第7回
「融……」
ずっと走り続けて、ようやく停車したバイクシートから下りて横についた和彦が、まるで全て分かったような顔をして俺を見ていた。
今、俺たちの前には、かつて俺の住んでいた家がある。
「入れないよな……もう、ほかのやつらが住んでるもんな…」
見上げる。2階に、電気がついていた。小さな子供のはしゃぎ声と、父親らしい男の笑い声が聞こえてくる。まぎれるように、もう寝なさいという、母親の声……。
「融、泣くなよ……」
弱々しい声で、和彦が言ってきた。
「泣く? 俺が? ……泣いてなんかないさ。俺はべつに……。
泣くほどのことなんか、なかった」
そう、俺は、分かっていたんだから。
あの人は俺のことなんか何とも思ってないって……俺だって、捨てたあの人を赦せないって、俺は、分かっていたはずなんだから。
「泣いてるよ? おまえ。……いや、いいんだ……」
「泣いてなんか、ない。これも、嘘なんだ。今までの思いこみと同じでさ。ほんと、俺ん中、嘘ばっかりで……。
だからこれは、涙じゃない」
千切れる息の下でどうにか言う、俺を抱き寄せて肩に押しつけると、和彦は促すように背を叩いた。
俺はバイクにまたがってるし、もともと俺の方が背、高いし、体格だっていいから借りてるのはあいにく胸じゃなく肩で、しかも借りるには大分猫背にならなけりゃいけなくて、これが結構しんどい体勢なんだが、だからといってこれ以上強がり続け、要らないと突き放せるほど、俺は強くなんかなかった。
「……あの家さ、俺と同い歳の息子がいるんだぜ。知ってたか? 知らなかっただろ、おまえ。いくらニュース見ろって言っても、見るの、アニメかお笑いばっかだし……」
和彦から与えられた場で、せめて声だけでもと精いっぱい強がって、長い間言えなかったことを打ち明ける。
17歳で、まだまだ騒験不足だ。声が震えるくらい、大目にみてくれるだろう。
「そいつも『とおる』っていうんだ。志尾 亨。
早産で、俺より1カ月早く生まれなかったら、きっと、数日しか違わなかったろうな。そうしたらおまえよりずっと近いし、血も半分つながってて、ほんとの『兄弟』だ。
……あの人、本妻の息子の名を俺につけたんだぜ。ったく……ひどい母親だろ?
そうやって、名を呼ぶことで、認知もしてくれない父さんを責めてたんだ。おかげで俺は父さんに疎まれて、名を呼んでもらうどころか側にも寄らせてもらえなかった。俺のこと、完全に無視して。
俺は俺で、いやなじいさんだって思ってて……。
母さん、やっぱりあそこにいたんだよ。こうなるんじゃないかって思ってたから、会いたくなかったんだけど、なんかこう、話が進むとまるでだれかが会いに行けって背中、押してくれてるみたいに感じててさ。いつまでも1人で思いこんだりするなって、勝手な妄想で納得してるんじゃないって……。
けど、ほんとに会うつもりなんかなかったんだ。一目見るだけでいいって、思ってて……。でも、いざあの人の姿見たら、もしかして、なんて思ってさ。
ほんと、ばかだよな、俺。あの人が俺のことなんか忘れてる……ううん、それどころかきらって、あの家で過ごしたことなんか、忘れたがってるって、俺、知ってたのに……。
亨が現れて。おまえ、きっと、あの場にいたら笑ってたぜ。俺たち似てるんだ。完壁そっくりってわけじゃないけど、あいつも父親似で。
だから佳織もあのとき驚いたんだ。海外留学前だから、2年前か。テレビで1度見たことあって、似てるかな? とは思ったけど、まさかあんなに似てるなんてさ。
お……っかしいだろ? この顔が、2つあるなんて、さ……。
あの人、どんな思いであっちの『とおる』と毎日暮らしてるのかな、なんて思ったよ。
俺と暮らしてるときはさ、俺であっちの『とおる』のこと思い出して、悔しい思いとかしてさ。そうしてようやく手に入れた場所で、今度はあっちの『とおる』で俺を思い出すんだ。
いつかやって来て、息子だと公言して、相応の地位を求めるかもしれない俺を。
実際、いいスキャンダルだもんな、先妻の息子と同じ歳の息子、なんて。跡継ぎ問題もあるし。ほんと、父さんが俺を引き取りたがらなかったのも、分かる……」
「そんな、そんな融……!」
「俺が、いつか現れてさ。今の生活をおびやかすかもしれないって、ずっとおびえて……そしてあの人は、面立ちの似てるあいつに俺の姿まで重ねながら、『とおる』って呼んでるんだ。毎日、毎日……」
そう思ったら、なんか、すごく可哀相に思えてきて……。
最後、唇の先だけでようやくつぶやいたら。
「うん……うん、融。うん。分かるよ……」
俺と同じくらい涙声で、ぽんぽん背中叩いてきて……。
ひっでえ慰め方。まるでなっちゃいない。慰め役まで一緒に泣いてどーするんだよ。
頷くだけ、叩くだけ、なんてさ。
普通なら、励ますもんだろ? 落ち込んでるやつ前にしたら。あれだけ普段『兄』を自称してるんだから、こういうときくらいほんとに兄貴の貫禄みせてみろよ……。
ひっぺがして、不甲斐ない、と怒鳴ってやろうか。
そう思うのに、なぜか、垂らした腕に力入らなくて。背中に回された和彦の腕とか、耳元の声が、妙に居心地よくて。
俺は、目を閉じた。
「俺、逃げ出してた。だって、逃げるしかないよな。結局あの人が求めてたのは、『志尾家のとおる』っていう息子なんだから……。
俺は、違う。俺じゃだめなんだ。最初っから、生まれたときから、俺はあの人にとって、『とおる』じゃなかった。
『とおる』は、初めから、俺じゃない……。なら、なら俺は一体……」
俺は、何だ!
俺は『とおる』じゃない。
そんな、やり場のない苛立ちにぎゅっとこぶしを固める。瞬間。
「そんなことあるもんか!」
和彦が、耳元で目いっぱい否定を叫んだ。
「おまえは『とおる』だ! 僕にとって、母さんにとって、クラスのみんなにだって、『本物のとおる』はおまえ1人なんだ! だれにもなれっこない、たとえ秋子おばさんにだって、やらない!
おまえは僕たちの『とおる』だ!」
俺は、ぎゅうぎゅう抱きしめてくる和彦の肩で、こいつ、加減ってものを知らないのか、ばかめ、ただ力こめればいいってもんじゃないんだぞ、などと憎まれ口を思いながら、でも、まあ、いいか、めずらしく兄らしいことを言ったんだから、として、そのまましばらくの間、されるがままになっていた。




