第4回
『娘を誘拐した。無事帰してほしかったら、朝までに20億用意しろ。場所と方法はまたあとで電話する』
「…………あああーっ。とうとうやっちゃったよおーっ。どうしよう、融ぅ……」
ぐるり、緑で縁取られた電話ボックス内、受話器を引っかけた直後、和彦は背中でドアを押し開いている俺に、今にも泣きそうな顔を向けてきた。
「何を今さら。おまえが胸を叩いたんだろうが。「任せろ」って」
こうしてつき合ってやってる俺の親切さにこそ感謝しろ。
「で、でもでもっ! ……これって、犯罪じゃないよなっ? 頼まれたんだもんな、俺たち。誘拐したの、俺たちじゃないし、さっきの電話だって、被害者の彼女本人に頼まれたんだから……なっ?」
「逮捕されたとき、信じてもらえたらいいな」
「…………とおるううううう……っ」
あーはいはい。
いじめすぎたか。
「スマホより追跡される可能性は低いだろ。大丈夫だよ」
本気で涙ぐんでいる和彦をなだめるため、ぽんぽんと肩を叩いてボックスから出る。
問題の張本人である佳織は、土手を下りた川縁で、和彦の制服を肩からはおって星空を見上げていた。
少しだが、眉根が寄っているように見える。
暗いからよく分からない、ということにしておこう。俺は和彦と違って、気に入らないやつを気遣ってやる気なんかないからな。
第一、へたに内情なんか聞いてこいつの目的を知って、これ以上共犯の度合いを強めるのはごめんだ。
この世の中、知らないほうがいいってことは絶対にある。
「おい。和彦が足調達してきたら、さっさとここから離れるぞ」
和彦の気を軽くするため、さっきはああ言ったが、警察と志尾コンツェルンの能力を侮るのは危険だ。
駆け下りてその側につくと、素っ気なく言う。その言葉に、彼女は、不思議そうな目を向けてきた。
「……本当に、似ていらっしゃいますわ」
まるで空気を噛むような独り言。
だれに? とか、何が? とか、わざわざ応じてやることはない。
黙りこんだ俺に、
「行きましょう。
実を言いますと、ここまで進んだ誘拐って当家ではめずらしいんですのよ? 大抵は、1時間とたてず解決します。
ふふっ。このことに、皆が一体どういった反応を見せるか、とっても楽しみですわ」
と強く言って、初めて笑い顔を見せて横を抜けると、車道からパッシングしてくる和彦のほうへ向けて上がって行く。
あの女はほんの数分前、今だ動揺冷めやらぬといった顔をして、俺たちに言ったのだ。
『この騒動に、親族の者がどんな反応をするのか見てみたい』
そのための手助けをしろ、と。
図々しいことこの上ない。
どうして会ったばかりのやつのために、俺たちが危ない橋を渡らなくちゃいけないのか。おまえは自分の興味のために他人を危険にさらしても平気なのか。それに応じることが俺たちにとって名誉であるとでも思っているのか!
命令し、人を動かすことに慣れた権力者特有の、実に鼻につく尊大さにそう怒鳴りつけてやりたかったが、いち速く二つ返事で応じたバカ和彦の手前、のどから先に上げるのはやめることにした。
一歩間違ったら前科者になるの間違いなし。へたをすれば少年院送りだ。そんなやばいことに、ドジでバカなあいつだけ放りこんで、帰るわけにはいかないからな。
いいかげん17にもなった男に、なんでこんな心配してやらなくちゃならないのか。
やれやれ、やっぱり俺のほうがあいつの保護者だ、とため息が出る。
それに――ここまできたら、抗ってもしかたない。そんな投げやりな決心もあった。
人生半分投げている。そう実感するときがしばしばある。
すると決まって妙に腹が座って、周囲がクリアに見えてくる気がする。冬の冷気のような緊迫感に全身の皮膚が反応して、神経が活性化し、貪欲に全てを感じ取ろうとする。
その状態はひどく胸がわくわくして、心地よくさえ感じられて……。
「おーいっ。なぁにそんなとこで1人にたにた笑ったりしてるんだよっ。
ホラ、早く来いって」
待ち兼ねたように手招きしてくる和彦に、
「はいはい」
適当な返事で振り返り、そちらへ向かう。
ゆるやかな土手を埋める丈の短い草を踏みしめるようにして上がりながら、俺は、心を決めると同時に奇妙なことを考え始めている自分に気付いていた……。
◆◆◆
「すご……」
感嘆の声を上げて、和彦は絶句した。
上げられただけマシだ。俺はすっかり飲まれて、ロを開くことすらできなかった。
家が一番近い河井のやつから借りたCBXに強引に3人乗りして、佳織の指示通り走らせた約1時間後。
今、俺たちの前には見たこともない豪邸(の一部)が広がっていた。
