこと……!」
「あるわよ。
“敵の天使”よ?
情けなんてかけるわけがない。
魔力の性質を調べられて、
身体を切り刻まれて、
それでも生きてるからこそ、
“害はない”なんて書けるのよ」
自分でも、
どれだけ偏った想像をしているか自覚しつつ、
ラケルは言葉を止められなかった。
「そんな状態で、
“はい、返します”って戻ってきたら、どうなると思う?」
フィオは、
言葉を失った。
「“魔界に行って、拷問を受けて、戻ってきた天使”。
上は絶対、
“魔界の機密を持ち帰ってきたに違いない”って疑う。
“どんな情報を持っている”
“魔族とどんなやり取りをした”
“何を聞かされた”
それを“調べる”ために、
今度は天界が――」
「やめてください……!」
フィオは、
さっきよりも強く首を振った。
「そんなの……
どっちにしろ、セラフィナさんが……!」
「だからこそよ」
ラケルは、
唇を噛みながら言う。
「ここで、“引き取りに行きます”なんて返事をしたら――
セラフィナは、
“天界に戻されてから”苦しむ。
“魔界で何を見てきたか”を
全部吐き出させられるまで、ね」
「じゃあ……どうするんですか」
フィオの声は震えていた。
「“受け取り拒否”」
ラケルは、
はっきりと言った。
「えっ……?」
「ここで、“受け取れません”って断れば――
魔界は、
“厄介な人質”を抱え続けることになる。
あの子を、
いつまでも拷問し続けるほど暇じゃないはず」
「で、でも……
捨てられちゃうかも……」
「そうね。
殺されるかもしれない」
ラケルは、
目を閉じた。
「でも、そのほうが――
“楽”かもしれないわよ」
「そんな……!」
「魔界で殺されるか、
天界で疑われ続けるか。
どっちが“マシ”かなんて、
誰にも言い切れない。
でも、少なくとも――
“あの子が、天界に戻ってきてから
苦しむ姿を見ずに済む”のは、私たち」
自分で言っていて、
吐き気がするほど醜い理屈だった。
それでも、
ラケルは止まれなかった。
「……ラケルさん、
それって……」
「分かってる」
ラケルは、きつく目を開いた。
「私たちは、
“自分たちのために”セラフィナを切り捨てようとしてる。
でも、もう――
どの道、きれい事じゃ済まないのよ」
連絡結晶が、
返答を待つように静かに輝いている。
ラケルは、
深く息を吸い込み、
魔力を指先に集めた。
浮かび上がる魔法文字。
彼女は、それを素早く組み上げていく。
――“現在、受け取りに応じることはできない。
諸事情により、
当該天使の処遇については
後日こちらから説明する。
当方としては、
現状、貴国に対して特段の害意を持つ者ではない
と認識している”
最後に、
ほんの一行だけ付け加える。
――“害はないはずなので”
ラケルは、
その文字列を見つめて、
喉の奥で笑った。
「“害はないはずなので”……ね。
誰の、“何に対する害”の話かしら」
「ラケルさん……」
「送信」
光が、
魔法文字を包み込む。
結晶が、
魔界との連絡路に向けて
淡い光の筋を伸ばした。
やがて、
光はゆっくりとおさまる。
連絡陣は沈黙を取り戻した。
残されたのは、
静かな部屋と、
ふたり分の重たい呼吸だけ。
フィオが、
小さく震えながら呟いた。
「……セラフィナさん、
本当に、拷問されちゃうんでしょうか」
「さぁ」
ラケルは、
椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「魔界の魔族なんて、
何を考えてるか分からない。
“害はないはず”なんて書いたけど――
実際には、
あの子が一番“害”を受けるのかもしれない」
フィオは、
ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。
「セラフィナさん……
ごめんなさい……」
ラケルも、
心の中でだけ、
同じ言葉を呟いた。
――ごめん。
――私たちは、
あなたを守る勇気も、
一緒に落ちていく覚悟も、
持っていなかった。
だからせめて、
直接、あなたの顔を見ないで済むように。
弱く、
卑怯なまま、
天界の床の上に座り続けることを選んだ。
当のセラフィナが、
その頃、魔界の魔族の巣窟で
「おつかれさまです!」「すごいですねこれ!」
と、元気に魔族たちと挨拶を交わし、
掃除と料理に勤しみながら
毎日を楽しく過ごしていることなど――
この天界の連絡室のふたりは、
露ほども知らないままだった。
お読みいただきありがとうございました。感想をいただけると励みになります