世界屈指の大金持ちだということは知っていたが、まさかここまでとは……。
庶民の代表のような俺には全体などとても想像できない、まるで山にも思える壁。佳織の話では、この壁の向こうには直線にして50メートルはある庭と、本館である東館、西館、それに離館とあるそうだが、一体合わせて何部屋あるのか……。
こう、想像力からすら桁1つはずれた物を見せられてしまうと、なんか、あらためて住む世界の違いを見せつけられたようで……。
「か、壁しか見えない……」
どうやら和彦も俺と同意見か、もう笑うしかないような、引き攣った弱々しい笑い声で振り返って俺を見る。
指さした道(直線で軽く70~80メートルはある)の右側の壁は、途切れることなく続いていた。東のほうが明るくて騒々しいところをみると、おそらく正面玄関だろう。くるくるとると回転するパトカーの赤ランプが、角の壁の下のほうにうっすらと映っている。
掩たちは侵入場所として佳織が定めた部屋に一番近い、南東にあたるここから侵入を図るわけだが。
壁自体の高さは3メートルもなさそうだが、当然ながら警報機が設置されており、しかもその上をご丁寧に電流まで流れているらしい。青白い蛇のような火がジジジと鳴きながら走っている。
「このメダルをつけた者にだけ、館内の警報機は反応しません」
そう言って、彼女は襟の下からスチール製の細い鎖を引き出した。先には、薄い銀のメダルがついている。
「ただ、外部警報機のみ特定の周波を要し、それをメダルは声紋照合にょり数秒間だけ発します。
私の声でメダルを作動させ、それを受け取ってからお2人は壁を越えてください。電流は、20秒毎にスイッチしています」
「ついでに、あのまるで灯台のように回転してる警察設置のサーチライト2つもかいくぐって、だろ」
「もちろん電流は人命に関わりますし、人権問題も加わって大変危険ですので、普段は犬を放し、ああいったものは特別なことでもない限り使用しないのですが。今は警察のかたが大勢入っていらっしゃるようですから、きっと犬も犬舎に閉じ込めているか、警備の者が鎖でつないで連れ歩いていると思います」
「……何頭?」
「え? さあ……。警備の者に尋ねたことはないので詳しくは分かりませんが、多分、80か90頭くらいだと思います」
……こともなげに言ってくれるじゃないか。
90頭いる、訓練された番犬を相手にしろってか。1頭でも相当やばい相手なのに。
事ここに至り、和彦じゃないが、さすがに俺も呻きたくなる。だがそんな思いは奥歯を噛みしめてどうにか抑え込み、目を伏せて、俺はくじけかけた気を強引に引き戻した。
こうなると、もう意地だ。
「どちらにせよ、入った途端、陰から襲いかかってくるという心配はありませんわ」
俺たちがすっかり黙り込んでしまっていることからいろいろと察した佳織は、それが救いになるとでも思っているのか、軽くそうつけ足してくる。
そんな佳織は無視して、俺は、電話で言うことを書いたメモを何度も読んで、暗記しようとしている和彦へと向き直った。
「和彦、場所指定の電話が終わったらおまえはここで待て」
「えっ?」
俺の言葉で唐突に現実に戻ったような顔をして、和彦は狐目を狸目にした。
「おまえ、何言ってん――」
「中へ入るのは俺と彼女だけでいい。おまえはここで、俺が戻るのを待つんだ」
「そんなっ!」
そんなも何も、おまえに何かあったら俺はおばさんにどう言えばいいんだよ! ばか!!
「おまえと一緒のほうがずっと危険だ。ここにおまえ1人残していくのも不安なんだぞ。どんなドジやらかして見つかるか、知れたもんじゃない。もし俺の侵入がバレて危なくなったと判断したら、そこのバイクで逃げていいからな。
ほら、鍵をやる。動かし方は分かるだろ? 心配するな、彼女もいるし、俺1人だけなら何とでもなる」
そう言ったら、どうやら多少なりと自覚があったのか、和彦は悔しそうに眉根を寄せたまま顔を伏せてしまった。
そんなにこんな厄介な、危険極まりない所へ人りたいのか、このもの好きが。
とか思って見ていたら、和彦は、いつもの眼鏡を正す動作をしたあと、おもむろに真面目な表情を上げてきた。
「必ず戻ってこいよ。おまえは俺の弟なんだから」
声をひそめ、1文字1文字ゆっくりと、意味ありげに力をこめて言ってくる。
そのいつになく笑いのない声と目に、もしかして、との考えが浮かぶ。
「……俺のほうこそ『兄』だ。おまえより、ずっとらしい」
今度からそう呼べよ、と軽ロでごまかして背を向けたが、俺はこのとき、完全に否定できないでいる自分に驚いていた。
「当たり前だ」と言えなくなっている、自分に……。




